スイートボーイ

走鹿

どら焼き

 このストレス社会を生き抜くためには、自分なりのストレス発散の術を持っておくことが大切だ。

 例えば、カラオケで歌う、体を動かす、ひたすら寝るなど。

 やり方は人それぞれだが、僕の場合はお菓子を作ることだ。


 家を出る2時間前には起きて身支度を済ませ、手早く朝食を食べる。

 たいてい母親が用意してくれたサンドイッチかハンバーガーを食べたあと、キッチンに立つのがルーティーンだ。

 シャツの袖を捲り、調理台の上を整えていると、母親がカウンターキッチンの向こうから顔を出した。

「みっちゃん、今日は何作るの?」

「どら焼き」

「どら焼き?すごーい!やっぱりみっちゃんは天才だね。で、ママのケーキは?」

「昨日の朝のカップケーキなら、多分冷蔵庫にあるけど」

「そうじゃなくって、次はラズベリーのケーキにするって言ってたじゃない」

「ママ、みっちゃんの邪魔しちゃだめだよ」

 父親が僕の隣にやってきて、身を乗り出している母親を宥めるように肩を優しく叩いた。

「でも、パパのリクエストばっかりずるい」

「この前取り寄せた阿波の和三盆と丹波大納言小豆が届いたんだからしょうがないだろ」

「あ!また勝手に取り寄せたのね」

「だって絶対においしいから、ママに食べてほしかったんだよ」

「……もうパパったら」

 父親のおかげで場が落ち着いた隙をみて、こっそりどら焼きの生地づくりに取り掛かる。

 棚からガラスのボウル、泡立て器、フライパン、おたまなどを取り出し、無駄のない動線になるようにセッティングした。

 昨日、図書館で調べたレシピ本の内容を思い出しながら、ボウルの中で生地を混ぜ合わせていく。

 それがある程度混ざったら熱したフライパンに油を引き、おたまで生地をそれぞれ均等な大きさになるよう流し入れ、弱火にかける。


 僕は、中学生の頃から今まで毎朝欠かさずケーキを食べる母親と、この世で一番尊い食べ物はあんこだと豪語する父親の間に生まれた甘党のサラブレッドである。

 そしてうちの両親は、味覚のみならず性格にしても子育てにしても、何もかもが甘々だった。

 どこぞの御曹司のように、何をしても最高だ天才だと甘やかされ、完全に調子に乗っていた僕は、まず幼稚園での友達作りで初めて人生のつまずきを経験する。

 普通にしていたつもりが「あの子、自分の自慢ばっかりだから嫌い」と言って避けられ、いじめられた。子供は純粋が故に残酷なものだった。

 そうして早くも現実の厳しさを知り、いつしか自分から他人と関わることが怖くなった。

 しかし、生きている以上は社会生活からは逃げられない。両親に心配をかけたくないとは思いながらも、小学校は休みがちだった。

 そんなある日、母親が学校を休んでぼーっとする僕を見て「ママと一緒にケーキ作ってみない?」と言い出したのである。

 そして母親と一緒にケーキを作り、母親が完成したケーキを幸せそうに食べるところを見ていると、なぜかみるみるうちに心が回復していくのが分かった。

 やがて僕は、こうして学校に行く前にキッチンに立ってお菓子を作ることが日課になった。

「みっちゃん、できた?」

 母親がきらきらした目で僕の顔を覗き込む。

 フライパンの上でぷつぷつと気泡が出始めた生地をひっくり返すと、美しい焼き色が見えた。

「うん。これで、つぶあん挟んだら完成」

 生地に前日の夜に仕込んでおいたつぶあんを挟む。

 そして生地を落ち着かせるようにひとつずつラップで包んだ。

「パパ、時間大丈夫?」

「あ、そろそろ出ないと……これ、絶対残しておいて」

「なるべく早く帰ってこないとね」

「絶対に定時退社で帰ってくるから」

 宝石を眺めるみたいにどら焼きをうっとりした目で見る父親と、今にも手を伸ばそうとする母親を見て、笑みがこぼれた。

「ねえねえ、食べてもいい?」

「うん」

 完成したどら焼きをタッパーに入れ、リュックに入れる。

「ん!おいしい!ママ、こんなに美味しいどら焼き食べたことない!」

「よかった。あ、僕もそろそろ行かないと」

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 できたてのどら焼きを幸せそうに頬張る母親に見送られ、家を出た。


