綸言汗の如し
吉野まるみ
第1話
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ふと、天井にあるシミに気付いた。
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ここ数年、社会のあり方はガラリと変わってしまった。
テレビやいろんなメディアで騒がれる問題とはかけ離れ、私の中で変わったことをあげるなら、平日の朝、満員電車に揺られることがなくなった。それくらい。
パソコン一つあれば、場所を問わずに働ける。就職して7年。初めてこの会社に入社してよかったと思えたことだった。
そんなわけでどちらかというと世界的な問題よりも、大きく私の日常に変化を与えたのは、左手の薬指に光る指輪の方だろう。
入籍して、1年。小さなこの部屋で暮らし始めて1年。
今日、初めて天井のシミに気付いた。
在宅ワークが始まってから、私は自室のデスクよりも、リビングにあるダイニングテーブルで仕事をすることが多かった。
今日もそれは同じ。沖縄で買ったハイビスカス柄のマグカップにコーヒを入れ、カーテンを開ける。日当たりが良くないこの部屋に、太陽の光が入る唯一の時間帯だ。
マグカップをカウンターに置き、テレビをつける。満員電車でニュースサイトを見なくなった代わりに、朝のニュース番組を見るのがすっかり日課になっていた。
「…柴田大臣の家庭内暴力ですが、」
テレビから流れてくるニュースを耳にしながら、伸びを一つ。
グッと顔を上げたところで、そのシミが目に入った。何色と表現すればいいのだろうか。真っ白な天井にうっすらとあるシミ。
ダイニングチェアを運び、その上に立つ。手のひらほどの大きさのそれは、近くで見るとどことなく茶色っぽい。いつのまに、こんなものが出来たのだろう。
「おはよ、リコ。…って何してるの?」
リビングに入るなり、私の姿を見つけた夫のタカトが不思議そうにこちらを見る。在宅ワークになってから、タカトの起床も遅くなった。
ゆったりと寝られる分、今日も立派に寝癖がその存在を主張している。
『おはよう。いや、ここにシミがあって』
「え、シミ?まだ新築なのに?」
どれどれとタカトがゆったりとした動きで、近づいてくる。私とそう身長が変わらない彼。私が降りた椅子に乗ると、うーんと少し唸った。
「…雨漏り、とか?」
『最上階じゃないのに?』
「確かにそうだね。うん、だとすると上の階から水漏れ…、とか?」
『その可能性が高そうだよね。こういうのってどうしたらいいんだろう。水が落ちてきてるわけじゃないから、管理会社に連絡しても仕方ないよね』
「だよねえ」
まだ頭が働いていないのか、気の抜ける返事。半分も開いていない目を擦り、よいしょと椅子から降りる。まるで小さな子供みたい。
『まあ、実害があるわけじゃないしいっか』
「それもそうだね。あ、俺もコーヒー淹れよっと」
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「ただいまー」
『おかえり。買い物ありがとう』
「いーえ」
今日は珍しく出勤だったタカトに、夕飯の買い出しをお願いしていた。半ば無理矢理持たせたエコバッグから、はみ出している長ネギ。それが床につかないように、慎重に袋を冷蔵庫のそばに置く。
「手を洗ってくるから、冷蔵庫に片づけておいて」
『はーい』
腰掛けていた椅子から立ち上がり、エコバッグの中身を冷蔵庫に閉まっていく。中から私が好きなチョコレートが出てきて、早速ひとつつまみ食い。
もごもごやっているとタカトがリビングに戻ってきた。
「ねぇ、つまみ食い早くない?」
『仕事してると甘いものが必要になるのよ』
「気持ちはわかるけど」
ふにゃっとタカトは笑うと、ダイニングテーブルに広がる私の仕事道具に視線をやる。
「まだかかりそう?」
『うん、もうちょっと』
「了解。じゃあ、今日は俺がご飯作るね」
『ありがとう。助かる』
冷蔵庫に食品をしまうと、私はまたパソコンの前に座る。タカトは鼻歌を歌いながら、スマートフォンでレシピサイトを検索し始めた。
「しまった。めんつゆ買ってくるの忘れた」
ハッとした表情でスマートフォンから顔をあげる。
『ああ、ないなーとは思ってたよ』
「めんつゆ使いたかったのに。…しょうがない買ってくるか」
『え、今から?』
「うん、行ってくる」
言い終わるや否や、外したばかりのマスクをつけて、慌ただしく家を出る。そんな様子を呆気に取られつつも見送ってから、少し休憩するかとテレビをつけた。
「家庭内暴力で問題になっていた柴田大臣の行方が…、」
ちょうど夕方のニュース番組の時間だったらしい。ソファーに身体を預け、機械的なアナウンサーの声を聞く。と、ガチャリと玄関で鍵の開く音。
自宅からスーパーまでは片道5分くらいの距離だ。帰宅には早い時間を不思議に思いながら、玄関に向かう。と、さっき出て行ったばかりのタカトがそこにいた。
『早いね』
「あー、財布忘れちゃった」
どことなく恥ずかしげにそう言った。それにフと笑ってしまう。
『取ってこようか?』
「いや、いつもと違うところに入れたからわかんないと思う」
そう言いながら履き古したスニーカーを脱ぐと部屋の中に入っていく。
「あ、そうだリコ」
