忌諱(きき)に触れる

内田ユライ

忌諱(きき)に触れる

 カウンター席でおひとりさま呑みをしていたら、たまたま隣席となった女性に話しかけられた。


 常連が顔見せにやってきては長居せずに入れ替わる、酔っ払うにはまだ少し早い時刻。

 こぢんまりした居酒屋の店内はカウンター席に六人ほど、テーブル席は五つ。内装はややくたびれているが、日本酒の品揃えがいいのと、肴が旨くて安いので気に入っている。

 このところ残業続きでご無沙汰だったが、めずらしく早く仕事が終わったので、夕飯がてら寄っていこうかと思い立ったのだった。


「家に犬がいるんです」

 彼女は目尻に上品な笑いじわを寄せて、柔らかな声音で話す。

 明るい色に染めた髪が緩い波を作り、肩にかかっている。派手すぎない色の化粧が似合っている。

 若い頃にはさぞ異性を惹きつけただろうな、とぼんやり考える。


 この歳で一人暮らしの身としては浮ついた話、それから猫ならまだしも、犬とくればどちらも縁の無い話だ。


「はぁ、犬ですか」

「ええ、クリーム色のポメラニアンです。今は家で留守番してますが」

 間の抜けた返しをしてしまったが、相手は気に留めるようすはなかった。


「今日は家族全員が遅くなるって言うので、わたしも仕事終わりにゆっくりさせてもらおうと思ってここへ来たんですけど」

 彼女はわずかに表情を曇らせる。

「ちょっと家に帰りづらくて」


 箸を持つ手をカウンターに降ろし、小皿に置く。冷酒のグラスに手を伸ばしたまま静止する。

「じつは、犬の散歩で自宅から少し離れた場所まで歩き回るうちに、近くの河川敷にオニクルミの木が生えているのを知ったんです」


 こう、と両腕で円を作る。

「大人が手を回しても届かないくらいの幹の太さがあって、大きいんですよ。誰が植えたわけでもなく、子どもたちが野球の練習をする広場の脇に二本、ちょっと進んだ遊歩道の脇にもすこし間を空けて五本くらい、並んで生えてるんです」


 突如はじまった話の内容に少々面食らいながらも、聞いていますよ、と応じるようにうなずいてみせる。

「へぇ、そうなんですか」

「で、秋になると実がなるんです。たくさんね。見たことあります?」

「え、 鬼胡桃おにくるみ? の木ですか?」

「いえ、実です。こんなふうに——、実がなるんですよ」


 言いながら、カウンターの上に伏せてあったスマートフォンを取り上げた。

 画面をいじり、こちらに見せてくる。いくつかの画像が並んでいるのが目に入った。

 緑の葉っぱを背景に、わずかに先が尖る青梅に似た実が十個ほど、ひしめきあっている。縦に密集していて、まだ色づかない枇杷の実を一本の棒にくっつけたようにも見える。


「これ、食用ですか」

「らしいですよ。食べたことはないのでよくわかりませんが、風味が強いらしくて和菓子に使われたりするようです。時期になると、早朝に取りに来る人がいるみたいで、手の届く範囲はなくなってたりするから美味しいんじゃないかしら」


 だから気になってはいるんですよ、と言い、細身の冷酒グラスを取り上げて、すっと口をつけた。思わず見とれるような所作だった。

 しかし、話題の見通しがたたない。彼女の口振りだと、実の味に興味はあるものの人の目は気になるし、朝早くに出かけて採りにいくほどではない、と言ったところだろうか。


 カウンターに置かれたコースターにゆっくりとグラスを戻し、目線を落とす。

 天井からの照明が水面に映り、波紋のうえでゆらゆらと光点が揺れる。そのようすをながめているようだった。


「でも、けっこうな高さの木だから、……そう、マンションの三階くらいはあると思うんですよ。だから、上のほうはいくら長めの棒でひっぱたいても人の手では届かないはずなんです。あのあたりにリスが棲んでると聞いたことはないし、冬で葉が落ちて枯れ木になったら全部無くなってて……不思議じゃありませんか?」