 最寄りのバス停にたどり着くと、タイミングよく学校行きのバスが来る。

 よし、今日はツイてる。

 人の流れに乗ってバスに乗り込むと、今日はいつもより少し混み合っていた。

 奥に固まっている自分と同じ制服の集団がいるエリアを避け、入り口に近い手すりを掴む。

 すると、すぐ横で舌打ちが聞こえた。

 ……やっぱり、今日はツイてないかもしれない。

 なるべく顔の向きを動かさないように目線だけを横に向けてみると、視界の端に避けたはずの同じ制服が見えた。ウワッと思った瞬間にバスが走り出す。

 ロータリーを出てすぐに大きなカーブに差し掛かり、ドンと隣の肩がぶつかる。

 さすがに無視することができず、軽く頭を下げて謝った。

「……すみません」

「おい」

「……はい?」

「いつも朝から甘い匂いさせてんじゃねえよ」

「えっ」

 思いがけない言葉に、顔を上げる。

 そこにいたのは同じクラスの倉橋くんだった。


 はっと気づくと、バスは学校に到着していて、集団の後に続いて降りる。

 倉橋くんは、サッカー部で明るくて人気者の学級委員だ。成績も良く、見た目も中身も非の打ち所がない彼は、男の僕からみても憧れる。

 今まで一度も話したことはないけど、僕とは対照的にいつも人と笑い声に囲まれていて、キラキラしていて、毎日学校生活を楽しんでいる感じがうらやましい。

 そんな倉橋くんから、あんな言葉を投げかけられるとは思わず、軽く記憶が飛ぶくらいショックだった。

 今日はもはや、ツイてるとかツイてないとかの次元ではなかった。


 そもそも、あれは本当に倉橋くんだったんだろうか。

 もしかしたら別人だったかもしれない。別人だったらいいな。別人でありますように。

 そんな祈りにも似た気持ちを抱えながら、教室の後ろの扉を開ける。

 すると、倉橋くんは既に席に座っていて、友達と楽しそうに笑い合っていた。

 残念ながら、やっぱりあれは間違いなく倉橋くんだった。

 いつも男女もカーストも関係なく、誰に対しても分け隔てなくフレンドリーに接していた倉橋くんに嫌われていたなんて思いもしなかった。

 しかし、よくよく考えてみると、同じクラスで今まで一度も話したことがないというのは、すなわちそういう事だったのかもしれない。

 誰にも気付かれないよう、そろりそろりと歩いて自分の席に着く。

 ……もう、朝からどら焼き食べちゃおうかな。

 バッグの中からどら焼きが入ったタッパーを取り出す。本来は昼食後の楽しみになるはずだったが、今日は食べないとやっていられない。

 指先で丁寧にラップを外し、そのままかぶりついた。

「なあ」

「んぐっ」

 急に声をかけられたことに驚き、ろくに咀嚼せずに一口飲み込んでしまった。胸元を叩きながらどうにか飲み込む。

 視線を上げると、目の前にいたのは倉橋くんだった。

「ちょっと来て」

 倉橋くんは人当たりのいい笑顔を浮かべて、僕を教室の外に誘い出す。

 嫌な予感がする。むしろ嫌な予感しかしていない。

 絶対についていかない方がいいと分かっていながらも、僕にその拒否権など与えられていないことは明らかだった。


 しばらく廊下を歩き、倉橋くんが突き当りの非常階段に通じる扉を開けた。

 ひと目のない場所までやってきて、僕は一体何をされるんだろう。

 蹴られるのか、殴られるのか、それとも突き飛ばされて、僕は……。

 勝手に縁起でもないことを考えながら非常階段の踊り場に出ると、背後でバタンと扉が閉まる。

 くるりと振り向いた倉橋くんは、バスで会った時と同じ、冷ややかな目をしていた。

「お前、なんなの?」

「え……」

「バスの中でもそうだけど、毎朝体から甘ったるい匂いさせやがって何なんだって聞いてんだよ」

