2.「杉田論文」には何が書かれていたのか?

「杉田論文」には何が書かれていたのか――。


実は、「杉田論文」は『新潮45』八月号の特集「日本を不幸にする『朝日新聞』」の一つとして書かれた。ゆえに、朝日新聞や毎日新聞など進歩派メディアへの批判から論文は入っている。


これら進歩派メディアの姿勢は、性的少数者の権利を認め、その「生きづらさ」をなくし、差別を解消し、多様な生き方を認めさせようというものだ。そこに杉田は違和感を覚えるという。


「しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。」


この冒頭からして批判が寄せられた。つまり、「杉田水脈は『同性愛者差別は日本にはない』と言っている」と主張する者がいたのだ。もちろん、そんなことは言っていない。しかも、そんなに差別はあるかと言われれば当事者である私も首を捻ってしまう。


「そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、『非国民だ!』という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。(後略)」


欧米の同性愛者迫害の歴史を知る人ならば共感するに違いない。「非国民だ」と言われてきたどころか、犯罪者とされ、精神疾患とされてきたのだ。日本とは全く土壌が違う。そこで生まれた運動や理論が、はたしてそのまま我が国に当て嵌められるのか。


また、杉田はこうも言う。


「LGBTの当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。」


性的少数者たちから多くの共感が寄せられたのがこの文だ。


カミングアウトする相手が最も難しい相手は誰か――親なのである。


同性愛であろうが何であろうが、他人がやっている分には日本人は気にしない。我が国は「同性愛者に寛容」というより、「他人の性的特質セクシュアリティを気にしない」社会と言えるのかもしれない。だが、レゴブロックのように継ぎぎすることのできない「親子」の関係は違う。


進歩派のメディアは「LGBTの生きづらさ」を「社会制度」のせいにし、その解消を謳っている。しかし、「親の理解」について、「制度を変えることで、どうにかなるものではありません」と杉田は言う。逆に言えば、この点さえ解決されれば、同性愛者にとって日本は生きやすい社会ではないか――と。


この主張は核心をついている。


LGBT活動家や左派勢力や野党の主張は、何かの「制度」が出来れば性的少数者は生き易くなるというものだ。一方、「親の理解」という、大多数の当事者にとって最も難しい点を指摘したのは杉田が初めてであろう。「制度」によってそれは変えられるのか――検討を要する。


杉田自身、「『生きづらさ』を行政が解決してあげることが悪いとは言いません」とは言う。一方、「行政が動くということは税金を使うということです」と釘を刺す。


「例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBT税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。」(傍点著者)


その直前までは、「LGBTの生きづらさ」を解消するために何か制度が必要かという話だった。ところが、ここへ来て「LGBTのカップル」のために税金を遣う必要があるのかという話にスライドしている。


「生産性」という言葉より気になるのは、杉田の論旨の一貫性のなさだ。


杉田の想定する「制度」とは、結局のところ同性婚しかなかったのではないか。ところが、朝日新聞への批判、「度が過ぎる」らしき「LGBTへの支援」への批判、さらには同性婚への批判が脈絡なく並べられているため、論旨が分かりづらい。


では、「同性カップルは子供を作れない」ことを「生産性がない」とすることの是非はどうか。


言うまでもなく、人間ひとに対して遣う言葉では「あまり」ない。事実、「生産性がない」という言葉は「役立たず」という意味でも遣われる。


ただし、ここでいう「生産性」が何を指しているのかは明らかだ。同性間で子供を作れないことなど今さらである。多くの当事者は気に留めないだろう。


また、「結婚」という「制度」を人口の生産手段として考えることは、少なくとも政府くににとっては間違ってはいない。


加えて言えば、杉田が「生産性」という言葉を出したのは「同性カップル」に関する話のみだ。論文を読み進めてゆけば、「税金を遣う必要があるか」という問題で基準としているのは「生産性」ではないと判る。


「ここまで私もLGBTという表現を使ってきましたが、そもそもLGBTと一括りにすることが自体がおかしいと思っています。T(トランスジェンダー)は『性同一性障害』という障害なので、これは分けて考えるべきです。自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、つらいでしょう。性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させて行くのか、それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。」


性同一性障碍と越境性差は違う概念だが、ひとまず置いておく。


この一文に対し、越境性差の神名龍子氏は、「生殖能力を失う性別適合手術に税金を投入してもいいと言っていることは、『生産性』で人を差別する意図がないことの表れである」とした。


越境性別トランスセクシュアルが抱える「生きづらさ」については、「ある程度は」制度で解決できる――誰の目にも明らかだ。しかし、同性愛者はそうではないのではないか――要約すればそうなる。


