2.同性カップルに育てられた子供たちの声。【後編】

『フェデラリスト』には、同性カップルに育てられたブランディ゠ウォルトンという女性の文章も載せられている。(翻訳元:https://thefederalist.com/2015/04/21/the-kids-are-not-alright-a-lesbians-daughter-speaks-out/ )


ケイティやヘザーとは違い、同性愛者のコミュニティで育てられた経験がブランディにはない。それゆえか、コミュニティに対する態度は冷淡だ。


「私は貴方たちの娘ではありません。貴方たちのデモ行進で虹色の旗を持ったことも私はありません。貴方の代わりに議員などに手紙を書いたこともありません。また、私がレズビアンの娘であることを人々に受け入れてもらう必要性を感じたこともありません。それは恐らく、同性愛者の娘であることを世間に受け入れてもらう必要を感じたことがないからでしょう。」


「LGBTコミュニティのような不寛容で自己中心的なところに私が所属することはありません。このコミュニティは、熱狂的に、そして情熱的に寛容さを要求しますが、時には自分の仲間にさえ寛容さを与えません。実際、このコミュニティは、敵意がないことをどれだけ表現しても、異なる意見を排撃します。」


日本でも、市井の性的少数者から呆れられるほどLGBT活動家は排他的だ。差別の激しいアメリカともなれば、外圧への抵抗はさらに激しい。


ケイティやヘザーと同じように、ブランディの母親も同性愛者でありながら男性と結婚した。しかし、ブランディが一歳の頃に別れてしまう。


「幼い頃から、二人の母親がいるのは不自然なことだと私は思っていました。母親と父親が揃っている友達の家では、特にそれを実感したのです。私は、その友達と出来るだけ過ごそうとしました。友人たちが父親から受けている愛情に私は憧れていました。男の人に抱っこされたり、大切にされたりするのはどんなことなのか、毎日一緒に暮らすのはどんなことなのか、知りたかったのです。」


実母が既にいるブランディにとって、もう一人の母親は必要なかった。彼女の夢は、普通の家庭で暮らすこと――母親が再び男性と暮らすことだったのだ。


二人の母親に育てられたことにより、男性についてほぼ何も知らずにブランディは育った。そのため、大人になってからは男性に酷く利用され、痛めつけられることとなる。しかし、やがて一人の男性と出会い、全てが順調にゆくようになった。そして結婚し、子供を持つこととなる。


「男性が子供を育てる姿を目にしたとき、それは美しく、畏敬の念を抱かせるものに思えました。子供には母親と父親が必要であり、同性間での子育てや独りでの子育ては、異性間での子育てに比べて、よほどのことがない限りは、遥かに劣るものであるという信念を強めたのです。」


同性カップルが子供を持つことは、子供もマイノリティにすることである。すなわち、実の親ばかりか周囲からも孤立させるのだ。


「二人の女性に育てられたことの困難は、男性についてほとんど何も知らなかったことだけではありません。オクラホマ州ポーダンクで育ったことは、公園を散歩するように簡単なことではありませんでした。それ自体は驚くことではないでしょう。しかし、同性愛者の部落で育った他の子供たちとは違い、私はとても孤独であり、孤立して育ったのです。私は一人っ子だったので、周りには私のような子供がおらず、話したり共感したりする相手がいませんでした。私が毎日苦労していることを理解してくれる人はおらず、全てを内に秘めておくしかありませんでした。」


「私の育った環境は、今でも私の人生に大きな影響を与えています。私は子供の頃、自意識過剰で、他人からどう思われているかを常に気にしていました。母がレズビアンであることを友人が知ると、私と遊んでくれなくなるのではないかと常に恐れていました。」


ブランディの経験は、同性カップルが日本で子育てをする状況を想定する足掛かりとなる――アメリカとは違い、同性愛者たちが固まって暮らす風習が日本にはないのだから。


また、ブランディはこうも言う。


「これは氷山の一角に過ぎません。異性愛者の親に育てられた同世代の子供たちに比べ、私たちが同じように、あるいはそれ以上に恵まれているという研究は、ほとんどの場合、科学的とは言えません。あるいは、私たちの全てが恵まれているわけでもありません。同性愛者の親を持つ子供の中には、同性愛者の養子縁組や結婚に賛成していない人もいることは知られる必要があります。同性愛者の中にも賛成していない人がいることも同じです。。」


最後の傍点は原文にはない。しかし個人的に最も共感した部分である。


ケイティやヘザーやブランディの経験は、「普通に考えればそうなるよな」と思えるものばかりだ。だからこそ、ずっと私は引っかかっていた。それなのに、同性カップルの子育てに賛成することこそ「LGBT」のためになるとばかりの言説が溢れている。


――愛情さえあればどのような環境も同じなのか?


