第3話
***
「おい伏見、ちょっといいか」
週に何度かの出勤日、唐突に実松部長に声をかけられた。
『あ…、はい』
「ちょっと、飯行くぞ」
まだ時刻は11時20分。昼休みにしては、少し早い時間だった。オフィス内には、人がちらほらいるけれど、名前もよく知らない人たちだ。
同じ会社といえど、関わらない部署の人のことは全く知らない。
コートを羽織った部長は、僕を待つこともなく、足早にフロアを出て行く。慌てて自分のコートを掴むと、その後を追った。
どこに行くのか、部長の中ではもう決まっていたらしく、迷いのない足取りで店の中に入っていく。部長が選んだのは、何度か連れて行ってもらった蕎麦屋でも、先輩たちがよく行く定食屋でもなく、こじんまりとした中華料理屋だった。
「速報です。行方不明だった柴田大臣が、水死体で発見されました」
店に入るなり、頭上に設置されていたテレビからそんな声が聞こえていた。
外から見た通りの狭い店内は、数席ほどのカウンターとテーブル席が三つ。実松部長は慣れた様子で入口から入って右のテーブル席に腰掛ける。僕もその向かい側に座った。
「…ここはな、皿うどんが美味いんだ」
『え?中華料理屋でしたよね…?』
「あんかけが美味いんだよ」
そう言って、やってきた店員に皿うどんを二つ部長が注文する。…昼ごはん、今日はカツ丼の気分だったのに。そんな思いは胸の内に秘めた。
…それにしても、いつもよく喋るはずの部長が、今日はとても静かだ。
際限ない愚痴話も、昔の自慢話も、何一つ出てこない。そう思うと、いつも部長から話を振ってもらっていたことに気づく。
『…あの、実松さん』
「なんだ?」
『今日、その…、何かありました?』
「…なんでだ?」
『ああ、いや、普段と様子がなんか、違うなと思って』
僕の言葉にジッと部長がこちらを見る。…な、なんだろう。何かやらかしてしまったのだろうか。身体に走る緊張感に、背筋が伸びる。
「どう話すか…、ちょっと難しくてな」
どれだけ言いにくいことも、お客様にしっかりと言うのが部長のすごいところだ。そんな部長が困ったように頭を掻く。
嫌な沈黙。ふっと部長が息を吐いた。
あ、喋る。
「…山村が意識不明だってさ」
.
.
.
「今までお世話になりました」
久しぶりに部会に出席した山村さんが、画面の向こうで深く頭を下げた。
「12年間、本当にたくさんのことを経験させていただいたこと、とても感謝しています。こんな形で退職することになるとは思っていませんでしたが、新しい土地でも娘と2人、頑張りたいと思います」
「何か困ったことがあれば、いつでも頼ってくれていいからな」
久しぶりに聞く実松さんの優しい声。それに山村さんが、ありがとうございます、と、また頭を下げる。
「実松さんには、主人が亡くなった時も本当によくしていただいて…、ありがとうございました。私が休んでる分、伏見くんにもかなり負担をかけてしまってごめんなさい」
『えっ、そんな、負担だなんて、』
突然、自分に話が振られ少し慌てる。
山村さんが、意識不明の重体になったあの事件から約1年。そして、山村さんの旦那さんが亡くなられて、約1年。旦那さんが溺死だったとは聞いたけど、山村さんご夫婦に何があったのか、僕たちはいまだ知らない。
「それから、退職の手続きまで手伝ってくれてありがとう」
『いえ、大したことは何も』
「そういえば、伏見くん結婚したんだって?」
『あ、はい。1ヶ月前に入籍を…、』
「遅くなったけど、おめでとう」
『ありがとうございます』
「いやあ、伏見が結婚できるとは思ってなかったよな!」
『そ、そうですよね。自分でもびっくりで…、』
旦那さんが亡くなったばかりの山村さんの前でこんな話をしてもいいのだろうか。なんだか少し不謹慎に思えて、画面越しに山村さんやほかの先輩の表情をうかがってしまう。
「伏見くん」
『あ、はい…!』
山村さんに名前を呼ばれ、自然と背筋が伸びる。一瞬、山村さんがとても悲しそうな顔をしたような気がした。
「奥さん、大切にね」