「何って、言われても」

「しかもお前、さっきどら焼き食ってただろ。朝から教室中にあんこの匂いさせんじゃねえよ」

 全身から不機嫌なオーラが出ている倉橋くんは、僕の肩を軽く突き飛ばす。

「……ごめんなさい」

「なに、謝れば済むと思ってんの?」

「いや……でも、ごめん」

 謝る以外の方法が思いつかない僕は、うつむきながら重ねて謝った。

 今まで誰にも言われたことなかったけど、そんなに匂うんだろうか。

 ブレザーの匂いや中のシャツの匂いを嗅いでみるが、自分ではよく分からなかった。それに、あの一瞬であんこの匂いが教室に充満するとも思えない。

「とにかくこの匂い、どうにかしろ」

 ぐいと胸元に押し付けられたのは、小さな消臭スプレーだった。

「それお前にやるから、全身に振ってから教室に戻れ」

「え、そんな」

 舌打ちをした倉橋くんは、僕に苛立ちを隠そうともせずに睨みつける。教室にいた時とは180度異なる姿は、ひたすら恐ろしかった。

 視線を感じながら、僕は言われたとおりに体に消臭スプレーを振りかける。

「……これでいいかな」

「まだ匂う」

 手からスプレーが奪われて、頭からスプレーを振りかけられ、思わず抵抗してしまった。

「手、邪魔」

「ちょっと、やめて……!」

 再びスプレーを構えたその時、ぐうと倉橋くんのお腹から間抜けな音が聞こえた。

「……え?」

 倉橋くんの顔を見ると、ハッとした顔になり、一気に首まで赤く染まった。

「あー!! クソ!」

 倉橋くんが苛立ちを爆発させるようにそう言った後、手を振りかざした拍子に消臭スプレーが滑り落ちていった。


「あの……スプレー、取ってこようか」

「いいよ、もう」

 髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜた倉橋くんは、その場にうずくまる。

 さっきの勢いはすっかり失われていた。

「……なんで毎朝そんな甘い匂いさせてんだよ」

「あ……毎朝、甘いもの作るのが日課で」

「は?じゃあ、朝から自分でどら焼き作ってきたってこと?」

「うん。今日はどら焼き」

「朝から何やってんの?意味分かんねえ」

「一応、これが僕なりのストレス発散というか」

「もっと他にもなんかあんだろ、ストレス発散なんか」

 言葉が途切れた時、またタイミングよくお腹の鳴る音がして、思わず笑いそうになった。

「……お腹、空いてるよね」

「空いてない」

「でも、さっきからずっと鳴ってるから」

「うるせーな!お前がなんか甘い匂いさせてるせいだろ!」

 声を荒らげた倉橋くんは途端にバツの悪い顔になって、深い溜め息をついた。

「……倉橋くんって、もしかして甘いもの結構好き?」

「大っ嫌い」

「僕のどら焼きで良かったら、半分食べる?」

「大嫌いだって言ってんだから食うわけねえだろ」

 大嫌いだと口では言っているが、僕の予想では倉橋くんはほぼ確実に甘党である。一応、これまで甘党の勘は外れたことがない。

 それなのに、頑なに甘いものを自分から遠ざけようとしているのはなぜなのか。

「……本当に甘いもの嫌いなの?」

「嫌い」

「理由は?」

「食ったら太るから」

「あ……太るから甘いもの食べないようにしてるってことか」

「何だよ。悪いかよ」

「いや、悪くないけど……」

 舌打ちをして僕を見上げる。

 今度は何を言われるんだろうと身構えたが、倉橋くんは何も言わずに膝を抱えた。


 しゃがみこんで膝を抱える倉橋くんの横に、ひとまず腰を下ろしてみる。

 ちらりと忌々しげに僕の顔を見るなり、また深く溜め息をついた。

「中学の頃、太ってたせいでいじめられたんだ。だからもう甘いものは絶対に食わない」