「地面に落ちて、そのへんに転がってたりするのでは?」

「それが——、気になって探してみたんですけど、だれかが採ったあとなのか、殻が割れて中身が無くなってるのは落ちてても、丸のままなのはないんです」

「へぇ……」


「で、ですね、このあいだ犬の散歩のときに見たんですけど」

 言いながら、店の奥へと視線を向ける。一点をみつめている目。記憶をながめている。

「カラスが……、電線にカラスがとまってて、黒いクチバシに丸いものをくわえてたんです」


 ふと目を伏せる。長いまつげが、年齢に応じてわずかに緩んだ肌の上に影を作る。疲れているのだろうか。


 口を開いて——、

 わたし、視線を感じたんです。

 そっちを見たら一羽のカラスが電線に止まっていたんです、と独り言のように静かな口調で続ける。


 カラスは真っ黒いものをくわえてて、そうね……三センチくらいの大きさで、丸いんです。うまいこと、大きなクチバシを広げて——、と言いながら彼女は両の手を合わせ、上下に重ねると手首のところからぱか、と開いた。

 指をやわらかく曲げて、まるいものを包みこむようにしてみせる。

——こういう感じで、ボールみたいなものを上手に挟んでいるんですよ。


 店内の雑多な音を背景にし、まるで今見ている光景のように語る。

 彼女は真顔で続けた。


 よくあんな丸いものを、器用にくわえられるものだと感心して見てました。

 そしたら、それを電線から落としたんです。


 大きなマンションが近くにあって、壁に音が反響して聞こえるのか、妙に響いていました、カツーンって。


 まるで、固いもの……ちょっと軽くて、固い、……そうね、内部が空洞のプラスチック製のボールってあるじゃないですか、小さい子どもが野球のまねごとをするときに使うような軽いボールです。それをアスファルトに落っことしたような感じの音がしました。


 カラスは電線から道路に舞い降りて、落とした黒いものを取りに戻るんですよ。で、また電線に舞い戻って再度落っことすんです。


 一息に言い切って、彼女は大きく呼吸を整えた。

「ほう、面白いですね」と合いの手を入れると、彼女はこちらも見ずに、「あれ、オニクルミの実だったんですよ」と言った。


 わたし、カラスが遊んでるのかな、と思って見てたんですけど、昔読んだ本の内容を思い出したんです。

 カラスって固い殻のクルミを自分で割ることができないから、車の通る通りに運んでいって、道路上に置いて、車に轢かせて殻を割って食べるって話があるんですけど。


 あれをまさにやろうとしてるのかと気づきました。

 なかなか珍しい光景に出くわしたんだと知って……で、しばらく立ち止まって観察してました。


 通りにはわたし以外、だれもいなくって。どこからも見てる人もいなくて。ふだんなら人通りがあるのに、だれもいないなんて珍しい、誰かに教えてあげたいのに、などと考えてました。


 その通りは、そんなに車が通らないんです。

 だからどうするつもりなのかなって思ってたら、何回か落としているうちに、ふたつに割れたんです。

 カラスは喜んだかのように、これまでと違う反応で素早く舞い降りて……——


「夢中になって、中身をつつき回して食べてました」

 ふと、遠くを眺める目を細め、彼女は口もとに笑みを浮かべた。

「ああ、なるほど、あんなふうにカラスが食べるから木の上の 胡桃クルミも無くなるのか、と腑に落ちました。でも」

 急に口ごもる。妙な間が落ちる。


「でも?」と訊き返していた。

「数日後、また同じ場所で同じ光景に出会いました」

「同じカラスですか?」

「ええ、たぶん。……いえ、わかりません。みな同じに見えますから」

 でも、と彼女は繰り返した。

「また河川敷から運んできたクルミの実を落っことしてる、と思ったんです——」


 出かかる言葉を抑えようとしているかのように、彼女は右手で口もとを覆った。


 見たんです、と感情のこもらない声で話す。


 真っ黒い丸いものが、地面に当たったとたん、跳ね返り、弾けてふたつに割れて、そして——


「中から、なにかが出てきたんです」


 ひとつ。

 黒い影。

 固い殻がアスファルトに当たり、乾いた音が響き渡る。地面に衝突するなり、ぱん、とふたつに弾けた中から転がり出る。


 ころり、と表に現れたそれは、じわじわと蠢いて、道路の中央へと駆けた。


「あれは……、なにかの虫かと思いました。そう、あれ……動きはアシダカグモみたいな」

「あしだか?」

「ええ、ご存じありませんか? 長い脚に毛が生えた、大きな蜘蛛。そしたら、カラスが嬉々として飛びかかったんです。虫みたいなものに」


 彼女の顔を見つめる。そんな馬鹿な話があるだろうか。

 蜘蛛? 胡桃の……固い殻のなかに? まさか。どうやって入るんだろう。

 もともと穴が開いていて、中に潜んでいたとか?


