白髪JAP

真希波 隆

白髪JAP


「世界よ。代われ、と願うころ」とそらんじる。



「星志は慟哭だ」と言われた。その人は、太陽に当たると白く照る髪をしていて、そのくせ誇らしげに短髪で、くせのある低い声で、僕に語った。

「世の中ってやつは、胡散臭い連中ばかりだ。胡散臭いことに理由なんて要らない。そいつを見て、そいつがああだこうだ思ったら、そいつは胡散臭い。たまに許せるような連中にも出くわすけどな。お前は圧倒的に胡散臭い部類のボケだよ。安心しろ」

 僕はチューハイの中身を確かめるように、ちゃぷちゃぷと揺らして、「そ」と言った。

 彼は全裸のままベランダに出て、自分の右手で、鎖骨を伝って胸筋から背筋へ、そして背中の線と尾骶骨を確かめる。「おれのからだ、いいだろ」

「お前ってどうして自分の裸ばかり点検するの?」

「おれの腹筋は素敵だ。おれの胸筋は見るものを圧倒させる。肩から腕にかけての筋肉、腰のくびれは驚嘆に値する」

「うん」

「そうだ。おれの肉体は健全で索敵する相手を打ち負かす実力を持つ。たとえその相手が同性愛者でなくても、そいつはおれにうっとりするだろう。おれに触りたくなるだろう。おれの肉体を享受するためならば、なんだってするだろう」

「それは、すごいね」

「その通り。スパゲッティーは美味しい?」

「美味しい。お前って料理は上手だよね。いつも思う」

 ベランダから寒風が吹いてくる。「寒くないの?」

「おれは自分の体が熱を帯びていることを、とても実感している」

「そう」

「星志もこっちに来いよ」

 僕は少し黙った。

「やぶさかではない」

「難しい言葉を使う」

「難しいというよりかは、皆が使わないだけだ」

 僕はベランダに行って、裸の白髪を、赤子を触るみたいに、弄んだ。彼は猫みたいに目を細めて、僕の学ランを脱がせようとした。「僕は脱がないよ」

「いつもそれだ」

「僕は、そういうんじゃないんだ。そういう気持ちにもならない。でもお前の体がきれいだとは思う」

 彼はつまらなそうに、ジャージを羽織って、僕の耳たぶを甘噛みして、そして寝室に去っていった。僕はスパゲッティーの食器を洗って、帰った。



 帰り道の歩行はいつだって、僕が孤独で寂しくて、白髪のあいつを求めていることを浮き彫りにする。夜道を歩く僕は街灯に照らされて、「夜桜みたいだね」と言われたことを思い出す。誰に言われたのかは、なんだか曖昧だ。この孤独という名の音は伝わるのだろうか。孤独は人を飢えさせるのだろうか。ときに、誰でもいいから自分を抱きしめてくれる誰かを夢想する。そんな人はいない。白髪は除外。世界中のどこにもいない。かつてはいたのだろうか。古の世界は愛を信じていたのだろうか。今も? いいや、それはフィクションだ。

 真理。そんな名前の女の子と付き合ったことがある。まり。しんり、とも読む。僕があたかも裸で夜道を歩いているみたいだ。少し心地よくなる。胸の奥を抜ける風もそう、肌をなでる空気もそう。瞳を驚かす月もそう。世界はエロス。僕にはそれが絶望だった。

 最近考えることは「死」と「雪」についてのあれこれだ。秋の終わりの東京に、めったに雪は降らない。僕が諦めている白髪のあいつは、自殺を今のところ十五回試みて、全て未遂だ。

 タイムトラベラー思想をご存じだろうか。理論はいたって明瞭だ。人間の考え方として存在する「時間」という概念について考え、その旅行者や観光者について考える。英語の発音がでたらめな「アイ・ラブ・ユー」みたいに。そして時間がもたらす「死」と「雪」について考える。「死」は時の流れがもたらす、きわめてハードな通過点だ。雪は時期が来れば、ふり、時期が来ればやむ。例の白髪は死ぬ。白髪が死んでからが、勝負だ。



 階段を一段ずつのぼる。足音が反響する。これが僕の出した答えだ。空へ。僕は空へ行く。

 天蓋都市。そこでは守護天使の騎士たちが群れなして軍とするような、あるいは忘れられたストリート・キッズが狩人を語るような、そんな秩序と平和からは隔たった空間で世界が生まれていった。奇想天外なこの都市で巻き起ころうとしている事件。これはのちに心臓の鍵をめぐる冒険の序章となるのだ。物語は僕がグラウンド・ゼロ(爆心地)から脱出し、空中都市ヘヴンズ・フィールで、あるじから逃げ回っている。目指す場所はスペース・コロニー。安寧の地。幸せを追求するために僕は戦うことを選ぶんだ。

