第2話
***
『あれ、伏見くんだ』
子供を寝かしつけ、会社用の携帯を確認すると、後輩である伏見くんから着信が入っていた。
18時、19時、19時30分、3回に分けての着信。
20時を回った今、慌てて伏見大輔の文字をタップする。と、何コール目かで、コール音が切れた。
『…あ、伏見くん?お疲れ様。山村ですけど』
「あ、山村さん…!お疲れ様です」
いつもおどおどしている伏見くんにしては、力のこもった声だった。
「折り返し…、ですよね?大変な時にすみません。ちょっとお話ししておきたいことがあって」
『うん、どうしたの?』
「あの、住吉のロイヤルパークの岩下さんなんですけど」
『ええと、待ってね、確かご夫婦で住んでる方よね』
「そうです」
急いでPCの前に座り、顧客情報のシステムにログインする。
『何かクレーム?それともトラブル?』
「いえ、その、自分もなんて説明していいのかわからないんですが、その、麺つゆ…、」
『え?麺つゆ?』
「はい。天井から麺つゆが止まらなくて」
『…うん?何?』
「あ、いや…、自分もふざけてる訳じゃないんですけど、とりあえず山村さんのメールに現場の写真送りました」
そんな言葉の数秒後、メールの受信フォルダに新着メールが届く。添付ファイルをクリックしてみると、数枚の写真が入っていた。
1枚目は、天井の写真。
白いクロスに黒いシミがクッキリと写っている。
『ちょっとやだ、こんなに濃いシミ、水道管破裂でもしてた?』
「…え?濃いですか?」
『濃く見えるけど…?実物はそうでもないの?』
「写真だからですかね?現物はうっすらした茶色って感じでしたよ」
スマートフォンを耳に当てながらも、次の写真を開く。白いどんぶりに黒い液体が溜まっている写真だ。一見、汁物でも食べ終わったところを撮影したように見える。
そして3枚目は、全体の写真。
黒いシミの下にどんぶりが置かれている。
『…つまりは、この天井のシミから麺つゆが垂れてくると?』
「信じられないけど、そうなんです」
『嘘でしょ、そんなことありえる?ここ上階は?』
「それが…、まだ入居者いないんですよ。本当に訳わからなかったんで、その場で業者手配して、天井も調査しました」
『それで?』
「…水道管、通ってませんでした」
『…、』
まさに、絶句。
『…動物が潜り込んだ可能性は?それ、本当に麺つゆなの?』
「匂いも味も麺つゆでした」
『そう、じゃあ間違いなく麺つゆなのね。…いや、ちょっと待って味?』
「はい」
『…あんた、これ舐めたの?』
「はい、舐めました」
『…、』
「…、」
『…うちのサトカでも舐めないと思うよ』
「サトカちゃんしっかりしてますからね」
.
.
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「…じゃあ、次山村」
『はい。先週からご相談させていただいていた住吉ロイヤルの岩下さんの件ですが、昨日正式に退去の連絡がありました』
「あー、やっぱりか」
週に一度の部会中、インターネットの回線を抜けて、部長のため息が漏れてきた。
『はい。クロスの交換にむけてご準備いただいていたのですが、別の箇所から今度は、醤油、ポン酢、みりんが垂れてくるようになりまして…、』
「本当になんでなんだよ」
『一部、水道管の通っている箇所もありましたが、特に漏れている様子もなく、本当に天井から湧いているとしか言いようがなくてですね…、』
「原因の説明も難しい、と」
『はい』
「もうこんなの、どこにどう報告すりゃあいいんだよ。賃貸の一室が調味料ビュッフェ状態ですってか?ちなみに大家はなんて言ってんの?」
『…こちらで何とかしろと』
「最悪だな」
『…はい』
それからグダグダと部長の実りのない愚痴話が続く。それを部のメンバーが適当に宥めるけど、何も解決しない。最後に空気を読んだ伏見くんが部の共有事項を報告して、ようやく長い部会が終わった。
着けていたヘッドセットを耳から外し、力の入っていた眉間をぐっぐっと揉む。なんだか頭が痛い。
充電中の私用携帯をチェックすると、‘今日、飲んで帰る’なんて、信じられないメッセージ。溢れ出すため息とともに、メッセージの送り主に電話をかける。
「…なんだよ」
『なんだよはこっちのセリフなんですけど?サトカがやっと回復したところなのに、飲みに行くって何?』
「何って、そのまんまだろ」
ぶっきらぼうな返事、明らかに不機嫌な声。電話の向こうでどんな表情をしているのだろう。最後にちゃんと顔を見たのがいつだったか、もう思い出せない。
『ちょっとは自重してよ。また、サトカが感染したらどうするの?こっちは会社でも頭下げて極力外出も減らしてるのに、なんで父親のあんたがフラフラしてるのよ』
「はあ?うるっせーな。そんなの俺の勝手だろ」
『勝手じゃないわよ。サトカの看病も家のことも全部丸投げで、親である自覚はないわけ?』
「あのさあ、全部ユリコがやってるって言いたいのかしんねーけど、それならサトカが感染したのも、お前がちゃんとしてねーからじゃん」
『…は?』
「母親なんだろ?ちゃんとやれよ」
吐き捨てるようにそう言って、私の旦那_シュンイチは電話を切った。込み上げる苛立ちに、デスクの横にあるベットにダイブする。
『腹立つ!!』
思いっきり叫んで、ゴロリと転がった。
と。
『…え、嘘』
見上げた先にある、黒いシミ。
伏見くんから送られてきた写真にそっくりの、黒々としたシミがそこにあった。
『…うちまで調味料が湧いたりなんてしないでしょうね』
まだまだ続く住宅ローンのことよりも、そんな心配が口から思わず漏れていた。
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身体が浮くような感覚に目を覚ました。
ゆっくりと目を開けて、気づく。まだ、夢の中にいる。ぼんやりとそう思った。
息を吐くと、ごぼごぼと音を立て、空気が泡になる。真っ暗では眠れないシュンイチのために着けている豆電球が、上の方でぼんやりと光っていた。
水の中は、温かくも、冷たくもなかった。
息ができる。苦しくない。手を動かせば、水の重たさを感じる。ふと、隣のベットを見れば、置物のように、シュンイチが横たわっている。
帰ってきたのか。
夢の中なのに、そんなことを思った。
すっかり水槽に変わってしまった寝室。こぽこぽと部屋の隅で、水が注ぎ込まれる音がする。昔飼っていた熱帯魚の水槽もこんな感じだった。
身体にかかっていた毛布を蹴っ飛ばし、水面の方へと泳ぐ。ぷはっと顔を出すと、天井ギリギリまで水位は上がっていた。
…シミだ。
黒いシミから、まるで細く蛇口を捻ったかのように、水が流れ込んでいる。
水が流れてくるのに対して、この部屋には排水口がない。少しずつ水位が上がっていくのを感じながら、私はそっと目を閉じた。
深く、深く、身体は水底に沈んでいった。
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