『…はい、』
その言葉は、重い。
すぐに実松さんが、そうだぞ大切にしろよ!なんて、茶化すように言って、空気を明るくしようとする。が、明らかに空回ってしまっている対応に、気まずさだけが残った。
その空気感を即座に読み取った実松さんが、光の速さで部会を終わらせる。
ふう、と、重たい空気からの解放に息を吐いた。と、会社用携帯が着信を知らせる。画面に表示された文字を見て、思わず吐いた息を吸い込んだ。
『…山村さんだ、』
恐る恐る携帯の通話ボタンを押し、耳に当てる。
『…もしもし』
「あ、伏見くん」
『お疲れ様です』
「うん、お疲れ様。今大丈夫?」
『大丈夫です』
パソコンのハジに表示されている時計に目をやった。お客様のアポは12時だ。まだまだ時間はある。
「さっきはごめんね。私が結婚の話を振っちゃったから、微妙な空気になっちゃって」
『あっ、いえ、山村さんのせいじゃないですよ』
「あはは、ありがとう」
山村さんの声は、思ったよりも明るかった。
「まあ、退職していく身ではあるんだけどさ。なんというか、みんながね、思ってるよりも私結構平気なの」
『え?』
「旦那のこと」
明るい調子で、山村さんの言葉は続く。
『…そう、なんですか?』
「うん」
ケロっとした返事に、少しだけ気が抜ける。
「元々、旦那とは限界かなって思ってたところだったから」
『…、』
「って、新婚生活真っ只中の伏見くんに言うのもよくないよね。ごめんね」
『…いえ、』
気の利いたことが何も言えない。こんな時、なんて返事をするのが正解なんだろうか。
「そうそう、うちの会社の考え方に、家も家族の一員ってあるでしょ?」
『えーっと、確かお客様の家族の一員として、僕たちが丁重にお家を管理するってことでしたよね』
「それそれ。あれってさ、なんかピンときてなかったけど、意外と本当なのかもしれないよ」
『ピンときてなかったんですか?』
「12年いてまったく共感できてなかったね」
クスクスと笑う山村さんに釣られて僕も笑う。先程までの気まずい空気をかき消すかのように、山村さんも僕も笑った。
「でもね?もし、家が人格を持てるとしたら、家はそこに住む人を常に見てるってことじゃない?家の中での行動、言動、家族の関係性、全てを知ってる」
『えぇ…、なんか嫌ですねそれ』
「例えばの話だけどね。でも、お天道様は全て見てる的な言葉みたいに、案外私たちの生活を家は見てるんだなってふと思ったんだよね」
会話というよりは、最後はどこか独り言に近い話し方。…なんだろう、この違和感。まるで、どこか、心当たりがあるみたいだ。
「…あれ、なんか何が言いたかったのか、自分でもわからなくなっちゃった。とにかく、奥さんのこと、大事にしてあげてね」
『はい、山村さんも、サトカちゃんも、体調には気をつけてくださいね』
「ありがとう。伏見くんもね」
軽い挨拶を交わして、山村さんとの電話は切れた。
携帯をデスクに置き、メールボックスに溜まっているメールを確認していく。と、山村さんが長期休暇に入ってしまってから引き継いだ案件のメールが届いていた。
住吉のロイヤルパークに借り手がついたというメールだった。
天井から調味料が湧いてくるという不思議な物件。だけど、岩下さんご夫婦が退居して以降、調味料が湧き出てくることもなかった。
『…あれ、なんだったんだ』
ふとつぶやいたと同時に、コンコンと控えめなノック。それに返事をすると、外行きの化粧を施したマリが顔を覗かせた。
「大輔くん」
『うん、どうしたの?』
「ごめんね、仕事中に。ちょっと買い物に行ってこようと思って」
『大丈夫だよ。気をつけて行ってきてね』
「ありがとう。それじゃ」
ぱたんと扉が閉まる。いつもより少し強い香水の匂い。ふーっと、静かに息を吐く。
見上げた天井には、茶色いシミが広がっていた。
.
綸言汗の如し 吉野まるみ @horeboresuruwa
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