忘れ狐

北緒りお

忘れ狐

 昔、あるところに男に一目惚れした狐がいた。

 どうにかして気を引こうと、夜道を歩く男の前に姿を見せてみたり、男の住む家の前に獲物を置いてみたりした。

 夜道で姿を見せた時、男の目の前をそのフサフサとした尻尾となめらかな毛並みを満月の明かりの下で披露したが、男は少し驚いたような表情をするだけで、狐から距離を置くように道の端に寄り通り過ぎてしまった。また、貢物として男に獲物を贈ったときは、いぶかしげに貢物に目をやると、その進物がまるまると太ったネズミの骸と気付き、箒と家の中に転がっていた板切れを器用に使い、ゴミ捨て場に放り投げたりしていた。

 姿を見せて、直接男を見ることができたときは、喜びの想いが胸の中を満たし、そのわずかな時間だけでも全身に感動の稲妻が走ったのを覚えている。だが、男は避けるようにして行ってしまい、一瞬にして枯れ木のような気持ちになったのであった。そして、ごちそうを贈ったのにも関わらず、男の顔に笑みがこぼれるところか、眉間に深いシワが寄ったのを見て、狐は物陰で一人涙をこぼしていた。

 人と狐、どうやっても想い合うことができないのか、そう考えると胸の奥に暗く重い泥沼のような絶望が湧いてくるのだった。

 狐の日課は、男の生活とともにあった。朝の時間はどこかへでかけていく男のそばを歩き、まるで影のように近くをひっそりと歩く。夜は男が帰ってくるのを待ち伏せし、闇の中から静かに見つめる。一途な乙女であるがゆえにその視界は男しか入っておらず、視野に男の影が入れば喜び、男が家の中に入り戸が閉まり姿が見えなくなるとうなだれるようにして寝床に帰る日々が続いた。

 その生活は、蝉が騒ぐ頃を越して、落ち葉が地面を隠す季節になった。

 食事にしている獲物は肥え、獲物の食料である果物や作物は実り、すべての命が膨らんでいくようであった。

 まさしく、狐の季節である。

 狐は人を化かすとあるが、この小動物だけの力では人の迷わすには弱い。ただ、野や山、人が踏み入らない動物のみが行き交うところには、人を惑わす植物が生えていることがある。狐はその力を上手に使い、人を惑わしているのだった。どの植物を使えば人をどのようにすることができるか、その因果関係を熟知しているからこそ、見せたい幻影を見せたい形で見せることができる。原因と結果の結びつける乱麻を操り、幻影を見せることができるのだった。

 狐はシダの間に隠れるようにして生えている何本かの茸を吟味するように嗅いで周り、これぞというのを見つけると歯の先で傷をつけないようにゆっくりと挟むと、足早にそこから立ち去った。その足取りは慎重ながらに素早く、決して体に振動を起こさず、穏やかな川の流れを思い起こさせるようなしなやかな動きで駆けていた。

 この茸を大切に扱っているのではなく、茸が持っている幻を見せる毒に触れぬようにする工夫なのであった。

 狐には一つの勝算があった。

 男はすぐそばに狐にいようと気付くことはない。男はいつでも手のひらに持った黒い板を凝視しながら歩いていた。雨で傘を持って歩いているときも、少しでも立ち止まれる瞬間があれば、それを見ている。

 狐にはそれが何であるかわからなかったが、一つだけ明確だったのはそれに化けることができれば男の手の中にずっといることができ、そして常に視線を向けてもらえるということだった。

 狐にとってわからないものであっても、男にとっては何であるかはわかる。

 男の幻は男が生み出すものだから、狐はそれを醸し出す茸を探せばいいだけだった。

 あとは、それを男に仕向けるだけだ。

 狐が化かすとき、その草木や茸を口に含み、霧にするか、もしくは肌の弱いところに刷り込み、その効果が出るようにするのであった。

 狐は一か八かであったが、確実に効果を出せるが、失敗したら男の警戒心を最大限にさせてしまう策に出た。男に口移しでその茸を与えようと考えたのだ。

 男は朝が弱いのか、朝日の中を歩いているときは必ず数度あくびをする。その瞬間に口に含ませてしまえば、狐の意のままになると考えたのだった。狐は、男が毎日通る道は熟知している。柱の影の目立たない隙間から毎朝の動きをつぶさに見つめ続け、日差しが強いときには庇の下に入り信号待ちをしている、そしてまるで癖のように、大あくびをするのも把握していた。

 男は信号待ちの間でもスマホを手放さず、短文の応酬や動画の絶え間ない配信に目をやっているのだった。信号待ちの少しの間であっても画面が見やすいところに移動し、直射日光を避けるようにして手のひらの中の板切れを見つめているのだった。大抵の場合、前夜も布団の中で同じように過ごした名残で寝不足の体は大きなあくびをする。

