同性愛者は「弱者」なのか?

1.男色の日本略史。前編

前章では、欧米の同性愛者を取り巻く事情について述べた。今回は、我が国の同性愛の歴史について触れたいと思う。


ただし「同性愛」と言っても、男性同性愛と女性同性愛では大きく異なる。ゆえに、記録が多く残っている男性同性愛についてまずは述べる。


一般的には、我が国の宗教は同性愛を禁じていないと言われる。


本当だろうか?


一説によれば、日本で初めての男色の記録は『日本書紀』にあるという。


神功皇后摂政二年(西暦二〇二年?)、昼にも拘わらず真っ暗になった。古老によれば、これは「阿豆那比あづなひの罪」――二つの神社の神職を同じ墓に葬ったことが原因だという。


追及すると、村人の一人が証言する――「小竹祝しのはふり天野祝あまののはふりという仲のいい神職がいた。しかし、小竹祝しのはふりが病死したとき、天野祝あまののはふりが後を追って自殺してしまったので、共に葬った」。


それゆえ、改めて二人を別々に葬ったところ、昼は再び明るくなる。


この「あづなふ」は「からみつく」という意味であり、男色の罪だという説がある。


しかし説得力は薄い。男色そのものが罪ならば、生前に祟りが起きているはずだ。「阿豆那比の罪」について、「二社の祝者はふり共に合葬あわせおさむるか」と日本書紀は説明している。「あづなふ」とは「相埋あひうづなふ」のことという説もあり、こちらの方が説得力が感じられる。


神に奉仕すべき者が、その責務を放棄して死んだ、そして、他社の祝者はふりと共に埋葬された――これこそが神の怒りに触れたのだ。


個人的には、最古の男色の記録はヤマトタケルの記述だと考える。


十六歳の皇子・オウス(ヤマトタケル)は、九州の豪族・クマソを征伐するよう景行天皇から命じられる。しかし、ろくな従者は与えられていなかった。そこで、オウスは女装して祝宴に紛れ込む。


女装したオウスの容姿に、クマソタケルは心動かされた。書記には、「杯を挙げて酒を飲ませつつたわむまさぐる」とある(この描写は古事記にはない)。


隙を突き、クマソタケルの尻にオウスは剣を突き通した。


尻に剣を刺されたクマソタケルは、自分より強い男がいたことに驚く。そして自分の名前を献上し、ヤマトタケルと名乗るように言って息絶えた。


記紀には様々な性描写が登場する。例えば、イザナギとイザナミが国を産むシーンでは、「くみどに起こし(性交し)」と直截的な表現がある。一方、天照大神が「ぬなとももゆらに(玉が触れ合って鳴るように)」水場で剣を洗って神を産むシーンや、素戔嗚尊すさのをの乱暴によって天服織女あめのはためシャトルを性器に突き刺して死ぬシーンなど――直截的な描写がはばかられる場合は、それを連想させる表現があるのだ。


はっきりとした記録に男色が残り始めるのは仏教が伝来してからだ。


神道とは違い、女性は穢れた存在だと仏教では考えられてきた。悟りを開くことができるのは男性だけであり、女性はその邪魔をする存在だとされていたのである。ゆえに、女性から離れた場所で僧侶たちは修業を積んだ。


そんな中、稚児ちごと呼ばれる少年が性慾のけ口にされたことはよく知られる。


「稚児」の語源は「乳飲み子」だ。つまり寺に仕える少年をいう。また、食事の給仕や僧侶の世話をする者を「喝食行者」というが、「喝食」は稚児の異名である――身の回りの世話をさせるついでに性の世話までさせたのだ。


しかし、誰もが可怪おかしいと思うだろう。


女性との接触を禁じられていたのは修行のため――あらゆる煩悩を捨て、悟りを開くためである。修行の中で最も重要視されたのは「不邪淫戒」であり、全ての性行為が禁止されていた。しかし、少年との性行為は悟りへの障壁とならないのだろうか。


事実、男色を行なった者は衆合地獄の「多苦悩処」に、子供に性行為を行なった者は「悪見処」にとされると仏教は説いている。「多苦悩処」では、生前に愛した男が炎で焼かれるのを見せられ、「悪見処」では、自分の子供が性器を傷つけられるのを見せられるという。


――これとどう折り合いをつけていたのだろう?


そこで行なわれたのが「稚児灌頂かんじょう」である。


「灌頂」とは、王位や仏位に就く者の頭に水を注ぐ儀式だ。仏教では、修行者が仏となる儀式として行われる。少年たちは、おおよそ十歳前後で寺に入って読み書きを教わり、十三歳頃に灌頂かんじょうを受けた。


灌頂を受けた稚児は観音菩薩の化身となり、慈愛を以って人々を救うとされた。よって、この稚児とセックスをしても不邪淫戒は破っていないのである。


――は?


ちなみに、寺に預けられた皇族や貴族の子供は「上稚児」、頭の良さを買われて仏道を学ぶ子供は「中稚児」、芸道の才能を見込まれたり寺院に売られたりした子供は「下稚児」と呼ばれた。うち、稚児灌頂を受けるのは下稚児だけである。


しかも、僧侶たちが選り好みするもので、やがて下稚児は美少年だらけになった。


それでも、平安時代後期になるまでは、僧侶の稚児道楽以外では目立った男色の記述は見当たらない。男色が隆盛を見せたのは、あくまでも寺院の中だけだ。庶民からは、寺院に近づけばになる――掘られる――と揶揄やゆされていたほどである。


目立った同性愛の記録が寺院の外で見られるようになるのは、実は十一世紀に入ってからだ。

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