第4話
東京は銀座四丁目。日曜の目抜き通りは、いつにも増して忙しない。
絶えず唸る車の発進音やすれ違う人の話し声が耳を塞ぎ、彼の声も時々聞き取りづらくなる。
今地下鉄にもぐる階段を下るタイミングで、流のハスキーな声はまたかき消された。
「え、何て?」
「あ、別に大したこと言ってないから」
「そう?」
そう言われるとかえって気になってしまうのが、人間の心理じゃないかね。
まあ大方「今日雪降るのかなあ」辺りのことを言ったんだろうけど...。
「『Eight』って人気店になるだけあったな」
「言ったでしょー?並ばなかっただけでも空いてる方なんだよ」
何はともあれ、段差の小さい階段をちょこまかと、ステップを踏むように下るこの男性。
どんな巡り合わせによってか、今隣でぶるぶると寒そうに歩くこの人は、
「また行きたいなあ」
「家出るときはちょっと渋ってたくせにー」
——
ほんとに魔法が使えるわけではない。比喩表現だ。
魔法の種類はそうだな——回復魔法といったところ。
今日も正直言って、目覚めは最悪だった。まだ寝ていたかったのに、起きなければならなかった。流に叩き起こされ、文句を言いながらリビングに歩き、流の焼いたトーストをかじりながら一日は始まった。
体調だってよくはなかった。一昨日あたりから喉が痛かったし、時々頭痛もあった。
それなのに今、このコンディション。
一緒に電車乗ってドーナツ屋でドーナツ食べるだけでこの、数センチくらいなら浮いてしまいそうなふわふわした気分。
科学的根拠は一切ない、でも流がいなければ見られない驚異の治癒能力、これを魔法と呼ばずして何と呼ぶべきか。風邪気味だったこともまるっきり嘘のようだ。
「あっやばい電車出ちゃうかな」
「次のやつ乗りたい?」
「急行の方が早く帰れるもんね」
「じゃあ、ダッシュだ!」
よーい、ドンの合図で、私たちはホームまでの道のりを小走りで抜ける。
「ほい、急いで」
「いや凜子無理するなよ」
「流、足遅いんだっけ?」
「くっ!」
自分で仕掛けてくるくせに、足が速いのはいつも私の方だ。しかも決まって悔しそうな顔をするものだから面白い。つい私も本気を出してしまう。
「遅くねえし!ずるいぞ、走り始めてから靴変えるのは」
「流くん、まさか私にハイヒールで走れと言うの?」
「そうは言わないけど!」
「あ、電車出ちゃうよ」
「やばっ」
改札を抜け、ホームにたどり着き、警告のアナウンスが聞こえる直前なんとか電車に乗り込んだ。
膝に手を当て、息を切らしながら空席に座った。時間的に混んでいなかったのは幸運だった。
「うわぁ、もう当分走りたくないな」
「平池選手、もうギブアップですか?」
「平池選手はね、調整期間に入ります」
ゆっくり頭を後ろの壁に預け、流は目線を上に向けたまま何も言わなくなった。
ふう、と大きく息をついた後も、私が何も話しかけない限りは動かないように思われた。
数分経って、何か言おうと思った。でも、すんでの所で思いとどまる。
——なんか眠くなってきたな。あったかいからか。
そんな声が、聞こえてきたからだ。
——良かった、いい店に行けて。
——凜子、あれでちゃんと休憩できたのかな。とりあえず家帰ったら紅茶淹れよう。
——ん、紅茶パック切れてたんだっけ?