そうはならないだろうと思うのだが。愛情とは一種の押し付けだ。「愛情さえあれば、どんな環境でも同じ」なら、「お前のお母さんは初音ミク」と言って子供を育てても同じではないか。


事実、このような経験を語る者には性的少数者もいる。


ロバート゠オスカー゠ロペスは、レズビアンカップルに育てられた両性愛男性である。ブランディと同じように、ロバートも同性愛者のコミュニティとは無縁だった。(翻訳元:https://www.thepublicdiscourse.com/2012/08/6065/ )


「率直に言って、同性愛者の両親の元で育てられることは非常に大変なことでした。それは、近所からの偏見によるものではありません。私の家の中で何が起きているのか、町の人々は全く知りませんでした。周囲の人たちにとっては、私は健全に育っていましたし、成績優秀な子供でしたし、高校はAの成績で卒業していました。」


「けれども、内心、私は混乱していました。家庭環境が著しく周囲と異なったり、基本的で自然な関係までそうであったりすると、奇妙な大人へと育つのです。私には、精神障碍も身体障碍もありません。ただ、あまりに変わった家で育ったので、社会からのはみ出し者として生きる運命にあったのです。」


先ほどのブランディの告白では、男性について何も知らなかったゆえの苦労が述べられていた。しかし、奇妙な家庭環境で育てられえたがゆえか、両性愛者であるがゆえか、似たような経験をロバートもしている。


「同年代の男の子たちは、身のこなしの不文律や礼儀作法を父親のいる家庭で学びます。ある場面で何を言うのが適切で、何を言ってはいけないかを理解し、伝統的な男性の社会構造と女性の社会構造とを学ぶのです。」


「模範とすべき男性像が私には全くありませんでした。母もそのパートナーも、伝統的な父親像や伝統的な母親像とは違っていました。その結果、私には自信がなく、他人に対しても敏感ではなかったので、男性や女性の友人を作るための手掛かりをほとんど認識できなかったのです。」


「異性愛者の両親に育てられた同性愛者には、少なくとも、機能的な求愛の儀式を周囲で見ることが出来たという利点があります。しかし、どうすれば女の子の気を惹けるのか、私には全く分かりませんでした。母の家から一歩出ると、女の子らしい態度・おかしな服装・舌打ち・風変わりな性格から、すぐに仲間外れにされました。」


「大学に入ると、ゲイらしい性格に反応し、学内のLGBTグループはすぐに私の所にやってきました。そして、私が完全な同性愛者に違いないと言い放ったのです。両性愛者だと私はカミングアウトしました。すると、私が嘘をついている、ゲイであることをカミングアウトする準備がまだ出来ていないだけだと彼らは皆に告げたのです。」


ロペスがこのような性格になったことは、間違いなく彼の家庭環境が影響している。次のエピソードで述べるが、生育環境と性格の関係性について、ある教授の研究によってロペスは確信を抱くようになった。


また、別の論文でロペスは次のようにも述べている。(翻訳元:https://www.thepublicdiscourse.com/2013/07/10474/ )


「私が言いたいのは、こういうことです。どんなに立派な母親でも、父親にはなれません。だから、重大な理由による離婚や親の死を除いて、意図的に子どもから母親や父親を奪うことは、虐待なのです。」


「これは同性間の子育てだけでなく、それほど深刻でない理由で、あまり理想的でない環境で子供を育てた場合にも当てはまります。例えば、良い夫婦が他にもたくさんあるのに、独り身の大人が養子を取ることは虐待です。自分たちの感情的な幸福による理由だけで両親が離婚するのも虐待です。同性愛者のカップルが体外受精で子どもを作り、その子どもから母親や父親を奪うのも虐待です。」


「『標準化ノーマライゼーション』は、子供の人生に関わる人々へと一種の沈黙を要求します。二人の同性愛者が親の役割を果たすことができるように、失われた実の親は子供から距離を置くか姿を消さなければなりません。親戚は立ち入った質問を避けなければなりません。表情や身振りで否定的な態度を示してもならないのです。学校や自治会は、父性や母性を祝うことを控えめにしなければなりません(父の日や母の日を中止して『子育ての日』とすることさえあります)。メディアは、レズビアンの母親を主人公にしたディズニー作品など、大規模なプロパガンダキャンペーンを展開し、反対意見や心配を封じ込めなければなりません。全ては愛のために行われているという同性愛者の主張に、誰も異議を唱えないようにしなければならないのです。」


「多くの人が沈黙することで、喪失感は解消されるでしょうか。いいえ。子供は喪失感を抱き続けます。しかし、その喪失を癒したり取り戻したりすることが出来るところは、タブーであり、抑圧されるところなのです。なので、沈黙を学ぶこととなります。結果、虐待は一巡します。」


ロペスの言う通り、同性婚を認めることは、「愛し合う二人が幸せになること」に留まらない。


後に述べることだが、同性婚に疑問を呈する人々や、このように辛い経験をした子供たちに待ち構えているのは、社会的な抹殺なのである。

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