 あーあ。忘れていくことは悲しいが、忘れられない苦しみも嫌だ。わがままだろうか。

 そんなことをチューハイ飲みながら、考える。今日はレモン・サワーにしようか迷った。期間限定でお得だったから。理由はそれだけ。でも、やっぱり今日もチューハイ。

白髪は、服を丁寧に脱ぐ。学ランを脱ぎ、ワイシャツのボタンを一枚ずつ外し、ズボンを脱いで、学ランと一緒にたたむ。靴下も。基本的に白髪はパンツをはかない。全裸になった白髪は、いつもみたいに丁寧に自分の体を点検する。

「最近、足に注意している」「は?」「おれって、足が太りやすい。なめらかなカーブを描いていないと、美しくないだろ」「そうだね」

「ねえ」と声をかける。「なに」とぞんざいな白髪。

「生きていてもいいのかな」「知るかよ」

 眠れないことを知った。抱かれることが怖いことを知った。寂寞ははじけ飛び、欠片がズブズブと僕のからだに突き刺さって、逃げられない。残るのは何か、と誰かが物語る。真実なんて要らない。ローリング・スター、僕らは夢の中で、死体を思い浮かべる。ぐるん、ぐるん。「螺旋は恐怖か?」

 後悔なんかしている暇はない。白髪は口を引き結んで「なんかあった?」みたいな感じで僕を見る。物事には譲れない決まりごとがある。我々にはそれに則る必要がある。ああ、そうだ。僕は、明日を生きねば。

 つまり、屋上。白髪は、屋上とか図書館分館とか、そういう人のいないところでしか、僕と関わらなかった。白髪は友達が多く、僕は友達が少なかった。白髪は自分のことではなくみんなからどう見られたら、気持ちいいのかを考え、僕は自分がどうしたらこの世界に対して「脱出願望」を抱かなくなるのかを考えた。

 白髪は僕に会うたびに、僕のにおいを嗅いだ。「女みたいなにおい」「それ良い意味?」「ありていな事実」「そ」そんな会話。

 屋上で全裸になっていようと、誰も気にしない。白髪は、臆さないし、気にしない。変人だと思うし、バカだと思う。でも、僕はそういうやつが好きだ。白髪も例外じゃない。白髪はきっと僕のことなんて実験動物もといモルモットくらいにしか思っていないのだろう。自分とはあんまり縁のなさそうな人間の考えていることや行動が知りたいだけ。そういうタイプ。不届き者と言えば、不届き者。

 集団の中にいて、誰もかれもが徒党を組んであそんでいるとき、僕はたいてい一人きりで、手持無沙汰にどうしようかと考えていることの方が多い。僕が苦手なのは、決して人間なのではなく、あまつさえコミュニケーションでも、ヒトに嫌われる事象でもなく、単純に誰かと仲良くすることだ。

 僕は誰でもいいけれど、どんな人間に心を寄せられても、ひどく面倒くさい気持ちになることの方が多い。言い訳かもしれない。飽きられたり離れていかれたりすることが経験上、恐いだけなのだろう。

 大衆の中、ヒトは無害だ。そして無害であることは時に、残酷だ。誰とでもキスをする。たまに通じ合えると僕は貪欲になる。大切な人ほど、僕は遠くに置いてしまう。集団から放逐されていると自分が思うことに否定できない。そして、集団に化けていく自分以外が、僕の中で対立構造を生み、世界と成り、僕は孤独を改めて何度でも痛感する。傷つくのが怖いんじゃない。もちろん、傷つくことだっていやだ。でも、それ以上に繋がりが生まれたときに、僕がそれをどうしたらいいのかわからなくなることが恐い。孤独。僕は孤独の論理のようなものがわかる気がする。それはいつだってパターンの解析をするようなものだ。パターン。こういうことが起こりうる。それではどうするか。問題の起点。人付き合いという論理。体系的ですらあるのかもしれない。ラーメンをおごる友人は必ず遅刻をし、グループに入った友人は、僕を見下して僕から離れていく。「みんな」で何かをやることはすてきなのかもしれない。白髪は言った。

