16時
「おい、どういうつもりなんだ」
「いやあお腹、空いたかなって——」
「上野さん、結局ずっと道に迷ってただけだよね?」
上野さんは痛いところを突かれた、と表情を歪めた。
いやそこは突くだろうよ、と宏明は思う。
何ともひどい一日だ。せっかくの午前授業の放課後、上野さんが古本屋を知っていると言うからついて来たのに、ずっと御茶ノ水駅の周りをうろうろしていた。
「この辺のはずだけどなあ」とぶつぶつ言いながら、いつまでもいつまでも似たような路地を回っていた。
挙げ句の果てには、レストラン。
本屋を見つけるのを諦めたかと思えば、「えっと、お詫びにと言ってはなんだけど、何か奢ります」などと言う。
本屋は諦めるのかと聞くと、ごめん、これは見つからないやと申し訳なさそうにうつむく。
正直この上ないほど腹が立った。何だこの人は。ほとんど初対面のくせに馴れ馴れしく僕を連れ出してきて、散々歩いた結果何も見つからないから何か奢る?
宏明は最初、猛烈に反対した。人に奢られるのはまず嫌だったし、そもそもこういうタイプの人と長く関わるのは本当に体力を消耗する、と経験上分かっていた。
しかし相手も譲らない。
「パフェだけで!パフェだけでも良いから!」と訳の分からない理論で食い下がってきた。
結局宏明の意思はほとんど無視され、何だか見たこともないレストランに行くことになってしまった。
ファミレスだった。多くの選択肢がある中、なぜか彼女はパフェを推し続けた。
本当のところは分からないけれど、その時パフェ類が期間限定で値引きされていたのは、大きな要因の一つじゃないかと思う。
もう下手に抵抗するより従った方が早く帰れるかもしれない。そう悟った宏明は、かなり適当に指差してパフェを選んだ。
「チョコバナナ?それ私狙ってた——」
「同じの頼んだら良いんじゃないか?」
「それだと被って面白くないからな——」
とにかく早く注文してほしい。だが口に出すと別の話が始まってしまいそうで、やはり黙っていることしかできない。
「じゃあこの練乳ストロベリーパフェで」
すぐに呼び出しボタンを押して注文した。
パフェだけ食べにファミレスに来るなんて、一生のうちに一回なんじゃないか、とふと思った。
ところでこれからパフェが来るまでの間、何をしていれば良いんだろう。店員が奥に下がって行く時になって、宏明はそんな心配事に気づいた。
まともに話したこともないような相手だ。でもこの場を持たせなければいけない気がする。
が、共通の話題なんて見つかりそうにない。
一瞬の沈黙も数分、数十分に感じられた。
もはや苦しい。パフェ、早く来てくれ。
「——こういう時の待ち時間さ」
急にしゃべり出したのは上野さんだ。今の無言の期間も、特に苦にしないかのようにさらりと切り出す。
「長く感じることない?」
まさにそんな風に考えていたところだ。
「あるよ」
「よね?待ち遠しいほど遠く感じる。で、気まずいほど時間は長く感じたりして」
いきなり何を言い始めるんだ。
「ほ、ほら私あんまり頭良くないから、こういう変なことが気になっちゃうの。時間って不思議だなって」
「それは——相対性理論の話?」
「そ、そうたい...?」
「ごめん、今のは僕が悪い。じゃあ質問を変えるよ」
水を一口飲んで、宏明はなるべくとっつきやすい単語を選ぶ。
「——タイムトラベルは、できると思う?」
二秒だけ、上野さんは目も口も丸くして固まった。あれ、この話題もまずいかなと思った瞬間、彼女はゆっくり口を開いた。
「未来に行ったり、過去に行ったり?」
「そう。自由自在に」
「そうだなあ、できるかどうか考えるのは難しいけど、何となくできる気がする」
「何となく」
そんな答え方をする人は普段、宏明の周りには誰もいない。
その根拠は?と、つい聞きたくなった。でも聞くべきではない気がした。
「だってみんな、似たような経験はしたことあるでしょ?」
「え、タイムトラベルを?」