 朝の誰もいない時間帯なのをいいことに、思いっきり伸びをしながら精一杯のあくびをするのだった。

 狐はその瞬間を見ていた。

 自動販売機の物陰は狐にとって良い隠れ場所であった。

 程よく隙間があり、そして、直線でできている人工物は毛皮で身を包んでいる動物がすり抜けるのには程よく滑りが良く、音も立てずに移動することが得意なものにとっては格好の隠れ場所なのであった。

 狐が男を見つめているのも、この自動販売機、それも上に乗っかり男を眼下に見据える形で見ているのだった。いつもならば、下の方から見つからないようにそっと覗いている。だが、今日はその口元を狙うのが目的であり、一番観察しやすい場所を選び、そしてその瞬間を静かに待った。

 茸はただ舐めただけでは効果が薄い、少しでもいいから裂け目を作り、その中の繊維に触れさせないと目立った効果は出ない。狐の策はその点も押えていた。男の口に含ませるその瞬間の一歩前、狐の尖った歯で茸を噛み、より糸のように細い菌糸が絡み合っている繊維が直接触れるようにして男の顔に飛び込んでいこうとしていたのだった。

 一瞬の出来事だった。

 男は、手に持っているスマホから少し目を上げたかと思うと、目を強くつぶり、大きく息を吸うような姿勢であくびをしようとしていた。

 狐は、その細長い口にやんわりと噛んでいた茸に歯を立てると茸を少し裂き、鼻から飛び込むように男の口を目指して跳ねたのだった。

 男にとっては災難であり、何が起きたのかわからなかった。

 あくびをしたかと思うと、突然毛皮が顔めがけ飛び込んでき、眠気でむくれたようになっている体に朝の空気を流し込もうとしていたところに、なにやらホコリ臭いものが口に入り込んできた。

 男は口の中の異物に反応し吐き出そうとしたが、あくびの途中でもあり得体のしれないものが舌に乗っているにも関わらず、反射的に口を閉じてしまった。すぐに、口の中のものを吐き出すと、ポケットティッシュを塊のまま取り出し、口の中を手荒く拭っていたのだった。さっきまで狐が乗っていた自動販売機にスマホを当てると、ミネラルウォーターを買い、それでなんどともなく口の中をゆすぐ。

 しかし、もう狐の思うままであった。

 茸が少しでも舌に触れてくれれば狐の思うがままになる。

 500ccのミネラルウォーターのほとんどをつかいうがいをすると、スマホをスーツの胸ポケットに入れようとしていた。

だがすでに、スマホは狐で、狐はスマホなのであり、スマホの実態は男が生み出した幻影なのである。

 男は散々口の中を洗い流し、最後の一口分だけ残った水を口に含むと、ゆっくりと飲み流しながら、今さっき起きた出来事をTweetしようとしていた。

 フリックはいつもよりもスムーズに動き、まるで考えただけですべてが入力できる。Tweetボタンは小鳥になり、二言三言の雑言をさも楽しそうにクチバシに刻み羽ばたいていく。LINEの言葉はスタンプと区別がつかなく、すべての流れは虹色の濁流となり手元から目の先まで流れ込んでき、言葉の滝がからだの後ろを流れていく。

 狐は男のスマホとなり、男の見ている幻覚をほんの少しだけ補佐するように、その指先や手の動きを見ながらスーツの胸元に潜り込んだり、首の周りにまとわりついたりしていた。

 狐の体は小さくなり、男の手元に収まるようになる。そして、厳冬の朝、湖面を覆う氷の破片のように薄くなり、男の指の動きを受け止めるのだった。

 男は、茸の酔いの中でも出社を無意識のうちに続けていた。スマホから飛びあふれるイメージの噴水に目を向けながらも、いつものように駅へと向かい、そして電車に乗ったのである。

 狐の知らない男の一面はここに一つあった。

 男はほぼ始発に近い電車なのをいいことに、席に座ると会社近くの駅まで小一時間の二度寝をするのであった。

 いつもならばうつらうつらとするだけで、目的の駅の手前で薄っすらと目を覚ます。

 だが、今は茸の幻影で少し酔っているような状態だ。

 目的とする駅に到着し、その駅名が耳に届いて少しして飛び起き、そして駆け出して電車を降りたのだった。まだ茸の酔いの中にいる状態である。電車の外に出るだけで精一杯であった。

 ほぼ何も持たないで出社する男の数少ない手荷物であるスマホは、まだ電車の中にあった。

 狐はそのまま揺られ、遠くの駅でやっと外に出られたかと思うと、そのまま元の巣には戻れず、男に会うことができなくなってしまったのだった。

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