立憲民主党と共産党は憲法を守れ!

1.既に壊れている日本の憲法。

何度も述べた通り、憲法二十四条と同性婚は衝突する。


【第二十四条】婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

② 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。


基本的な確認だが、憲法とは何のためにあるのだろう。


「法律の大きなもの」と思っている人も多いのではないか。しかし、そうではない。憲法とは、国家権力を拘束するために存在する。


人間は必ず暴走する。もし刑法も民法もなければ、殺人も放火もし放題だ。だからこそ、人民の自由を拘束する法律が存在する。


しかし、そんな法律を作る国家権力も暴走する。国家権力が人民を蹂躙した事例は枚挙にいとまがない。だからこそ、国家権力を拘束する憲法が存在する。極言すれば、憲法を守るべきなのは国家権力であって、人民ではないのだ。


そう言うと、「では、憲法に書かれている『国民の義務』とは何か」と反論する人がいる。「憲法が人民を拘束するものではないなら、なぜこんなものが書かれているのか」と。


これには、「例外的な条項だ」と答えることができる。


いわゆる「国民の義務」は、「社会を維持する最低条件」として書かれたものだ。


ただし、本来ならば、「国民の義務」というものは憲法に書くべきではない。「法律に基づいて国は国民に課税することができる」「教育を受けさせることができる」というふうに、国家の行なうことの出来る権力や義務として規定すべきだったのだ。


事実、様々な理由から、納税できない者・就労できない者・就学できない者がいる。もしも憲法が国民を拘束しているのなら、これらの存在について述べていないのは可怪おかしい。


日本国憲法の最後には次の一文がある。


【憲法九十九条】天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。


国民は入っていない――憲法を守るのは国民ではないのだから。


事実、アメリカの憲法にもドイツの基本法(憲法)にも「国民の義務」なるものはない。徴税や徴兵は、国家が行なうことの出来る権力として規定されている。教育にしろ、(ドイツの場合は)国民の権利として規定されている。


もし日本国憲法を改正することとなったら、同時に「国民の義務」の削除を行なうべきだ。


一方、進歩派の中には次の主張を行なう者もいる。


「同性婚は国民の権利の問題である。憲法は国家権力を拘束するものなので、同性婚を禁止しているわけではない。」


一見、もっともそうな理屈だ。


しかし、同性婚を作るのは国会議員であり、国会である――国家権力を以って定められるのだ。それを忘れてはならない。


明確に言えば、憲法二十四条は同性婚を――のだ。


たとえば、複数人との結婚も認めさせろという声が我が国にもある。


しかし、重婚もまた憲法と矛盾する。二十四条にある「両性」という言葉は、「男と女ひとりずつ」としか解釈しようがない。


一部の同性婚賛成派は、「両性」という言葉は、「男と男」「女と女」という意味でも解釈できると主張する。


しかしそれが通るのならば、「男と女さえいれば何人でもいい」とも解釈できる。いや――性別さえあれば動物とでもいいとも解釈することができるし、「無性」も含まれるのだから物とも結婚できるとも解釈できる。


このような解釈も国家権力の暴走だ。


そればかりか、日本の憲法は既に壊れている。


なぜならば――「憲法九条」という地雷を抱えているのだから。


【第九条】

日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


この条文をそのまま解釈すれば、自衛隊など日本にはあってはならない。


しかし、安全保障の問題を考えれば、一切の戦力を保持しないなど現実的ではない。ならば、普通は変えるしかない。だが、この問題を国民も国家も放置してきた。ただ、口先で言葉をもてあそんできただけだ。


「国際紛争を解決する手段」――とは、国と国との間で問題が起きたとき、武力で解決してはならないということである。


しかし、こちらがその気がなくとも、某国がミサイルを撃ち込んできた時は、武力を行使して撃ち落とすしかない――国権の発動たる戦争で国民を守るしかない。


「陸海空軍その他の戦力を保持しない」――とは、あくまでも「前項の目的を達成するため」のものである。仕方がない場合に備えて最低限の戦力を保持することは違憲ではない。


と――少なくともそう解釈されてきた。


憲法とは、こんなふうに口先だけで弄ってもいいものではない。しかし、この問題に対して真面目に向き合うことは国民にはなかった。


もちろん、憲法九条のお陰で、米国の侵掠戦争に巻き込まれずに済んだ側面もある。だが、それならばそれで、侵掠戦争を二重三重に予防する条項を提案することも出来たはずだ。


どうあれ、誰の目にも明らかな矛盾を抱えたまま日本国憲法は運用され続けてきた。結果、憲法に対する国民の意識はいい加減なものになってしまった。


憲法など、こんなふうに口先で運用すればいいという認識になったのだ。


その問題が露呈したのが二〇一五年のことである。

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