2.安保法制はなぜ通ったか?

二〇一五年――自民党は「平和安全法制」を提出する。


これは、「集団的自衛権」の使用を認めたものだ。


それまでは、日本国が攻撃されたときしか自衛隊は出動できなかった(個別的自衛権)。一方、日本国と同盟関係にある外国が攻撃された際も自衛隊を出動できる――これが「集団的自衛権」である。


憲法九条の従来の解釈では、個別的自衛権しか認められていなかった。何しろ、「集団的自衛権」では外国の戦争に巻き込まれるのだ。


ところが、その解釈を安倍政権は一方的に変更する。「集団的自衛権」も合憲だと閣議決定し、「平和安全法制」(以下、「安保法制」)を通そうとしたのだ。


当然、安保法制は大きな批判を招く。


私も、二つの意味で不味いと思った。


日本の憲法は既に壊れている。ただでさえ無理のある解釈で、自衛隊は合憲だと言い張って来たのだ。しかし、「やってはいけない最低限のライン」を定めることで、「憲法を守っている」という建前を作っていた。その「建前」でさえも、安倍政権は簡単に踏み超えた。


そうなれば――憲法九条の改正も難しくなるのではないか。何しろ、ルールを変える前にルールを破ったのだ。


憲法九条の改正は私も望んでいる(ただし、自民党の改憲案に賛成するかは別だが)。安倍政権もそれを目指してきた。一方で、憲法九条の改正に反対する声も決して小さくない。


権力側が「憲法を変えたい」と言いつつ憲法を踏み倒していたら、説得力もなくなる。


「安保法制」が提出されて以来、大規模な反対運動が全国で繰り広げられた。国会議事堂前で行なわれたデモでは、「十万人」(主催者発表)の人々が集まったという(実際は数万人ほどか)。


あのとき、デモへの参加を本気で私は検討した。


軍隊は、取り扱いが最も難しい国家権力だ。だからこそ憲法で拘束しなければならない。


ところが、我が国においては「政府の解釈」が事実上の憲法だ。しかも、米国の指示を受けて安倍政権は憲法解釈を変えた。これでは、我が国の憲法は米国の指示も同然である。


しかし、結局のところデモには参加しなかった。


それは第一に、デモ隊の左翼臭が強すぎたためだ。第二に、あのときの私は統合失調症が寛解したばかりで、自身の社会復帰に必死だったためである。


なので、私の行動は最低限のものに留まった――ネット上で反対意見を書き込んだり、共産党員が持って来た請願に署名したり、動画サイトでの国会中継に注視したりしていた。


共同通信の輿論調査では、国民の六割が安保法制に反対していた。また、安倍政権の支持率は、法案が成立する直前には二割程度にまで落ち込んだ。


だが、賛成派の主張にも共感していた。


もしも中共や北韓が日本を攻撃してきた場合、自衛隊だけで国を守れるとも思えない。だからこそ、米国に「守ってもらっている」――莫大な軍事費を肩代わりしてもらっているのだ。その見返りを米国が求めるのも当然だろう。


しかし、安全保障問題に対する具体的な解決策は反対派から聞こえてこない。


全国的な反対運動に拘わらず、安保法制は成立する。


あのときの私の虚脱感については詳述しない――それ以上に虚脱することがあったのだから。


安保法制が通った後、「民主連合政府を作る」とアホなことを共産党は言い始めた。つまり、安保法制を廃止するために民主党と共闘して選挙で勝ち、政権を取ると言うのだ。


――いったい何を言い出すのか。


民主党政権が国民から見放されたのは、その数年前だ。ましてや、共産党に政権を任せたい国民などほぼいない。どうあれ、与党以上に信頼がないのが野党である。


「民主連合政府」の詳細を共産党員から聞かされたのは、法案が通ってから一、二か月ほど後――共産党が開催する「赤旗まつり」に誘われたときだ。


小規模な祭りだった。舞台では「安倍やめろ」と歌う人がおり、フリーマーケットが開かれていた。ほぼ中高年しかいない。片隅には、民主青年団やらSEALDsやら、十人以下の若者が集まっているスペースがあった。そこに私は誘導された。


やがて共産党の参議院議員が現れる。


「戦争法を通した安倍政権に対する国民の怒りは絶頂となっています。来年の参議院選挙からは、民主党と共闘します。そうして、民主党と共に政権を転覆させ、連立政権を組むのです。」