それらの言葉が断片的に、私の頭の中に入ってくる。
我慢できなかった。流がもう目をつぶっているのを確認して、私はにっと顔を緩ませた。
きっと私、絵に描いたようなにやけぶりだったことだろう。
——ごめんね、流。実はこれ、あなただけが使える力じゃないんだよ。
その「心の声」はもちろん、流には漏れないようにした。
彼には悪いけど、物事を丸く収めるためにはこうしているのが一番だ。私は彼の力を知ってから、そう思っていた。
正直これが魔法かどうかは分からなかった。確かに相手の思うことが断片的に聞こえてくるのは非科学的なことだし、流自身も聞こえ始めた時は驚いていた。
でもこれは、変身魔法ほど不思議なことではないような気もする。
なぜと言われても困るが、何となくそう思う。
——夕飯は...何が良いかな...。
また聞こえてきたけど、ここら辺でやめておこう、夕飯のメニューはまだお楽しみにしたいし。
半分寝たような流を横目に、私もしばらくぼんやりすることにした。窓の外で景色が流れていくのを、ただ見ているだけ。
——この景色みたいに、すごいスピードで過ぎていく毎日の中にも、やっぱり停車駅が必要だ。
ぽん、と浮かんできたような言葉がいかにも流の感性っぽくて、自分で笑ってしまう。
でもそれは絶対だ。流がいなかったら今頃の私はどうなっていたんだろう。ぐるぐる停車せずに回り続ける電車なんて何だか空しい。彼のおかげで昨日があり、今日があり、多分明日も頑張れるのだ。
彼が何を隠していようと、何を考えていようと、私は全部読むつもりはない。そういうための能力じゃない気がする。
目に見えないままのものとか、あるのは分かっていても触れられないものとか、そういうのがあったって良いよね、と思う。
ドーナツの穴は結局、あるのだと思う。だってその方がずっと素敵だ。
長々と、取り留めもなくそんなことを考えていた。
「凜子、降りるよ」
「えっ」
いつの間にか、流に起こされた。彼が眠っているのだとばかり思っているうちに、私が寝てしまったみたいだ。
ホームに降り、階段を上る。外はまだまだ明るい。
「うちに帰ったら紅茶飲みたいな」
「平池執事にお任せ下さい」
「そういえば、パックまだ残ってる?」
ふっと思い出したのか、流の頭上でビックリマークが跳ねる。
「そうだわ、買わないとだ。ちょうど今日の晩御飯の野菜買いたいし」
「まずはお買い物だね。流、エコバッグの用意」
「かしこまりました」
ポシェットから慌ててエコバックを探す彼の姿に、思わず笑ってしまう。
「何か面白いことあった?」
手は探りながら流がこっちを見た。彼も何だかよく分からないながらも笑顔だった。
口に出して言ったことはないが、私はこの笑顔が結構好きだ。家に帰ると大体あって、私の毎日をちょっとずつ“良い日”に変身させてくれる笑顔である。
——あ、その意味では流も変身魔法か。
「——ん、今なんか言った?」
「いーや何も」
スーパーまではまだ距離がある。一本道をゆっくり歩いていくのだ。
「あった、エコバッグ」
「でかした」
冷たい風が吹くアスファルトの道に、二人ぶんの足音だけが聞こえる。
今日はこれから、家でティータイム。テレビだけ見て過ごすのも、大いにありだ。
——なかなか素敵な休日じゃない。
鼻歌が自然と出てきた。流が何だよいきなり、と変な顔をして見てきた。
——まあ、魔法使い同士、仲良くやって行きましょ。
「——ね。」
——うん?
今、流の声だった?今、私の“声”に反応したんだろうか?
伝わってしまわないよう細心の注意を払ったはずだけど、ひょっとして...?
流のリアクションは何とも言えない。彼の顔を見ても、聞こえていたのかどうかは判断し切れない。
「ん、どうした?そんなにジロジロ見て」
「いや...何でもないけど」
彼はまた優しい顔で微笑む。
...え、どっちだ。私の声、どこまで漏れているんだ。
心臓のテンポが速くなっていく気がした。裏腹に、ちゃんと表情は真顔をキープする。
魔法が使えても、楽なことばかりではない。魔法と関わりのないみんなは、一体どんな恋愛をしているんだろうと思うことがある。
結局それ以上会話はないまま、私たちは一本道を歩き続けた。
こんなスリルもたまには悪くないと思ってしまうのは、さすがに楽観的すぎるかな。そういう考え方はやめとこうかな。
とにかくまだ、彼の前では気が抜けそうにない。
私はそれが分かって、何だか嬉しいような気がした。
風が一瞬やみ、私たちは日向に出た。真昼の太陽はまだまだ、私たちの頭上でやんわりした光をふりまき続けていた。
魔法使いの休日 すずき @bell-J
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