リビングのラックにかけてあるコートのポケットを探りながら、何かを思い出したかのようにタカトはコチラを向いた。
『うん?』
「上がってくる前に、郵便受け見といたんだけど」
『あー、そういや最近見てないね。いっぱいだった?』
「うん、広告ばっかいっぱいだった」
『あれだけ、ちらし投函禁止の張り紙してあるのにねえ』
「ジムの案内でいっぱいだったよ。在宅で運動してないの、バレてんのかなあ」
『この辺にも小規模な個人向けのジム増えたもんね』
「うん。それでさ、ついでになんとなく上の階の郵便受け確認したんだけど、空室っぽいんだよね」
『…え?』
思わず、タカトから視線を天井のシミに向けた。そこには相変わらず茶色いシミがついている。
「あれ?なんか気持ち濃く…って、うわっ!!」
ぽたりと茶色いシミから何かが垂れた。近くにいたタカトが驚いて、後ろに後ずさる。
『え、ちょ、何…?』
慌てて駆け寄ると、白いフローリングに付いている茶色い水滴。
「ついに垂れてきたか…、」
ポツンと呟いた言葉に合わせるかのように、また、上から水滴が落ちてくる。
『とりあえず、水滴をうけないと』
慌てて洗面所から紙コップを持ってくると、シミの下に置いてみる。床は既にタカトがティッシュで拭いてくれたようだった。
紙コップに、ぽたっ、ぽたっと水滴は落ちる。
「…あれ?この匂い」
ふと、手に持っていたティッシュにタカトが鼻を近づけた。
『ちょ、やめなよ。そんな得体の知れないものに顔近づけたら危ないよ』
「うん、そうなんだけど」
そう言いながらも、クンクンと犬のように匂いを嗅ぐ。そしてふと、私の顔の前にそのティッシュを差し出した。あれ、この匂い。
『……めんつゆ?』
「だよね?」
思わず2人で顔を見合わせた。
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「……はい、というわけなので、よろしくお願いします」
電話の向こうの相手に見えもしないのに、ペコっとタカトは頭を下げた。ピッと終話ボタンを押し、ダイニングテーブルにスマートフォンを置く。
神妙な面持ち。重たい空気。
『…どうって?』
「うん、とりあえず今から部屋見にくるって」
『あ、来てくれるんだ』
「うん、まあ信じてない様子だったけどね」
『そりゃね、借りてる部屋の天井からめんつゆが垂れてくるなんて連絡そうないよ』
ぽちょん、ぽちょんと変わらずめんつゆは垂れていた。
「本当にどういう状況なの、これ」
『…うちにめんつゆがないから、上階の人が提供してくれたってことなのかな』
「せめて普通に渡してほしいよね」
『…、』
「それ以前に上階だれも住んでないんだけどね」
『…、』
「…、」
『…普通に怖いよ!!』
「ごめんって」
とりあえず落ち着こうと淹れたコーヒーを口に含む。いつもの薄ピンクのマグカップの中に入っている茶色の液体。普段はブラックで飲むのに、今日はたっぷりとミルクが入っている。
タカトがコーヒーを淹れてくれる時はいつもそうだ。
それからしばらくして、伏見と名乗る管理会社の若い男性がやってきた。
「あのー、それで、麺つゆ…、が垂れてくるというのは…、」
玄関先で名刺をタカトに渡すと、気まずそうに部屋の中へと視線をやった。確かに、タカトのいうとおり、信じてない様子だ。
『…リビングです。どうぞ』
使うつもりのなかった来客用スリッパを出すと、失礼します、なんて、伏見さんがそれを履く。中へ案内するタカトに私も続いた。
「これです」
ポタリといまだ垂れ続けるめんつゆ。それを前にマスクをしていてもわかるほど、驚いた様子の伏見さん。
「えぇ…?どういうこと?」
思わず素の言葉が漏れてしまう。うん、気持ちはわかる。
「…あ、すみません。これ、えーっと、麺つゆ…、なんですかね?」
「舐めたわけじゃないんで、わかんないですけど、匂いはめんつゆです」
「…なんだろう、上の奥さんが麺つゆこぼしちゃったとか…?」
「いやいや、とぼけないでくださいよ。上、空室ですよね」
「…、」
「…、」
「…マジすか」
数秒の沈黙の後、伏見さんはポツリと呟いた。どうも、本気で驚いているようだ。慌てて重たそうな鞄の中から、タブレットを取り出すと何か操作をしている。
「…うわ。空室、ですね。え、ごめんなさい。何どういうこと、」
訳がわからないとでも言いたげだ。
『あの、伏見さんここの担当じゃないんですか?』
思わず声をかけると、ここでようやく、伏見さんと初めて目があった。
「いや、すみません。ちょっとここの担当者の家族が濃厚接触者になってしまって…、念のため自宅待機中なんです。…あ、私はもちろん朝の検温で熱はなかったのでご安心ください」
『あ、はい』
「うーん、となると、上、穴開けて確認してみます…?水道管が通ってて、漏れちゃったのかもしれないですね」
少し冷静になったらしい。管理会社らしい提案。
「どうする?俺は確認してもらったほうがいいと思うけど、今から業者さん呼んでもらって大丈夫?」
『うん。なんかよくわからないし、早く解決したい』
「わかりました。じゃあ、ちょっと連絡してきます」
『お願いします』
伏見さんはスマートフォンを取り出すと、リビングから廊下へ出て行った。
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