説明を聞かされたあと、私は尋ねた。


「共産党と民主党に政権を任せることを不安に思う国民も多いはずですが?」


「それは存じております。しかし、あくまでもこれは戦争法を廃止するための政権です。つまり、そこまで国民が不安に思うのであれば、戦争法を廃止したあとに、衆議院を解散すればいいのです。自民党政権に戻ることを国民が望むのならば、戻るでしょう。」


呆れて何も言えなかった。


しかし、SEALDsや民青など、私の周りの同年代の若者は、初めて政治家と話して舞い上がっていたようだ。やや興奮気味の口調で、「運動のとき大変なことは何でしたか?」などと参議院議員にインタビューをしていた。


参議院議員が去った後、「あんなの無茶苦茶だよ」と私は民青に言った。


「ただ安保法制を廃止するためだけに、共産党に国民が政権を預けるわけがない。そんなことよりも、安全保障上の対案をちゃんと出すべきじゃない?」


すると民青の一人が言った。


「共同通信の調査結果では、国民の半分以上が『戦争法』に反対してましたよ。国民が怒ってなきゃ、国会議事堂の前に十万人も集まってないでしょ。」


を彼は混同していた。


私はこう続ける。


「左翼が何人集まっても、国民の意志というわけじゃないよ。それに、多くの国民は、中国や北朝鮮が攻撃してきたときの不安だってあるんじゃない? それについてはどう思ってるの?」


「攻撃する理由がないから攻撃してこない。」


まさか意見はこの人だけではないだろう――そう思い、別の民青にも「君は?」と尋ねた。彼もまた「攻撃してくる理由がない」とだけ答えた。


「中国や北朝鮮の指導者が、常に冷静にものを考えるとは限らないけど?」


「中国人は冷静じゃないって言いたいんですかね?」


「そうじゃない。クリミア侵掠みたいなことが、尖閣で起こらないとは限らないでしょ?」


「自分の主張に都合のいい想定ばかりするんじゃない。」


そのとき、酷く見下した視線を彼は私に向けた。


咄嗟に、何を言えばいいか分からなくなった。


安全保障の問題について、彼らにも何か意見があるだろうと私は考えていた。安全保障上の問題で国民が感じている不安を、彼らも感じ取っているはずだと思っていたのだ。しかし、武力の均衡が平和を作っているという認識さえ彼らにはなかった。


それ以上、民青とは話していない。


一方で、安倍政権の支持率は、二割近くにまで落ち込んでいた。


私は心の中で期待した――せめて安倍政権が倒れてくれることを。


ところが、その二か月後、落ち込んでいたはずの政権支持率はV字回復してしまう。


――なぜ、こんなことが起きたのか?


安保法案には六割以上の国民が反対し、それに伴って支持率も落ちたはずだ。


これが朝日新聞の調査なら、読者層が偏っているとも考えられる。しかし、どこの報道を見ても世論は似たり寄ったりの傾向だった。


だが――やがて気づかざるを得なかった。


多くの国民が安保法制に否定的だったのは事実だろう。「憲法違反の法律を強引に通すことはいけない」という認識はあったはずだ。


しかし、そこまで明確な政治的意見を多数の人は持っていない。


もっと、漠然とした意志の方が強かったはずだ。


すなわち、「憲法違反はいけない」という気持ちと、「安全保障上、この法律は必要では?」という気持ちが併存していたのではないか。


大多数の日本国民の本音はこうだ。


「憲法違反はいけないけれども、通過しちゃったらしちゃったで、それは仕方ないよね。」


そもそも、日本の憲法は既に壊れていた。何しろ自衛隊が存在するのだ。そんな中で、「憲法違反の法律が通る」と叫んでも今さらだったのではないか。


強引に解釈されていた憲法が、ほんの少しだけ、強引の幅をさらに広められただけなのだ。


現在、LGBT活動家たちは、「国民の大多数が同性婚に賛成している!」と叫んでいる――「同性婚賛成こそが民意なのであり、自民党はそれを踏みにじっている」と。同じようなことは、LGBT法案についてもよく言われている。


立憲民主党や共産党もそれに歩調を合わせている。


それこそ、あのときの民青の二の舞なのだ。


同性婚やLGBT法案をよっぽど国民が熱烈に望んでいたのならば、その言葉にも説得力はあろう。だが、大多数の国民は「とりあえず賛成」なのだ。しかも、そんなことよりも気にかけていることが国民には(多くの性的少数者には)山ほどある。


だからこそ、選挙の結果は変わらない。

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