身を乗り出す自分に気づき、宏明は慌てて背中の位置を戻す。
「うん。私さっき似たようなこと言ったけどさ、同じ十秒でも、やたら長い時と短い時があるじゃない?あれってちょっとタイムトラベルっぽいよね。それかあれだ、小学校の三年間と、中学校の三年間の長さ、あれ明らかに違うよね」
「ああ、それは僕も考えたことがある。時間の経過はどんどん速くなるんだ。小学校の六年間なんて、今までの人生の半分以上を占めてるような気さえする」
「としたら、私たちがおじいちゃんやおばあちゃんになったら、時間が経つのってどれだけ速くなるんだろうね」
「それは想像しづらいな、計算しようにも無理なことだし」
「いや、計算しろとは言ってないけどさ!あ、そういえば」
何かを思い出した様子の上野さんは、テーブル上にあった紙ナプキンとアンケート用のペンを手に取った。
「計算で思い出した。この前気になってね、やってみた計算があるんだ。」
言いながら彼女は、ナプキンに数字を書いて行く。
『16』
「私は、夜十一時に寝て七時に起きます。だから起きてる時間は十六時間」
「起きるの遅くないか?それで遅刻しない?」
「します。それはともかく、起きてる時間は十六時間」
きまりが悪そうに口を尖らせながら、彼女は続ける。
「で、人間大体八十歳まで生きるとしましょう」
『80』
全部上野さんの向きで書いてあって見づらいが、読み取ることはできる。
「ここで私は考えたの。人生を一日に置き換えたら、一年で何時間分になるんだろう。一時間で何年になるんだろう」
よくそんな疑問が浮かぶもんだな、と思った。なぜか感心してしまう。
「十六割る八十は」
数式をナプキンに書いていく。宏明の頭の中では、書く前に答えが出来上がる。
〇.二だ。つまり五分の一時間、すなわち十二分。
「ね、ということは一年は〇.二時間。これを五倍したら」
解のところに続けてバツ印を書き、ナプキンの上でかけ算を展開する。
答えは一になる。
「一ね。ってことはだよ」
まるで世紀の大発見をしたような目で、上野さんはこちらを見た。
「もし人生が一日なら、一時間で五年なんだよ。私たち生まれて四時間で成人して、もう四時間で四十歳になって、半日で還暦を迎えるの」
すごく感動した口調だったので、なぜか宏明も乗せられて「おお」と声を出しそうになった。
だから何だろう、と言ったらそれまでだ。でも、そんな疑問を持つことに意味はない気もする。
「じゃあ僕たちは生まれてからまだ四時間半、上野さんの生活で言っても午前中だね」
「そういうことよ!そう考えると、夜十一時に寝るまでに、まだまだ色んなことができるわけよ」
宏明はかなり小さくうなずいた。
ふと「あれ、上野さんのペースに乗せられているのか?」と思ったその瞬間、横から声がかかった。
「失礼しまーすこちらチョコバナナパフェと練乳ストロベリーパフェです」
一息に言った店員は、商品を置くとすぐに奥へ引っ込む。
「お、もう来た、早いね」
宏明は全然そうは思わなかった。
「ファミレスだからって全然侮れないね、美味しそう」
「確かに」
それにはうなずけた。思ったよりボリュームのある大きなパフェだった。
「あ、しかもマカロン乗ってる!」
「お、おお、美味しそうだな」
「まずここから食べようかな」
マカロンって何だろうと思った。だが尋ねるタイミングを逃す。
「それでは早速」
上野さんが両手を合わせるので、宏明も倣う。
「いただきます」
「いただきます」
ふと思えば、こんな風に女性と二人で何か食べに行くなんて、初めてのことだった。
だから何なんだ、なんてことないだろう、と自分に言い聞かせる。緊張なんてする場面じゃないだろう、ここは。
「ねえ宏明くん」
ビクッと肩を吊り上げてしまい、上野さんは不思議そうな顔をする。
「ちょっとしたお願いがあるんですが」
「...何?」
「そのチョコバナナ、一口もらっていい?」
え、と声が出てしまった。