 それをカラスがたまたま運んできた……?


「蜘蛛は重力に関係なく、天井でも平気で駆け回ります。器用なものです。すごく動きも機敏で。危険を察知すると、跳ねるんです。脚をすぼめて瞬時に空中に跳ね上がるんです」


 かすかに声が震えている。

「カラスはそれを口に咥えて、飛び去ろうとしました。そしたら——」


 彼女は「脚が」とだけ言って、口ごもる。

 言葉が続かない。


「脚?」

 思わずこちらから口を開く。先を促すために。


 彼女の居ずまいに迷いが見えた。ようやく意を決して口を開く。

「ええ、細い脚が……すべて、空中でぱっと広がりました、四方に。黒い輪ゴムみたいに伸びてカラスの口にまとわりついたんです」


「……」

 予測もしていなかった展開に、返す言葉は消えた。このひと、なにを言い出すんだ——?


「わたしには、そのように見えました。カラスはしばらく暴れていましたが、そのまま飛び去りました」

「……はあ」

「残された殻も変だったんです」

 いえ、あれは……殻じゃ無かったのかも、とこぼすように呟く。


 気になって訊ねた。

「どうしてですか?」

「だって、なくなってたんです……なんか……融けていて……、たしかに半球のかたちをしていたはずなのに、カラスがいなくなったら、黒い油みたいになっててアスファルトに、べったり」

 貼りついてました、と呼吸を吐きながら、彼女は力なく声を発した。


「あれから、犬の散歩に出ると必ずカラスに出くわすんです。なんというか観察されてるみたいで……目を上げるといつもそこにいるんです。このあいだなんて……」


 急に口を閉ざす。

 ふと、彼女の目線が逸れ、店の奥へと顔を向けた。ゆらゆらと左右に彼女の身体が振れて、視点が定まらないのがうかがえた。


 その間、何秒もかかってなかったかもしれない。

 だがずいぶんと長く感じた。身体ごとこちらに向いた彼女の顔色が、照明のせいか妙に白く見えた。

 すみません、と平坦な調子で言った。

「わたし、おかしなこと言いましたね」


「いえ、……そんな」

 いいんです、と彼女が頭を横に振る。

「自分でもわかってます、気にしすぎだって。でも」


 ふう、と息を吐いた。呼気にアルコールが混じっている。こちらに向けた彼女の目をまともにとらえた。

 途方にくれている。そう感じた。なかばあきらめたかのような——、共感してくれる相手はいないのだと悟って、失望の色が浮いている。


「カラスの目って、あんなに赤く光るものなんですね」

「なんですって?」


「電線にいたカラスの目なんですが。夕焼けの空だったせいか、反射した色が真っ赤で」


 いえ、と首を傾げる。

 変なことが続いてるので、気の迷いなのかもしれません、と続ける。


「このあいだ、仕事先から帰宅したら、すでに帰ってた娘が血相変えて言うんです。マルがいないって。マルはうちの犬の名前なんですけど……室内犬で勝手に外に出られるわけがないし、驚いてしまって、それでふたりで家中探したんですけど、でも、いない。娘とどうしようと慌ててたら、犬の足音がして、どこにいたのかふっと物陰から出てきて足元にやってきて……、いつの間にか平然とした顔をして、尻尾を振りながらこっちを見上げてたんです。けど、あのこ、たしかに家の中に、本当にいなかったんです」


 なんだか薄ら寒くなった。彼女の目に、ただならぬ感情が渦巻いているのが見えた気がしたからだった。


「犬の目——って、赤く光るんですね」

「猫の目だって光りますよ」

 彼女の発言に対し、とっさに言葉を返していた。


「あれは動物の目に反射板がついているからなんだそうですよ。網膜の後ろにあるタペタムという層に光を反射させて、暗がりでも見えるように視神経に伝えてるそうです。人間にはないらしいですけど」