杉田の基準は「」だ。


同性愛者の生きづらさと越境性別トランスセクシュアルの生きづらさ――政治家に納得させやすいのは後者であろう。「杉田論文」ではそれが如実に表れた。男女の賃金格差やレズビアンの問題で杉田が納得していたのならば、当然、違う内容となっていたはずだ。


論文の内容は、ここから先見性と偏見の入り混じったものに変わる。


個人的な見解だが、杉田が「何となく思っていること」の中には先見性のあるものが随分とあった。しかし、理論武装が脆弱なため、このような文となったのではないか。


つまり、「T」とは違い、「LGB」は「性的(原文ママ)」の問題であると言うのだ。


杉田が在籍していた女子校では、疑似恋愛がよく見られたという。だが、卒業すれば誰もが男性と恋愛した。しかし、「同性同士で恋愛することが普通のこと」とマスメディアが囃し立てれば、異性と恋愛できる人まで「これ(同性愛)でいいんだ」と思い込むのではないか、それは「不幸な人」が増えることではないか――と。


当然、活動家からは「性的と性的を一緒にするな」とか、「好みの問題じゃなくて、変えられない『指向』なんだ」とか、「疑似恋愛と同性愛は違うものだ」とか、「同性愛者が『不幸な人』とは何事だ」とかという批判が寄せられた。


同性愛者が「不幸な人」というのは私も引っかかる。しかし、「同性愛者は不幸な人なんだ」と必要以上に可哀そうぶっていたのはLGBT活動家ではないか。


また、もし杉田が「性的嗜好」と「性的指向」を遣い分けていたり、アルフレッド゠キンゼイの研究を知っていたりしたならば、説得力のある文となった可能性もある。性的指向と性的嗜好の違いなど、虹の中の紫と藍と青の境界ほど曖昧だ。


それに続く指摘はかなり重要である。


「朝日新聞の記事で『高校生、1割が性的少数者』という記事がありました(3月17日付、大阪朝刊)。三重県の男女共同参画センターが高校生1万人を調査したところ、LGBTは281人で、自分は男女いずれでもないと感じているXジェンダーが508人。Q(クエスチョニング=性的指向の定まっていない人)が214人いて、合わせて1003人の性的少数者がいたというものです。それこそ世の中やメディアがLGBTと騒ぐから、『男か女かわかりません』という高校生が出てくる。調査の対象は思春期の不安定な時期ですから、社会の枠組みへの抵抗もあるでしょう。」


驚いたことに、Xジェンダーの割合は、同性゠両性愛者・越境性差の割合を超えていたのだ。


しかし、「Xジェンダー」とは何か。どういう状態の人を指し、どういう基準があるのか――明確に説明できる人はいない。事実、第一章で述べた私と同じ性同一性を持つ人がそんなにいるのか。あるいは、血液型占いのように、「私ってこれかも」と思い込んでいるだけではないか(私自身がそうである可能性もあるのだ)。


はっきり言って、越境性差は今や。その傾向が特に顕著なのは欧米だ。いわゆる「LGBTに理解がある」とされる国では、LGBT活動家は教育現場に踏み込んでいる。結果、性的に迷うことが多い思春期の子供に、「あなたは越境性差だ」と吹き込んでホルモン注射などの治療を行なわせることが頻発している。


この問題については、後に一章丸々当てる。


さらには、越境性差の制服やトイレの問題についても杉田は述べる。


性自認に合った服装を選ぶことはまだいい。しかし、性自認に合ったトイレに這入はいることはどうなのか。「自分の好きな性別のトイレに誰もが入れるようになったら、世の中は大混乱です」――その通りではないか。


先ほども言った通り、越境性差と性同一性障碍では違う。しかし、杉田が混同したのも仕方がない――活動家たちは、意味不明なカタカナ語を遣ってわざと混同させているのだから。「Xジェンダー」だの「インターセクシュアル」だの「パンセクシュアル」だの、「もはや訳が分かりません」と杉田が書いているのも無理はない。


「多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません。現実に海外では、そういう人たちが出てきています。どんどん例外を認めてあげようとなると、歯止めが効かなくなります。」


これも事実である。


例えば、ブラジルでは同性婚も重婚も合法化されたし、コロンビアに至っては三人の男が結婚している。「結婚」というのは「愛」の問題ではなく、社会制度上の問題だ。しかし、「結婚という制度が必要なのは、愛し合う人がいるからです」と言えば、複数人だろうが親子だろうが同じではないか。


事実、自民党でさえそれを推進する可能性は少なからず存在する。


私が不思議なのは、現実的に最も考えられる「重婚」を杉田が挙げていないところだ。まさかとは思うが、あまり挙げたくない理由があったのだろうか。考えすぎかもしれないが、皇位継承問題について杉田はどう考えているのだろう。


そうして、「杉田論文」は次の文で閉められている。


「『常識』や『普通であること』を見失っていく社会は『秩序』がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。」

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