15時
なぜか、レストランに行くことになった。
こんな早い時間に、どうして。しかし何となくそういうことになったのだから、説明のしようもない。
しかも宏明くんがチョイスしたのは意外や意外、ファミレスだった。
優子にはない発想だ。どうして今このタイミングで?
「お腹空いてないか」
いや、実は空いている。でもどうして分かったんだ、この人。
「まあ、空いてる、けど」
「じゃあちょうど良いんじゃない?」
どこからこの流れは来たのだったか。駅前の本屋にいて、最近発売の漫画の新巻の話をして、結局それを買って来て、その本屋を出て——。
それで、「何か食べないか?」だ。何の脈絡もない。
ファミレスについてからも、何だか彼は様子がおかしかった。どこがどうおかしいとは言い難いが、何かがいつもと違うような。
「このファミレス、来たことあったっけ?」
「見覚えある?」
宏明くんは口を「お」の字にして首をかしげる。
「何となく...。」
優子の記憶に引っかかったのは、特徴的なメニュー。この店のメニューはよくあるラミネート加工のじゃなくて、机の上にドシッと乗った窓のような木製のオブジェに埋め込まれている。
この大きなメニュー、確かに見たことがある。
「ここはパフェが美味しい所だ。ファミレスだからってバカにできないと思ったね」
言いながら、宏明はメニューの一箇所を指差した。
『チョコバナナパフェ』——確かに魅力的なメニューだった。
「じゃあ私は、このいちごのやつで」
『チョコバナナパフェ』のすぐ下に、『練乳ストロベリーパフェ』なるものがあった。迷わず優子はそれを選んだ。
彼の顔に笑みっぽいものが見えたのは、どうしてだろう。
「顔になんか付いてる?」
「いいや、そういうわけじゃ」
何だかスッキリしないな。モヤモヤした気持ちは胸に抱いたまま、優子はまだメニューを見ていた。
——そういえば、ファミレスにパフェだけ食べにくるなんて、変わったお客さんかしら。
頼んでから気づいても遅いし、宏明くんが美味しいというならそれだけの価値があると信じても良い気がする。
何となく宏明くんの方に目を向けると、彼は手元で何かをごそごそしている。
ビニールの音。どうやらさっき買って来たばかりの漫画に、手をつけようとしているらしかった。
「え、もうここで読むの?」
「読まないけど、ざっと中身が見たくて」
まさかこの場で手に取るほど、彼が漫画に興味を持つとは。
優子にとっても予想外だった。彼は小説とか新書とか、とにかく活字ばかりの本にしか興味がないのだと思っていた。
「じゃあ満足したら私にも見せて」
「あーそれなら、これ先に見て」
すんなり漫画を差し出してくる。
「え、いや私は後で良いよ」
「僕は見始めたら時間がかかる可能性がある」
頑としてその本を突き出そうとする彼に根負けし、優子はそれを受け取った。
彼は案外頑固なところがある。しかも食わず嫌いで、だから漫画の面白さに気づくのにもこんなに時間がかかったのだ。
「絶対内容バラすんじゃないぞ」
「そんなことしないって!」
無駄に用心深いところも彼らしい、かも。
顔がにやけてくるのを抑えつつ、優子は漫画の一ページ目を開いた。
見慣れた、優しい絵柄の扉絵が現れる。
『向日葵 十五巻』
一巻目から優子が目をつけていたこの漫画は、結局大人気コミックに成長した。今回も書店の入り口エリアに平積みだったのだ。
「あ、優子」
さあ読もうという瞬間に宏明くんは言った。仕方なく彼の方に目をやると、彼は全然違う方を見ている。
「そろそろ来るよ、多分あれだ」
彼が見ているのは、確かに注文したパフェを持ってくるウエイターだった。
「え、来るの早いね!」
「前と同じこと言った」
「——前と?」
聞き返すと、宏明くんは眉を吊り上げていたずらっぽく笑った。
「ちなみに言うと、練乳いちごのパフェにしたのも前と同じだ」
「...あっ」
ここまで言われて、やっと気づく。
私、この店来たことある。しかも、宏明くんと。
どうして忘れていたんだろう?店に入った瞬間思い出しても良かったくらい、記憶に残っているはずの場所だ。
「お、思い出した?」
「ごめん、私忘れるなんて」
「最後まで何も気づかなかったら、どうしようかと思ったぞ」
と、そこでウエイターがパフェを運んできた。『練乳ストロベリーパフェ』は、メニューの写真からイメージされる通りの、大きくて色合いの可愛いパフェだった。
そして、思い出した。優子が“前回”にどんなリアクションをしたのか。
「マカロンだ。私パフェに乗ってたマカロンに感激してた」
「そうだな、僕はそこで初めてマカロンなんてお菓子を知ったわけだけど」
「今も変わんないんだね!」
そう、そうだ。全部思い出した。
「思い出したなら、これを」
と、唐突に宏明くんは、手元のカバンを探り始めた。
「これも覚えていれば良いけど」
そして出てきたのは、おおよそ彼の性格からは想像できないような、可愛らしいもの。
「...覚えてるよ。忘れるわけないでしょ?」
「でも一回忘れてたろ」
それはずっと前、宏明くんに一度だけしたことがある、今考えれば妙なリクエストだった。
冗談みたいな、それこそ漫画みたいなリクエスト。
「これ——宏明くんが買って来たの?」
「ああ。やっぱり花屋はあれだ、性に合わないな、ムズムズしてきちゃって」
黄色を基調に鮮やかに彩られた、花束だった。
「覚えててくれたんだ」
大昔にちらっと言っただけなのに。
「何でだろう、なんか覚えてたんだ、こんな変なことばっかり」
「...ありがとう」
宏明くんは、そういうことはすぐ忘れる人だと思っていた。
今日が何の日かも、何回目かも、いちいち数えてはいないだろうと。
でも結局、実際に忘れたのは私の方だったのだ。なんと不覚な。
そして、なんと幸せなサプライズ。
「ほんとに、ありがとう」
「う、上野さんが喜んでくれれば、何よりです」
おどけて何とも懐かしい口調に戻る宏明くん。
その姿を見て、優子の頭の中には様々な記憶が蘇ってきた。
何年も前の記憶もつい昨日のことみたいに、新鮮なままで残っていた。
胸にあふれそうになる気持ちがあった。言葉では表せないけれど、ずっと前から知っている気持ちなのは確かだ。
「ちょっと信じられないなぁ」
「信じられない?」
何を言うんだ、というふうに宏明くんは首をかしげる。
「もうそんなに経つんだね」
不意をつかれたような表情も次第に柔らかくなり、最終的に彼は納得したようにうなずく。
そう、あまりにも一瞬だった。
四、五年が一日——いや数時間に感じられるくらいと言ったら、さすがに大袈裟だろうか。
そういえばあの時そんな会話をしたことも、またふと思い出した。あれは確か、まだ優子たちが高校生だった頃。
——つまり、ちょうど十年前の今ごろのはずだ。
「タイムスリップだな、まるで」
宏明くんは腕を組みながら、半分おどけたように険しい表情を作った。
「不思議な現象だ。」
その顔が何だかおかしくて、思わず吹き出してしまった。当の宏明くんはつられて笑い出さないよう、懸命に難しい顔を保とうとしていた。
結局その我慢は決壊して、彼はくしゃっと笑顔を作った。
それが優子の好きな、いつもの笑顔だった。
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