「へぇ……」

「それなのに、毎朝バスでも教室でもケーキ焼き立てみたいな甘い匂いさせやがって……俺に対する嫌がらせとしか思えない」

 これはなかなかの言いがかりだ。そのうえ八つ当たりでもある。

 普段の明るくフレンドリーで人気者の倉橋くんは見る影もなく、まるで威嚇するハリネズミのように苛立ちの針を顕にする。

「……それって、本当は甘いものが食べたいってこと?」

 うっかり核心をついてしまったのか、倉橋くんの顔が急に怖くなった。

「誰がそんなこと言った?」

「いや、僕にはそう聞こえたから……」

「勝手に捏造すんな」

「ごめん……でも、ちょっとくらいなら大丈夫じゃないのかな」

「あのなぁ、元デブにとってはそのちょっとが命取りなんだよ」

「そうなの?」

「ていうか、お前何部?」

「えっ、帰宅部だけど」

「それで、毎日甘いもの作って食ってんの?何で太らないんだよ」

「何でって言われても……そういう体質としか」

「うわ」

「両親もすごい甘党だけど別に太ってないから、遺伝なのかも」

「ウザ……当てつけかよ。マジでムカつくから、それ元デブの前で二度と言うな」

「そんな事言われても、倉橋くん以外は相手が元デブかどうかなんて見分けつかないよ」

「それは……確かに」

 倉橋くんは僕と目を合わせると、ぐっと唇を噛んで笑いをこらえる。なんとも言えないむず痒さを感じて目を逸らした。

 それとほぼ同時にチャイムが鳴って、僕たちは急いで教室に戻った。


 甘いものが好物にも関わらず、食べられない人がいるというのは、これまで考えたことがなかった。

 もし、自分が同じような状態だったとしたら……と考えてみると、僕相手に言いがかりをつけて八つ当たりをしたくなる気持ちも分からなくもない。

 ……どうにかできないだろうか。

 甘いものに救われている者として、倉橋くんの中で甘いものがまるで悪者になっているということは、どうも見過ごすことはできなかった。

 しかし、倉橋くんが甘いものを遠ざけることで痩せたということは、食べれば太るのは事実。

 ただ、それは甘いものに限ったことではないはずだ。どんな食べ物だろうと、消費するカロリーを上回るだけのカロリーを摂取すれば太る。

 この問題を解決するアイディアを授業ノートの端にシャーペンを走らせた。

「……よし!」

「香坂、どうした?」

「あっ……何でも無いです」

「授業に集中しろよ」

「すいません」

 教師に注意されながら、倉橋くんの後頭部を見ていくつかのプランを思い浮かべた。


 家と学校のちょうど中間に、母親が働いている図書館がある。今日は授業が終わるなりバスに駆け込み、図書館があるバス停で降りた。

 図書館に足を踏み入れると、入口付近でチラシを張り替えていた女性が振り向き、僕に向けて手を振っている。

「光彦くん!」

「あ、どうも」

「お母さんからサブレ貰ったよ!バターの風味が最高だった」

「気に入ってもらえて良かったです」

「ピスタチオなんてお店で買ったお菓子みたいだったわ。持って帰って食べようと思ったんだけど、娘に見つからないようにするの大変なの」

「良ければまた作りますよ」

「本当に!?この前ね、うちの実家から柚子たくさん送ってもらったんだけど、それで何か作れる?」

「ちょっと考えてみます」

「わぁ、嬉しい!楽しみにしてるわね」

 僕に声をかけてくれた西尾さんは母親の同僚だ。僕のことを幼稚園の頃から知っている。

 学校に行かなかった時期はずっと図書館で過ごしていたこともあり、昔から働いている司書とは顔見知りだ。ついでに、この図書館でどこにどんな本が配架されているかも全て頭に入っている。

