3.レズビアンと家父長制の日本略史。

男色の記録を指して、「日本の同性愛の歴史」と言う人は多い。


一方、レズビアンに関する記録は驚くほど少ない。


女性同性愛の記述が明確に見えるのは、一一八〇年以前に成立した『とりかえばや物語』である――女性的な性格の若君と、男性的な性格の姫君が立場を交換する物語だ。どちらかと言えば、越境性差トランスジェンダーの物語と言えるかもしれない。


ただし、『とりかえばや物語』は、いつごろ今の形となったのか不明な点が多い。女性同性愛の描写が最初から存在したのかも判らない。


ゆえに、鎌倉時代に成立した『わが身にたどる姫君』という物語を先とする説もある。この第六巻では、嵯峨天皇の娘が周囲の女性と同性愛にふけってハーレムを作る描写がある。


このような例を除けば皆無と言っていい。


江戸時代に作られた浮世絵には、男色を扱った春画は腐るほどある。しかし、女性同性愛を扱ったものはほぼない。レズポルノやら百合漫画やらを消費している現代の日本男性とは違い、かつての日本人男性は女性同性愛に関心を持っていなかったのだ――男色に明け暮れるばかりで。


それは、我が国が男性中心の社会であり、女性同士の関係が顧みられなかったためである。事実、男性同性愛は「男色」と呼ぶが、女性同性愛は「女色」と呼ばない。それは男性目線の言葉だからだ。


ところで――フェミニストの中には、やたらゲイを持ち上げる者がいる。「LGBT」の問題に私が疑念を抱くきっかけを作ったフェミニストもそうだった。どうも、「ゲイも女性も男性社会ホモソーシャルの犠牲者なのだから仲間」と思っているらしい。


しかし、フェミニストが共鬪すべき存在はレズビアンだけではないか?


この日本社会で、ゲイが何の不利益を受けるのだろう。男性が優遇される社会で苦しむのはレズビアンだけだ。そればかりか、ゲイの中には女性嫌蔑ミソジニーの強い人も多い。腐女子でもない限り、ゲイなど女性には何の利益ももたらさない。


また、「ゲイ」や「男色」と言われるものに潜む女性嫌蔑ミソジニーを考えなければ性差ジェンダーの問題は語れない。実際、日本で男色が隆盛するようになった過程と、家父長制が確立してゆく過程はぴたりと一致する。


柳田國男によれば、「結婚」という言葉に当てはまる言葉は正確には我が国にはなかったそうだ。近世以降は「嫁入り」と言ったが、これでさえ新しい言葉である――元々は「むこ入り」といった。


日本の婚姻の形態は、むこ入り婚から嫁入り婚へと変遷してきたのだ。


古代の日本の一般的な婚姻の形は「妻問い」であった。つまり、女性の元に男性が通い続ける形態である。女性は一歩も家から動かない。婚姻の儀式も女性の家で行なわれた。子供が生まれると女性の元で育てられ、大きくなると男性の元に預けられた。


当時、異母兄弟は兄弟と考えられていなかった――たとえ父親が同じでも、母親が違えば兄弟ではない。それは、同一人物から生まれていないためであり、また、育てられる環境が違うためでもある。ゆえに、異母兄弟の結婚も普通に行なわれていた。


このような婚姻形態は、昭和に入っても日本のあちこちに残っていたという。民俗学者の大間知篤三は、昭和三十三年の時点で日本に存在したむこ入り婚の形を以下の通り分類する。


【終生的むこ入り婚】女性が生家から一歩も動かないもの。

a.住み式――嫁の家に聟が住み付くもの。日本においては、聟養子を除いては見られない。ただし、男子を介してのみ家が続くという儒教の考えとは異なり、女子を介しても家が続いてゆくという我が国の考え方があって成立している。

