14時

 困ったものだ。


 そもそもこの人は、本当に宏明が好きなものの魅力を分かっているのか、怪しいところである。宏明をよく分からない場所へ連れ出しては、「ほら、楽しかったでしょ?」と笑いかけてくるのだ。


 行き先のバリエーションは豊富で、古い映画ばかりやっている映画館だったり、雰囲気のある雑貨屋だったり、もちろん本屋だったことも何度かある。


 今回も本屋だ。まだ彼の知らない本屋があるという。本当だろうか?


 優子さんは例によって、宏明の前を迷いなく歩いて行く。彼女の靴音は大きく、音だけ聞けば彼女一人しか歩いていないかのような錯覚を起こす。


 ところでまだ歩くのか。登山サークルの優子さんには何てことないだろうが、こちらはといえばほぼ運動せずここまで来た身だ。長距離をこのペースで歩くくらいなら、もう一駅あとで降りても良かったのではないか。


 「たまには運動しないと。そんな疲れた顔しない」

 「疲れた顔はしてない。でも、本当に場所は確かなのか?」

 「今まっすぐ向かってるよ」


 確かに優子さんの足取りに迷いはなさそうだが、それにしてもそれらしき建物は見えてこない。

 「ほら、着いた」

 「へっ?」


 あまりにも突然言うので、宏明は反応が遅れる。たった今「向かってる」と言っていたじゃないか。

 パッと周りを見ても、書店らしき建物は見当たらない。彼は疑問の意を込めて優子さんを見た。

 彼女は急に何よ、と目を白黒させる。


 「いや、その古本屋はどこ?」

 「古本屋?」

 その困ったような顔は、これまでに何度も見てきた。だが大体この顔を見るときは、宏明も困るときだった。


 「私古本屋に行くなんて——」

 「言ったよ」

 「『本屋』って言っただけよ?どんな本かは何も言ってない」

 「えっ」

 「私が来たかったのは、ここ!」

 優子さんが両手を広げる。その後ろに初めて、見覚えのない店の看板が見えた。


 『光院堂書店』


 「何だ、ここは」

 「新しくできた本屋さんよ」

 聞いたことのない名前だ。試しにその店の前に立ってみる。


 まず、なんて背が高い建物なのだろうと思う。どっしりした店構えで、見たところ三、四階までありそうだ。

 そして店頭には、これでもかとたくさんの文庫本が平積みされていた。どれも傷や汚れひとつない新品だった。


 「もしかして、全部新品なのか?」

 「そう、ここは普通の本屋さんだからね。宏明くんいつも古いのばっかり見てるからさ」

 古いのばっかり、という表現が、宏明の心に強く引っかかった。


 「あのね、優子さん」

 「うん!」

 拍子抜けするような明るい返事に、宏明は小さくため息をつく。どう説明したら良いものか、的確な言葉を探し選んでいく。


 「君はもしかして、僕が何らかの事情で仕方なく、古本ばかり見ていると思ってたのかな」

 優子さんは何も言わない。でもその顔は「イエス」の時の顔だな。

 「今までずっと?」

 「だって、新刊の本見てるとこ私、見たことがないから」

 「それはね、僕が好きで古本を見ているからなんだよ。言ったことなかったっけ?」


 優子さんはなぜかきょとんとしている。なぜ、なぜここでそんな顔になるんだ。

 「そ、そうなの...?」

 「そう。いつかも言ったと思うけど、古本には古本の魅力があるんだ。呼び方こそ古本だけど必ずしも古臭いものばかりじゃないし、少なくとも一度は誰かの手に渡ってるってことは少なからずそこにドラマがありうるわけで——おい、聞いてる?」

 「——ん?」


 ダメだ、聞いていない。彼女の視線はずっと、一点を見ている。

 何を見ているのかと思ったら、漫画コーナーの一角だった。


 宏明は生まれてこのかた漫画にはどうも興味が持てず、読んだことも手に取ったこともなかった。だからその魅力も分からない。


 「とにかく、古本屋で欲しい本が見つかるっていうのは、偶然なんだ。一期一会の出会いというか。僕はそれを楽しみたいんだ、行けば大体の商品が必ず揃っている書店に来ても、そういう感覚は味わえない」

 「...ふうん」


 一気にしゃべったせいで喉が乾く。

 ——どれだけ伝わったろうか、僕の言いたいことは。


 何度同じことを言ってもこの調子だから、いくらも彼女には響いていないだろう。語るだけ無駄かもしれない。

 そもそも話の通じない上野優子と本屋巡りしている時点で、時間の無駄ではないかと言われれば、反論はできない。僕は一体何をやっているんだろう、と思うことはしばしばある。


 それでも彼女の誘いに乗ってしまうのは、なぜだろう。

 「...で、君はさっきから何を見てるの?」

 え、と優子さんはこちらを向く。不意を突かれたのか、まん丸い目をしていた。


 「私、ずっと同じ所見てた?」

 「その漫画の所ばかりね」

 言った途端、なぜか優子さんの顔がみるみる赤くなっていく。


 「いや、その——私も、何か本を好きになりたいと思って」

 「それで、漫画を?」

 「まずは宏明くんみたいに小説を読もうとしたんだけど、そしたらどうも文章が頭に入ってこなくて...。」

 「はあ」

 初めてそんなことを聞いた。漫画とはいえ、彼女が少しでも活字に興味を持つ気配は感じたこともなかった。


 「漫画って——面白い?」

 何か言わなければならない空気を感じて、宏明は尋ねた。

 戸惑うような目を一瞬したが、優子さんはニコリと笑った。

 「面白いよ。宏明くんも読んでみる?」

 いつの間にか、彼女は得意げな顔にさえなっていた。


 売り場にはまず手に取ろうとは思わないような、派手な色の漫画雑誌と単行本が並んでいる。

 「いや、やっぱり僕は——」

 「ちょうど宏明くんにおすすめしたいのがあってね。これ、『向日葵』って漫画で、まだ一巻しか出てないんだけど」

 勝手に彼女は説明を始めてしまった。


 こうなったら逆らいようもない。宏明は優子さんの持つ漫画の表紙を眺めたり、空を仰いだりしながらその説明を聞いていた。

 真っ青な空に、遠い雲がちらほらと浮かんでいるのが見えた。

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