「アリストテレスって誰?」



 無意識の欠如。視えているもの全てが虚構に思えてくる。信じてきたことがなにがしかの一部として作り替えられていく。

 残るのは僕ではなく、ただの混在から生じた夢だ。全く動じない夢想が、僕にそっと呼びかけてくる。

 夢想は不定形から球体へとナリを転じ、ヒトの形へと変貌していく。死んでいる者みたいだな、と思う。

 生きているのか、死んでいるのか、わからない。混在から生じた夢が僕に成り代わってしまうかもしれない。

 でも、そんなの、いやだ。僕はそんなことを許せない。景色が変わる。空とガラスの床。ガラスの床は何もうつさない。

 空を反映しようと努力しているようだ。ばかみたいだ。全部が、何が見えるべきかを考えている。本当のことを探している。

「うそつき」言葉を話す。「フェイク」と言う。「フェイクだったんだ」と告げる。無意識の欠如。

 欠如なんて厳かに言っているのは、恐いからだ。

 現実の直視。いいや、違う。現実は直視できるだけの個数ではない。数ある現実全てを直視するほど、僕らには余裕がない。

 みえるもの、きこえるもの、におい、あじ、さわるってこと、感覚、いずれも個だけのものじゃない。これは欠如。

 わからないことをわかろうとする。偉い人は罰を下す。無意識の欠如。与えられた。ねだらなかったら、勝ち取らなかったら、どうなっていただろう?

「さすれば、与えられん」

 僕の表情がわからない。ひどく身体に飢えている。脳みそを信じたい。鏡に映る自分のすべてを現実だと思うことが今はもうできない。無意識そのものの離脱。

 もうどうしようもない。救われない。救えない。不自由がない。いいじゃないか。世の中にはもっと実利的なマイナスで悩んでいる人が大勢いるんだ。何を憂える必要が?

 僕はわかってたんだ。さだめがあるから、僕は僕足りうるのだということ。ああ。ああ。どうしたら?



「帰山先生、死んだって」と白髪。

「塾の先生? なつかしいな。どこ情報?」

「ああ、お前、グループライン入ってないもんな」

「ラインっていうか、スマホ買う金がない」

「両親いないし、爺ちゃん死んじゃうし、お前軽く不幸だよな」

「ふは。英語の人だよな?」

「そうだよ。くまって呼ばれてた人」

「僕、あの人と二回くらい映画見に行ったな」

「えー、マジ? 好きだったの?」

「スター・ウォーズで盛り上がっただけだよ」

「オタクだな。まー、そういう感じだったな」

「面白い人だったのに」

「面白い人だったな」

「死んだな」

「死んだのかー」

「悩んでたんかね?」

「何によ」

「何かによ」

 公園のブランコに座って、冬なのにガリガリ君ソーダを食べる僕と白髪。ガリガリ君ソーダは季節で味が変わると、白髪が言って、僕がうそつけ、と言い、結局買うことになった。

「世の中ってわからないよなー」

「え?」

「人が一人死んで、それでさ、悲しいとか悔しいとか、最後に会いたかったとか、お前、そういう風に思う?」

「僕は思わない。もう会わないだろうと思っていたし、死ぬことっていうのが、ちょっとよくわからない。爺ちゃんが死んだときも、爺ちゃんが死んだことより、自分がこれからどうやって一人で生きていくのかを考えるので、精いっぱいだったし」

「そういうもんだよな。おれもそう思う」

「そんなことよりガリガリ君、あんまり味がわからない」

「寒いからな」

「からだ冷えてきた」

「走るか?」

「陸上部で県大会いくやつと走りたくねえよ」

「ペースくらい合わせてやるよ」

 そうして、僕らは走った。帰山先生のことなんて、もう頭には残っていなかった。



 家に帰っても、誰もいない。

PCを起動し、適当に音楽をかける。洋楽が主で、エド・シーランを三年くらい前から好んで聴いている。

哲学書にはまっていて、アリストテレスだとかフロイトだとかプラトンだとか、そういうものを適当に図書館で借りてきて、読んでいる。

暗い部屋が好きで、デスク・スタンドをつけただけの部屋で、本を読み、数学を解き、物理について考え、借りてきたDVDの映画やドラマを見て、「僕は何をしているんだろう」と思う。

白髪からラインがしょっちゅう来る。白髪がしていることや買ったものを画像で送ってきたり、よくわからないポエムを送ってきたりする。たいてい、無視するが、既読はする。それだけで、白髪は満足なのだという。他の大勢の友達にも同じことをしているようだ。

 眠る。過去と未来が交錯する。いないはずの両親。顔が見えない。手をつないでいる。抱きしめてくれる。僕のことを、「好きだよ」って言ってくれる。困ったときに「大丈夫?」って聞いてくれる。強がって「平気だし」って言うと、頬を引っ張られる。そんな幼少期を夢見ている。