 検索機を素通りして、少し奥まった位置の食品や料理の本が並ぶ棚の前にたどり着いた。

 そこからお菓子に関する本を一通り眺め、なかでもダイエット、ヘルシーという言葉が使われた題名のものをピックアップしていく。

 数冊抱えて貸し出しのカウンターに行くと、そこには母親が座っていた。

「あれ、みっちゃん。今日こんなに借りるの?」

「うん」

「もしかして、新しいレシピの研究?」

 目を輝かせながらバーコードを読み込む母親に、申し訳ないが大好きな甘い生クリームを使ったお菓子はしばらく作らない、と心のなかで謝った。


 家に帰ってきて本を読み漁った結果、いくつか収穫があった。

 まず、脂質の量が問題であること。そして、食物繊維が多く含まれている必要がある。

「となると、やっぱり和菓子か」

 食物繊維が含まれている寒天や小豆など、自然に使える材料の選択肢が絞られていく。

「水羊羹、水まんじゅう……ん?」

 どら焼きのレシピの最後に「豆乳、おからパウダーで代用」という一文に目が留まる。生地におからパウダーを使えば、糖質を抑えられるらしい。

「え、なんか面白そう」

 そして僕は、おからパウダーを求めて家を飛び出した。


 近くのスーパーを3軒回り、やっとの思いで手に入れたおからパウダーを使ったどら焼きはかなり難航した。

 初めての材料を使うときはワクワクする。

 しかし、生地の質感が納得できずに夕食の後から試行錯誤を繰り返し、日付が変わるころになってやっと要領が分かり始めた。

 皿の上に積み上がった失敗作の生地をつまみながら、挟む粒あんを煮詰める。

「あんこの匂いがするな」

「あ、父さん……びっくりした」

「いい匂い……またどら焼き?」

「うん。これは、太らないどら焼き」

「ふーん……太らない……そうだ、今朝のどら焼き最高だったよ。あの小豆また取り寄せちゃおう」

「母さんに怒られるよ」

「何だかんだでママも3つ食べてたから気に入ってるよ」

 セットしていたタイマーが鳴り、コンロの火を止める。

「味見してもいい?」

「うん」

 父さんが完成した粒あんをスプーンですくって口に運ぶ。

「これ、何の甘さ?」

「エリスリトールっていうやつ。初めて使ってみた。これは糖質だけど体に吸収されないんだって」

「なるほどね……」

「どう?」

「甘いし、うまいと思うよ。これなら夜に何個でも食べられちゃうなぁ」

「よかった」

「さては、これを食べてもらいたい子がいるんだろ」

「……うん」

「喜んでくれるといいな」

 何か勘違いしているような気もしたが、とりあえず頷いておいた。


 翌朝、母親が朝食を作る横で仕込んでおいたどら焼きを2つ、タッパーに入れる。

「何作るのかと思ったら、今日もどら焼きだったのね」

「うん、ごめん」

「やだ、なんで謝るの。みっちゃんが作りたいものを作るのが一番じゃない。ママとパパは、みっちゃんが作るものなら大歓迎」

 そう言いながら母親が試作品のどら焼きを頬張る。

「……甘いものじゃなくても?」

「当たり前でしょ。たしかに甘いものは大好きだけど」

「そっか」

「で、みっちゃんが食べてほしい子って誰なの?やっぱり甘い物好きな子?同じクラス?」

「えっ、いや」

「今度、家に連れてきてママにも紹介してね」

「紹介って」

「もう、照れなくていいのに」

「照れてるとかじゃないんだけど……」

 案の定、父親の勘違いがそのまま伝わってしまっているなと思いながら、母親が作ってくれたサンドイッチを頬張った。


 母親からの妙な追求をかわすうちに、いつもよりも家を出るのが遅くなった。この調子で歩いていると、学校行きのバスに乗れない。

 小走りでバス停に向かっていると、1台の自転車が僕を追い抜いていった。

 先の横断歩道で信号待ちをしている後ろ姿を見て気付いた。

「……あ」

 倉橋くん。

 追いつこうとして駆け出すと、タイルの隙間に躓いて転んだ。

「うわ!」

 ズシャッという音とともに膝を擦りむいて、制服のズボンに穴をあけてしまった。最悪だ。

「いたた……」

 膝の汚れや小石を払っていると、自転車のチェーンがカラカラと回る音がこちらに近づいてくる。

「……何やってんだよ」

「倉橋くん……おはよう」

「おはよう……っていうか、めちゃくちゃ転んだな」

「はは……今日はバスじゃないんだね」

「バス乗り遅れそうだったから、チャリにした」

 その時、乗るはずだったバスが倉橋くんの後ろを通り過ぎていった。

「あ、バス!」

「おい、信号赤だろ」

「うわ……終わった」

「それじゃ、お先に」

 横断歩道の信号は青に変わり、倉橋くんがペダルを踏み込もうとする。

 遅刻が確定した僕は、意を決して自転車の荷台を掴んだ。

「わっ、あぶね……何すんだよ」

「僕、倉橋くんに食べてほしい物があって」

「はあ?お前まさか」

