2.男色の日本略史。後編

寺院で隆盛を極めた男色は、やがて皇室や公家へ広まってゆく。『源氏物語』の「空蝉」にも、空蝉の弟・小君と光源氏が男色関係にあったことを匂わせる描写がある。


また、第七十二代天皇・白河は両性愛者であり、近臣として権勢を誇った藤原宗通むねみちや、北面武士である藤原盛重もりしげ平為俊たいらのためとしなどと関係を持っていた。


保元の乱を引き起こした藤原頼長が遺した日記には、様々な男性との関係が赤裸々に書かれている。後の大納言・藤原成親なりちか同衾どうきんしたときの記述は、「ついともに精をらす。まれことなりの人、常にことり。感嘆もっとも深し」と、現代語訳を載せられないような内容である。


男色が爆発的に広まるのは武家が台頭してからだ。


武家の台頭と、武家内における男色の隆興は足並みを揃えていた。女性のいない戦場において小姓を相手にしたのが始まりであり、年長者が年少者に武藝を伝道する中で様式化されたと推測される。


武家の作法と男色が融合したものを「衆道」と呼ぶ。


女性のいない環境では、生死を共にする男同士の関係がある。しかも強い主従関係で連帯している。その絆を強めさせるのが衆道だ。


戦国武将において、衆道は一般的なことであった。武田信玄にも、伊達政宗にも、年下の男性へと送ったラブレターが残っている。


高坂昌信こうさかまさのぶという武将に武田信玄が送った手紙には、こうある。


「一、弥七郎にしきりに度々申し候へども、虫気むしけのよし申し候あひだ、了簡りょうけんなく候。全くわがいつわりになく候。


一、弥七郎とぎに寝させ申し候事これなく候。この前にもその儀なく候。いはんや昼夜とも弥七郎とその儀なく候。なかんづく今夜存知よらず候のこと。


一、別して知音ちいん申したきまゝ、色々走り廻り候へば、かへって御疑ひ迷惑に候。


この条々、いつはりそうろうはば、当国一、二、三明神、富士、白山、ことに八幡大菩薩、諏訪上下大明神、罰をこうむるべきものなり。よってくだんの如し。」


現代語訳すれば、こういうことである。


「弥七郎という男に『やらないか』と何度も迫ったことは事実です。けれど、そのたびに『腹が痛いから』という理由で断られました。本当に何もしてません。このことを分かっていただきたくて手を尽くしているのに、疑われていて悲しいです。もし私が嘘をついているのならば、一の宮・二の宮・三の宮・富士・白山・八万大菩薩・諏訪大社の神々から罰を与えられるでしょう。」


部下へ送った手紙にも拘らず、敬語で書かれている点が特色だ。挙句、領内に祀られている神々を次々に挙げているのだから必死である。


しかし、男色が庶民に浸透していたとは言い難い。どちらかと言えば、これは支配階級のたしなみだった。事実、戦国武将の中で、農民出身の豊臣秀吉だけは男色をしなかったという。


これが庶民にも一般化するのは、江戸時代に入ってからだ。


江戸時代になると、若衆歌舞伎や陰間茶屋と呼ばれる男娼が流行する。「陰間」とは、舞台に立つことのない女形おやま—―女装した役者――だ。陰間茶屋は、そんな陰間たちが春を売っていた場所である。


『東海道中膝栗毛』は、「弥次さん喜多さん」の名前で親しまれる作品だ。これに登場する喜多八も元々は陰間である。


一七一九年に来日した朝鮮通信使の申維翰しんゆはんは、日本で男色が隆盛していることにショックを受ける。そして、同行していた儒学者・雨森芳洲あめもりほうしゅうに「貴国の俗は奇怪極まる」と苦言を呈した。これに対し、「学士はまだその楽しみを知らざるのみ」と雨森は返す。


また、江戸時代には「通和散つうわさん」という薬が市販されていた。これは、トロロアオイの根をすり潰して粉末状にしたものだ。通和散を口に含み、唾液と混ぜ合わせると、肛門性交用の潤滑剤ローションとなる。


男色の文化がある国は日本だけではない。しかし、肛門性交のためにこんな物が売られていたのはさすがに日本だけであろう。


我が国において、同性愛と異性愛に境界はなかった。女性に興味のない男は「女嫌い」と呼ばれていた。同性が好きな者を、「LGBT」という枠に隔離することもなかった。そのような発想は、同性愛者を異常者扱いするキリスト教が作ったものである。


なので、日本の男色文化を指して「LGBT」と呼ぶ必要性は全くない――「あちら」と「こちら」の境界はないのだから。


しかし、このような男色文化は、明治維新を境に下火となる。


男色の衰退に関して、「明治維新になってキリスト教の文化が流入してきたからだ」と言う人がいる。


確かに、同性愛を「罪」や「精神疾患」とする西洋の思想は流入した。明治五年からは、同性愛を禁止する「鶏姦律条例」が施行される(ただし、ほとんど機能したことはなく、十年で廃止された)。


だが、キリスト教の日本人の割合など、現在でも一パーセント未満だ。「キリスト教の価値観が流入した」というだけで男色が一気に消えるだろうか。


実を言えば、江戸時代末期には、武家の男色は衰退の兆しを見せていた。痴情のもつれで殺傷沙汰が起きることも珍しくなく、諸藩によって男色が取り締まられることもあったのだ。


また、日清・日露・大東亜戦争と、列強諸国を相手に戦う時代となったことも見逃せない。


武家の男色は、武士同士の主従関係に基づいていた。しかし、近代化された軍隊において、そのような関係を築くわけにはいかない。また、若衆歌舞伎や陰間茶屋などに見られる通り、日本の男色文化は女装した男性が重要な役割を担っていた。しかし、徴兵制がしかれ、国民皆兵となる中で、女性的な男性は存在を認められ辛くなったのだ。


しかし、男子学生の間で男色はよく見られたという。学生の間で、男色を好む者は「硬派」と呼ばれ、女色を好む者は「軟派」と呼ばれた。森鴎外は『ヰタ・セクスアリス』で、男性に犯されかけた経験を書いている。陸軍幼年学校では、年下の同性愛の相手が「お稚児さん」と呼ばれた。


江戸川乱歩などは、初恋の相手が年上の少年であったという。


近代日本の同性愛者の偉人と言えば、折口おりくち信夫しのぶであろう。


折口は、柳田國男と肩を並べる日本民俗学の巨匠だ。彼の書いた『死者の書』は日本文学の最高傑作と言われる。また、釈迢空しゃくちょうくうという名で多数の歌も発表している。次の歌は、国語の教科書で見たことがある人もいるかもしれない。


「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」

邑山むらやまの 松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅びとの墓」


そんな折口は、昭和十九年に愛人の折口春洋と養子縁組をしている。つまり、事実上の同性婚だった。

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