合格前夜
猿山 登校拒否
第一話 古代人と一人の阿呆
ある冬のある早朝に、自分の元に一通の手紙が届いた。バイクの音を聞きつけて、家が寝静まる中一人、玄関へと走る。慌ててサンダルを履きパジャマの上に上着を羽織って雪をよけつつ、緊張の面持ちでポストを覗く。ポツンと一つだけ置かれた手紙を慎重に取り出して、急いで自分の部屋へと持って帰り開封しようとする。鋏を近づけなんとか切ろうとしたり、手で豪快に切ってしまおうとする。しかし、どんなに開けるのを先延ばししても、どうしても自分には封を切る事が出来なかった。三月のある朝のことだった。
数日経ってもやはり封を切る事が出来なかった。食事もまともに食べれず、寝ることもままならなかった。親にはネットでの確認を断り手紙が届いた事を隠した。引き出しの奥に仕舞い込んだその手紙が自分を苦しめ続けた。そんな事をしている内に家の周りに降り積もっていた雪は溶け、鳥達の鳴き声は春の訪れを告げていった。
手紙が届いてから五日後の朝、自分の耳にラッパの音が聞こえた気がした。それは酷く懐かしい音で、自分の悩みを終わらせる音であった。
ベットから起き上がる。引き出しを開け、封筒の封を切る。自分はゆっくりと封筒を開きながら、これまでの事を走馬灯の様に思い出していた。
昔から勉強という行為が嫌いだった。何かを学ぶ行いは自由であるべきだと思い続けていた。自分がまだ小学生だった頃も、中学生になった時も、高校へと進学した際も、勉強というのがどうにも好きになれなかった。
先生の言うことはどれも正しいことであるとわかっていても、その正しさに相容れなかった。正しさがだけで生きていくというのは失敗だらけで間違いまみれの自分には辛いことだった。
その傾向が強まったのは中学受験の失敗だった。地方の学校に通い、周囲から期待の声を一身に纏い向かった受験会場で、開始の声と共にシャーペンが何本か落ちる音を聞いた。手元を探り回答冊子に目を通そうとして、初めてその音の原因が自分のシャーペンだと気づいた。急いで手を挙げ、試験官を探した。妙に澱んだ空気と一斉に書き殴る轟音で、自分の身体が緊張して冷え切っていくのを感じた。当時の自分は身長が低かった。周りよりも一回りも小さい身体であったが、人一倍の頭脳があるからと引け目を感じたことはなかった。
しかし、それが災いした。自分が頭を挙げて前を見るとそこには、見上げるほどの巨体があった。今思えばそれは一般の学生より頭ひとつ高いぐらいだったのだが、自分の体は巨鯨を前にした小魚の様に陰に呑まれてしまった。何とか背伸びをしてを棒切れの様な腕を突き上げて、自分の存在を訴えた。けれど、どうにもその意思は伝わらず、自分の中で試験時間がじっくりと真夏のアイスクリームの様に溶けていくのを感じた。
試験官が気づいた頃には周りの学生達は新しいページへと進み、自分だけが周回遅れのレースへと参加することになった。本来なら解ける問題も、本当に解けない問題もどれも等しく何か別の古代文字の様に見えた。焦った自分の瞳には、エジプトの象形文字が自分の問題用紙の上で愉快に踊っていた。
その後のテストも、等しく上手くいくことはなかった。自分の脳内では古代人達が変な歌や踊りを踊っていた。目の前と意識が何千年もかけ離れてしまった様に上手く思考する事が出来なかった。
終了の合図と共に学生達は片付けを始めた。確実に落ちたという手応えが自分の中にあった。一人呆然とする中、最後の一人になった教室で試験官に諭されるまで、自分は席を立つ事が出来なくなっていた。
後日届いた不合格通知は、未だに自分の机の引き出しに眠っている。明日から元の生活に戻ってしまうと考えるとベッドの中で、ただアイスクリームの様に溶けてなくなってしまいたい、と思わずにはいられなかった。
その夜、私は古代エジプトのラッパの音を聞いた。甲高く鳴り響く単音が自分の耳には鳴り響いて酷く悲しくさせた。古代人達の宴を遠くから見ることしか出来ない自分が憎かった。何も果たすことのできない自分は必要ないと思えた。その音が本当に聞こえたかはわからなかったが、自分が眠りについたのは太陽が昇る頃であった。
結局、地方の中学へと進んだ自分は何の変化のない日々を送り始めていた。普通に友人を作り、普通の生活をして、普通に歳をとっていくという勾配のない人生が続いていくと思われた。
ある日、歴史の授業が始まった時、酷く嫌な悪寒が走った。それは数ヶ月前の受験に通じる何かであった。焦る呼吸を抑えて教師の話を聞いていくと、彼が古代史の話を始めたとわかった。
「古代エジプトでは、楔形文字を使っていたんだぞ。皆知ってるかな。」
彼の台詞に私は頭が真っ白になった。二月のトラウマが自分の心臓の動悸を早めるのがわかった。古代人の話など聞きたくないのだ、その思いだけが胸中にはあった。教師の話を耳に通してなるものか、と教科書のページを矢継ぎ早にめくった。授業が終わるまで、聖徳太子の顔を必死に眺め続けた。その面長な顔がなんとも癪に触ったけれど、古代の話を聞かなくても良いと思うと、その顔がなんとも有り難く感じた。
次の日、風邪を引いて寝込んだ。母の「今日は一日中に眠ってなさい。」という命令を聞いた自分は、彼女が仕事へいっている間
じっと考えごとをしていた。
勉強などせずずっと本を読んでいたい、とじっと真面目に考えていた。小学生の頃から図書館で一風変わった妙ちくりんな先生と会ってからずっと本の虫であった自分は本に至上の価値を見出していた。勉強とは異なる自由な学びを生む本に取り憑かれてしまっていた。その為、受験に失敗したことも加わり、今後の自分の人生は本一本でやっていこうと企てていた。それが目の前の課題からの現実逃避だとしても本を読んでいたかった。本の世界へと没入して此方の世界から永遠に逃げたかった。自分の場所はこの世界には何処にもない様に感じた。
そんな事をうじゃうじゃと考えて日々を無駄に費やしていた。
そして、性格、身長、成績、どれをとっても一般的な人間が誕生した。付け加えるなら本の虫という減点の入った人物になったと言える。
しかし、転機は急に訪れる物で、その夏、自分の人生は変わった。
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