b.通い式――お互いが生家を動かず、嫁の家に聟が通い続けるもの。

【一時的聟入り婚】最終的に聟の家へ嫁が住み着くもの。

a.住み式――ある時まで嫁の家に聟が住み、後に聟の家に移り住むもの。

b.通い式――ある時まで嫁の家に聟が通い続け、後に嫁が聟の家に移り住むもの。日本全国に広く分布した形態であり、最も主要な形態である。


聟入り婚には次の特徴があるという。


・村内婚的な性格が強い(男性が家を往復するのだからそうだろう)。

・結婚相手の選定は本人の自由であり、親が後に承認する場合が多い(女性に拒否権があったと言うことでもある)。


一方で、嫁入り婚は次の特徴がある。


・遠方婚姻的な性格が強い。

・恋愛は否定され、婚姻相手は親によって選定される。

・結婚以前の私的な交わりは、本人同士のものであっても不倫とさえ見なされる。


つまりは、聟入り婚は自由恋愛的な性格が強いと言える。女性にとっても、聟の家庭事情を知るための期間が置かれるというメリットがある。


しかし嫁入り婚の場合、女性の身柄も所有物も聟の家のものとなることが望まれた。そうして、一夜にして未知の家庭環境へ引きずり込まれたのだ。


聟入り婚が一般的だった時代は、女性の地位が比較的高かった――それは、女性と家を男性が支配していなかったからだ。


皇室の祖先は天照大神という女神であり、持統天皇・斉明天皇・元明天皇・元正天皇など、奈良・平安朝には多くの女帝が活躍した。特に、四十三代天皇・元明(女帝)から四十四代天皇・元正(女帝)への皇位継承は、母親から娘へと行なわれている。


女帝のことを「一時しのぎ」「中継ぎ」と言う人がいる。しかし、それは誤りだ。もしそうならば、母から娘へと皇位が継承されたわけがない。また、持統天皇が三十七年間も在位していた理由もない――他の皇族へとすぐ譲位していたはずである。


古代には、家父長制が定着していなかったのだ。


家父長制の定着は武家の台頭と始まる。


嫁入り婚も武家から広まった。武家の時代は武力の時代であり、女性の権利が抑圧された時代である。


聟入り婚から嫁入り婚への転換は、我が国の婚姻に起きた最も大きな変化だ。同時にそれは、女性を家庭の従属物とすることの始まりだった。


武家は主従関係で結ばれた集団だ。夫婦の関係も、主従関係に準ずるものと考えられた。遺産相続でさえも、兄弟や女性に平等に分け与えられるのではなく、長男が一括して相続することとなった。


男色の歴史を思い返してほしい。


最初、それは寺院で広まった――女性は「穢れたもの」とされて遠ざけられた中、立場の弱い稚児が性慾のけ口にされたのだ。続いて、皇族・貴族へと浸透し、やがて武家において爆発的に広まる。武家で広まった理由は、男性同士の密接な関係があったからだ。男色が庶民へと広まるのは江戸時代に入ってからである。


嫁入り婚と男色が一般へ浸透するのは同時と見ていい。支配階級の文化を非支配階級が真似るのは世の常だ。家父長制も男色も、武家から一般へとじわじわと拡まったのである。


我が国における男色は、男尊女卑の一形態だった。


男性社会ホモソーシャルは、男性同士の深い絆と女性嫌蔑ミソジニーによって成立する。我が国では、男色という形で男性の絆が深められ、嫁入り婚という形で女性が支配下に置かれた。


キリスト教では、男性は、女性を獲得して支配すべき存在とされてきた。しかしゲイにはそれができない。それゆえ、ゲイは女性的で軟弱な存在だと見なされて排除されてきたのだ。だからこそ、欧米のゲイ解放運動はフェミニズムと親和性を持っている。


だが、我が国では男性同性愛とマッチョイズムが長らく等号符イクォールで結びついてきた。女性を排除し、男性同士でつながるために男色が行なわれたのである。


しかし明治維新以降になると、女子にも教育の場が与えられる。それまで記録されなかった女性同性愛が、女性自身の手で記録されるようになるのだ。


女学校では、女生徒同士、あるいは女性教師との間で恋愛関係が生まれることも珍しくなかった。それは一九一〇年(明治四十三年)ごろから見られ、「お目」「おでや」「S」などと呼ばれていた。「S」とは、Sister の頭文字から取った隠語である。


一九一一年(明治四十四年)には、女学生同士の心中事件が新潟で起きている。以降、女学生同士の心中が頻発して問題視されるようになった。しかし、少女同士の親密な友情との区別がつきづらいため、学校側も積極的に取り締まれなかったという。


家父長制の中、卒業したあとには嫁入りすることが――男性の支配下に置かれることが――少女たちには定められていた。対等で自由な関係を結べたのは女学校の中だけだったのだ。一方、卒業後も関係を続けている者は「老嬢」と蔑まれていたという。


そんな中で人気を博した小説家が吉屋信子だ。


吉屋の『花物語』は少女小説の傑作と名高い。これは、様々な花にちなんだ出来事に関する少女たちの物語であり、同性愛的な内容のものも多い。一説によれば、女性同性愛を扱った創作物を「百合」と呼ぶのは、『花物語』の「白百合」に由来するという。


そんな吉屋もまた、年下のパートナーと養子縁組をしていた。

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