「よくご存じなんですね」

「ああ、実家に黒猫がいますから。視線を感じて、ふと部屋の隅に目をやると眼を光らせてこっちを見てて、びっくりするなんてことはしょっちゅうです」

「そうですか、でも猫の目って赤くは光りませんよね」


 真顔でそう返される。

 わずかに目線を下げて、しばし静止していた。「どうしたら——」と言葉をこぼす。


 うつむいた彼女の唇だけが動く。表情は見えず、発した声が聞き取れない。

 ふたたびこちらへ顔を向けたときには、彼女は笑顔になっていた。

 スマートフォンに手を伸ばし、画面の時刻を確認する。


「わたし、そろそろ失礼しますね」

 なにごともなかったかのようにそう言われて、内心ほっとした気持ちになった。

 グラスに残った冷酒を一気に煽り、彼女はカウンターの向こうの店主に「お愛想、お願いします」と伝えた。


 勘定を済ませると、最初に見たときと同じく背筋を伸ばし、酔ったふうも見せずに流れるような所作で立ち上がる。

「話を聞いていただいてありがとうございます」

「え、いえ」

「じゃあこれで」

 軽く頭を下げ、やけにヒールの音を響かせながら彼女は店の出入り口へと歩いて出て行った。


 小さく溜息をもらし、泡が消えかけたビールのグラスを取り上げる。

 変なひとだったな。ふつうのひとに見えたけど。

 っていうか——、本当に変な話だった。

 気が抜けて、味が半減したかのような琥珀色の液体を飲み下すと、ふいに視線を向けられている感じがして身がすくんだ。


 目の端に見える。


 点。ふたつの光点。赤い色。

 はっとして、振り向く。

 だが、そこには対面の同伴者と楽しげに語らっては豪快に笑う酔っ払いの男がいるだけだった。こちらを見ていた素振りもない。


 気のせいかと思い直すが、さきほどまでの話の内容も相まってどうにも気になる。

 与太話だ、と自分に言い聞かせる。

 知っている。人間だって、カメラのフラッシュで目が赤く光って映るのはよくあることだ。


 犬だってそう。猫の目はわずかな光で黄色や緑に光るけど、犬は目の反射板であるタペタムの色で緑、網膜血管が反射すると赤に光る。

 目のどの場所で光を反射するかで、見える色が違うだけの話だ。

 わかっていれば、どうということもないのだから。

 無意識に溜息が転がり出た。

 今日はもう帰ろう、とカウンターの上の料理を片づけはじめた。

 

  ❇︎  ❇︎  ❇︎


 店から出ると、すっかり夜のとばりが下りていた。通りに居並ぶ店舗と繁華街のビル群に挟まれて、薄い雲の向こうに満月が浮かぶ。

 周囲の照明が明るいせいか闇が白んで見え、星は見えない。

 幾人もの仕事帰りの人影が帰宅の途につく。


 視線を感じる。話を聞いてしまったから。

 突然なにか、世界の基準が変わってしまったかのような違和感があった。

 あの時、彼女が言い残した言葉。唇の動き。


 どうしたら——、と聞こえた。

 店内の雑音が幻聴で再生された。かき消されるような細い声。

 記憶の中での映像。口もとの動きで、なんと言ったのかを今となって思い知る。


  忌々いまいましげに吐き捨てる。先ほどの女の声が呪詛のように頭のなかに響いた。

「——あいつら、どうしたらいいでしょうね」



 こんな夜分なのに、間近でカラスの一声が聞こえた。

 どこにいたのかと思うほど、あちこちから力強く、からす鳴きが幾重にもあふれる。繁華街の一帯に、警告の響きが満ちていく。


 囲まれていると気づき、背筋にすうっと冷気が落ちる。思わず身震いしている自分がいた。

 数えきれぬ数の羽ばたきが飛び回り、舞い降りる狂騒を聞く。

 眼を上げたとき、たくさんの赤い光点が見えた気がした。 



                   〈了〉





 

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忌諱(きき)に触れる 内田ユライ @yurai_uchida

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