「昨日、倉橋くんに作ってみたんだ」

「何を」

「食べても太らないどら焼き」

 倉橋くんは、僕の言葉に反応するようにぱっと目を見開いた。


 生け垣の近くに自転車を止め、公園の中にある古いベンチに並んで腰掛けた。

「……で、どれ」

「これ」

 バッグの中からタッパーを取り出す。

 さっき転んだせいか少し潰れてしまった方を手に取り、タッパーごと倉橋くんに差し出す。

「……マジで食っても太らないの?」

「普通に売ってるどら焼きとかよりは全然太らないと思う」

「でも見た目変わんないじゃん」

「でしょ?結構大変だったんだよ」

 はい、と顔の前まで持ち上げると、倉橋くんの瞳が揺れた。おそらく葛藤している。

 僕はタッパーを下ろし、自分の分のどら焼きにかぶりついた。

「うわ、食ったよこいつ」

「おいしい」

「お前な……目の前で食うとかマジで無神経にも程があるだろ」

「だって倉橋くんが食べてくれないから」

「……罠じゃないよな」

「罠?」

「これで俺のことを太らせようっていう」

「何それ」

 二口目を食べていると、倉橋くんはタッパーの中のどら焼きに対してなんとも言えない視線を注ぐ。

「僕、倉橋くんが太っても痩せててもどっちでもいいよ」

「……」

「ただ、本当は甘いものが好きなのに食べられないっていう状況をどうにかしたいっていうか」

「どうにかしたいって……どんな立ち位置」

「だって甘いものって、作ってる時も食べてる時も幸せになれるのに、太るから食べないなんて言うからさ」

「……」

「それなら、太らない甘いものを作ればいいだけじゃん?」

 そうして倉橋くんは、タッパーの中のどら焼きを手に取った。

 あともうひと押し。

「これ、おからパウダーで生地の糖質と脂質を抑えてて、粒あんは食物繊維が豊富で、砂糖の代わりに体に吸収されないエリスリトールを使ってる」

「エ、エスリン、何?」

「エリスリトール。トウモロコシが原料なんだ」

「ふーん……」

「まぁでも、嫌だったら無理に食べなくても」

 倉橋くんの手からどら焼きを取ろうとすると、ひょいとどら焼きを僕から遠ざけ、背を向けられた。

 少し動く後頭部を見て、これはついに食べてくれたと思った。

「ど、どう?」

 肩越しに顔を覗き込むと、どら焼きを頬張ったまま涙をこぼしていた。

「えっ」

 驚いて立ち上がり、倉橋くんの前に回り込む。

 がっくりと項垂れた倉橋くんの手には半分以上無くなったどら焼きがある。おいしいって思ってくれたんだろうか。

「……お前、とんでもないもの食わせたな」

 目を擦り、ゆっくりと顔を上げた。

 充血した目にはうっすらと涙が溜まり、口元は変に緩んでいて端にあんこが付いている。

「……超うまい」

 そして大きな口を開けてどら焼きにかぶりつくと、また涙が溢れて頬に落ちていく。

「はぁ……マジどら焼き食って泣くとか、意味分かんね……」

「ううっ」

 倉橋くんが泣いているのを見ているうちに、なぜか僕も泣けた。

 すると逆に倉橋くんの涙は止まったようで、ぽかんとした顔で首を傾げている。

「何でお前が泣いてんだよ」

「わか、わかんない、けど」

「……ちょっとここで待ってろ」

 そう言って倉橋くんは手の甲で涙を拭い、近くにあるコンビニの中へと消えていった。


 戻ってきた倉橋くんの手にあった袋には、飲み物と絆創膏が入っていた。

「僕に?」

「さっき、転んだときに手擦りむいただろ」

「あ、ほんとだ」

「そこで洗ってくれば」

 言われるがままに水道で手を洗って戻ると、倉橋くんがわざわざ絆創膏を貼ってくれた。

「太らない甘いものなんて、この世に存在しないと思ってた」

「……工夫すれば、脂質とか糖質を抑えたお菓子も作れるよ」

「……他にも作れんのか」

「え?」

「太らない甘いもの」

「まぁ、うん」

「……また作って」

「え?」

「また作って……ください」

 お願いします、と小さな声で言いながら倉橋くんは頭を下げた。

「お菓子を作る代わりに……お願いがあるんだけど」

「何?」

「僕と、友達に……なってくれないかな」

 友達という言葉を発した途端、心臓がバクバクと大きく脈打つ。

 もし、調子に乗るなって言われたらどうしよう。やっぱり言わなきゃ良かったかもしれない。

 思わず絆創膏が貼られた手のひらをぎゅっと握った。

「お前、友達になんて呼ばれてんの」

「あ……えっと、僕、友達いたことないから分かんない」

「じゃあ、シンプルに光彦でいっか」

「うん」

「今日から、光彦が俺の優先順位1位だから」

「……えっ?」

「よろしく」

 別にそこまで望んでた訳じゃないんだけどな、と思いながら、差し伸べられた手を握った。


 おわり

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