四時間

すずき

13時

 午前授業の日だった。

 チャイムが鳴った瞬間、上野優子が大急ぎで向かった先はある古本屋だった。


 金曜日になると、彼が必ず立ち寄る本屋だ。いつも大体三十分ほどぶらぶらして、結局何も買わずに出て行く。

 「どうして買わないのにずっと見てるの?」と聞いたら、

 「それ、上野さんが洋服屋にいる時に同じこと聞かれたら、なんて答える?」

 とすました顔で返されてしまった。


 何も答えられなかった。それは先週のことだ。

 神田宏明、それが彼の名前だ。

 今日もここへ来た。今回は宏明より先に着いて、彼を驚かせようと思っていた。


 店内に入ると、古本屋独特の香りが突然漂ってきた。初めは埃っぽくて嫌だったけれど、最近はもう慣れていた。

 実を言うと優子には、ここに並ぶ古本たちの良さがよく分からない。それでもこうして眺めていると、何か特別なものを目にしているような気になるから不思議だ。


 確実に宏明の影響だろう。彼はさも宝物の山を見るみたいに、一冊一冊の古本をじっくり見つめるのだ。それも毎回、同じ棚を見ているはずなのに。

 どの辺がそんなに面白いのか学校で聞いてみたこともあるけれど、どうもその答えはしっくり来るものではなかった。


 まあともかく彼は本が好きなのだ。高校一年の頃からずっと読書家、らしい。優子は二年生になってからの彼しか知らないが、確かにそうだろうなと見当はついていた。


 店の時計が十三時十分を指す。そろそろいつ来てもおかしくない時間だ。

 と、入り口で足音がした。店の奥にいた優子からはその客の姿が見えなかった。


 「いらっしゃい」

 机の前に座り、ラジオの前で肘をついて新聞を広げている仏頂面の店員が、顔を上げた。

 その表情が優子に向けた時よりはずっと柔らかかったから、誰なのかすぐに分かった。


 そっと本棚の陰に隠れて、彼の姿を確認する。そして分かっていたのに、心拍数が上がってしまう。

 ——やっぱり彼だ。宏明だ。


 体重の半分くらいは占めていそうな存在感のある分厚い眼鏡と、そう高くない背丈を数センチ増しに見せるピンと伸びた背筋。それを見るだけで、彼だと分かった。


 宏明は店に入って数秒で、優子に気づいた。

 「上野さん?」

 「そうよ、上野さんです」

 優子は今日一番の笑顔を見せた。それでも宏明はほとんど表情を変えない。

 「どうしてここに?」

 「どうして?」


 ここで、思っていることそのままを口にする勇気はなかった。

 いや、思っていることそのままって何だ。はっきりした動機などそもそもなかったのだ。


 「何となく、だね」

 「テスト勉強は?」

 「そんな言葉知らない」

 「先週もそんなこと言ってたね」


 特に訝しがる様子もなく、宏明の口調は単調だった。そして呆れたように細かく首を振りながら、前を見たときにあった本棚に目を向け始めた。

 さては、これで会話を終わらせて私を無視するつもりか。


 「今日は何か買うの?」

 「それは分からないな」

 「先週と、何か違うの?」

 「特に違うことはないかな」


 それもそのはず、確かに人けのない本屋だった。一週間経っても、品揃えに変化などない。

 宏明は一秒も優子の方を見なかった。本棚の前にいる時はいつもこうだ。

 「——でも、楽しいの?」

 「そう、楽しいんだ。君の方はそうでもなさそうだけどね」


 皮肉を言ったような口ぶりだったが、痛くも痒くもない。

 宏明の目線はある棚の本から隣の棚へ移り、時々ボロボロになった背表紙の一冊を取り出しては戻し、止まることは一瞬もないように見えた。

 優子も一応は、見ている振りをする。


 『夢十夜・文鳥』

 『クリスマス・カロル』

 『夏への扉』


 名前を知らなくもない本は、いくつかあった。でも読みたいかどうかは別だ。試しに開いてみても、中身はインクの出のバランスが悪い文字や、堅くて息の詰まりそうな文章だ。


 「——ところでさ」

 彼は無言のままだ。聞こえていないかもしれないが、優子は続けた。

 「私、行ってみたいところがあるの」

 「——行ってらっしゃい」

 「宏明くんなら多分喜ぶよ」

 宏明はたった今手にしていた『タイム・マシン』なる本を、パタリと閉じる。


 「本当に?僕が喜ぶのは、ここ以上の品揃えのある古本屋くらいだよ」

 実のところ、優子は行くところなど決めていなかった。

 だがこの一言で、目的地は決定だ。

 「わ、分かってるよ!だから、私が行ってみたいとこっていうのは、古本屋なの」


 やっと、宏明が反応らしい反応をした。

 「この近くに、ここ以外の本屋があるってこと?」

 「あるある!私、一つ知ってるから」

 『タイム・マシン』を棚に戻し、彼は眼鏡の位置を戻す。


 「——もし大したことのない本屋だったら、怒るぞ」

 ごくっと唾を飲む音が、聞こえていなければ良いが。

 「そんな心配いらないから!行きましょ、さあ早く」

 怪しがりながら、それも明らかに乗り気じゃない顔をしながら、宏明はそれでもついて来てくれた。


 「どっちへ行くんだ?」

 「まずは御茶ノ水駅よ」

 「え、駅?地下鉄使うのか?」

 「うん」

 彼はなぜか、口をあんぐりと開けて立ち止まる。


 「僕は、その本屋が近くにあるかって聞かなかった?」

 「近くよ。私にとっては」

 もうさっきの古本屋からは離れてしまった。さすがの宏明も、ここから戻るほどの気力はないらしかった。

 優子は大股で歩いたが、彼はいつもの歩調だという様子で後ろについて来ていた。

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