数秒の沈黙を嫌がっていると捉えたのか、上野さんはもうひと押しと言わんばかりに手を合わせた。
「お願い!誕生日プレゼント!」
「た、誕生日?」
「今日私誕生日なの、だからちょっとだけ」
「何だよその新情報は」
本当かよ、と思った。
——ちなみにこれは、後で本当だったことが分かる。
「誕生日じゃなくたって別にあげるよ」
「やった!私のも食べて良いよ」
「それだとプレゼントじゃなくて交換になると思うけど、それで良いの?」
「あ、確かに。」
人差し指をこめかみに当てて、上野さんは一瞬考えるような姿勢になった。
「まあ良いや。交換しよう、一口」
「分かった、もうちょっと後でな」
まだ自分のパフェに手をつけていない。まずはチョコバナナが食べたい。
「そうだじゃあさ、代わりに何かもらいたいな」
「へ?」
せっかくスプーンを口の前まで持ってきたのに、その手を止めざるを得ない。
「今、なんて?」
「なんか誕生日プレゼント欲しいよね、せっかくだからさ」
今初めて知ったのに、そもそも上野さんとはほとんど話したこともなかったのに、そんなもの用意してるもんか。
「ないよ、そんなもの」
「ほんとに何でも良いのよ、お花とか」
「逆に聞くけど、僕がお花を普段持ち歩いてるように見えるか?」
「見えません」
と言いつつ、目線は空想の中をさまよう感じにフラフラしている。
「じゃ、じゃあこうしよう、今度なんかの機会があったらちょうだいよ!」
まるでまたこういう機会があることが前提であるかのように、さらっと言った。
「その『機会』がいつ来るかは知らないけどね」
「いつか来るとしたら、で良いから!」
めちゃくちゃなことを言うよなあ、と宏明は後頭部をさする。ここ四時間ほどしか会話していなくても、上野さんがいかに謎の思考回路を持っているかは充分思い知ったつもりだ。
「できれば黄色の花束が良いな、私黄色が好きでね」
「いや聞いてないから、花の詳細とか」
それよりパフェ食べて良いか、と思わず宏明から催促し、上野さんが豆鉄砲を食ったような顔をしたのを見て、やっとスプーンを口の中まで運んだ。
「あ——うまい」
それを聞いて何が面白かったのか、上野さんはにっこりと微笑んだ。
本当にすごく美味しいパフェだった。一口目からそれが分かるなんて、珍しいことだ。
「油断してた、こんなにちゃんとしたパフェだとは」
感激しながら食べる宏明とは対照的に、上野さんのスプーンは意外と動かない。
「——その、練乳いちごのは微妙?」
「いや、すっごく美味しいよ」
何だ、美味しいのか。
じゃあどうしてそんなにペースが遅いのか。ゆっくり味わっているというよりは、一口終わるごとに不自然な時間を置いているように感じられた。
まあ良いか、元々がよく分からない人なんだ、考えてもどうしようもないだろう。
宏明はまた濃厚なチョコレートソースとバナナ、アイスクリームを口に運び、満足感に顔をほころばせる。
そこでふと顔を上げると、ちょうど上野さんと目が合った。
幸せそうに目を細める彼女を見ながら、そういえば上野さんの顔を正面から見るのはこれが初めてかもしれない、と気がついた。
——そしてこの時。
なぜか、この瞬間だった。
宏明の頭の中に、今日のことは当分忘れないかもしれないな、という考えがよぎったのだった。
特別何か面白いことがあったわけでもない。むしろ古本屋が見つからなくて残念な日のはずだ。それでも何か目の前に今見える光景が、悪くない記憶として心の奥に刻まれるような、確かな予感がした。
...しかしその直感めいたものが証明されるにはまだ、時間がかかることになる。
結局この時宏明の印象に残ったものといえば、思いの外美味しかったパフェの味。
それと後々長い付き合いになるとも知らない相手の、とんちんかんなプレゼントのリクエストくらいだった。
四時間 すずき @bell-J
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