「今、来られる?」と白髪から連絡があった。「行けるよ」と送った。

 僕は自転車に乗って、白髪の家に行った。

 単刀直入に、白髪の部屋で、乱交パーティが行われていた。全員、男だ。白髪は野球部だったから、野球部の連中が多かったが、白髪のクラスメイトも幾人かいた。先輩もいるみたいだった。

「おう、来たか」と白髪がしゃぶられながら言った。「僕、帰るわ」恐かったから。

「いいから、こっち来いよ。かわいいな、お前」「ちょっと」と言っている間に、服を手際よく脱がされて、先輩だと思われる人に抱きしめられた。頭の中にあった氷塊のようなものがどろりと溶ける感触があった。やばいくらいに、気持ちよかった。なんだか、どうでもよくなってきて、僕はその先輩にぎゅうっと抱き着いた。

「なんだ、こいつ。かわいいな。甘えん坊か?」

「そいつ、まだ初体験だから、お手柔らかに」と白髪のフォロー。なんだかどうでもよくなっている僕。人の体温。あったかい、ってこういうことなんだ。

 先輩が僕の唇に触れる。僕は指をしゃぶる。先輩の指は汗ばんでいて、しょっぱい。僕は素っ裸で先輩も素っ裸で、あったかくて、なんだか自分が人間じゃなくなっているみたいだと思うと、性器が屹立した。僕が先輩を抱きしめると、先輩の性器が腹に当たって、かたくなっているのが、わかった。僕は頭の中がスポンジみたいになっていて、先輩の言うことを全部聞いた。あったかい。ずうっとそう思って、一晩を過ごした。明け方になってくると、学校の宿題をやるからとか、そういう理由でみんな帰っていった。僕と白髪だけが残った。

「気持ちよかった?」「ああ」

「お前って、やっぱりかわいいよな」「どこが?」

「すぐ人のこと、好きになっちゃうだろ。ちょっと優しくするだけで、その人の下僕みたいに奉仕しちゃう。だから、おれはお前とは対等でいたいんだ。お前のことが好きだから」

 白髪は僕の身を引き寄せて、抱きしめた。「ホモとかゲイとかそういうんじゃねえんだよ? 確かめたいんだ。自分が人間なんだって。男同士とかさ、それだけで気持ち悪いとかよくわからない。それにそういうことを社会に認めてもらおうとか、そういうのもよくわからない。もっと適当に、気楽に、やってればいいのに、って、おれはそう思うけどね。性欲なんて、そんなもんだろ?」

 僕は白髪とキスをした。それはうまれてはじめてするみたいなキスだった。僕が怪物だとしても、白髪は僕とキスをするだろうか? 僕が宇宙人だとしても、白髪は僕とキスをするだろうか? 僕は白髪が白髪だから、キスをしている。それは感覚なのだろうか? 心の在り様なのだろうか? 僕には難しいことはわからないけれど。

 でも、正解は一つじゃないって、そう思えた。



「あなたによびかけている」とそらんじる。


10


 相変わらず、黒板の色は緑色だ。

雨が降っている。白髪は授業を受けているのだろうか。あの目立たないトイレに友達と集まってタバコでも吸っているんじゃないだろうか。白髪にした理由を聞いたことがある。白髪は中国人だ。名前も中国語の名前だ。父親は日本で働いた方が儲かるという理由だけで、日本に来て、日本のことをこころからバカにしている。母親は適当に人間関係を築き、適当に生きている。どうだっていいらしい。そして、その息子である白髪は、日本人だとか中国人だとか、そう考えるのが面倒くさくなったという。そして、どうしてなのかよくわからないが、中学二年生の時に、美容院に行って、丁寧に白髪にした。そして、それ以降、白髪をやめなかった。高校二年生の今に至るまで。先生には「地毛です」と言う。「過労です」と言う。「ふす」と笑う先生もいれば、ガチギレする先生もいる。それなのに、絶対に髪を白くし続けている。筋トレとランニングとスイミングを毎日欠かさずおこなうのと同じように。不断の努力だと思う。だから何? と言われたら、それで終了だろうけど。

 白髪は酔っぱらうとスタンド・バイ・ミーを歌う。結構うまい。スタンド・バイ・ミー。いい歌だと思う。映画の『スタンド・バイ・ミー』を思いだす。白髪が求めているものがなんとなくわかる。僕にラインするとき、白髪はひどくポエティックだ。マキャヴェリが好きだ、と繰り返し言う。誰それ、って聞くと、「君主論だよ、君主論」って言う。

 白髪が寂しいのがわかる。白髪は埋められない孤独みたいなものを持っているような気がする。気楽には生きられなくて、どうにかして自分のことをわかってあげたいのだけれど、どこかで自分のことを信用しきれていない。挫折をしたことがあるらしい。中学受験をしようとしていた白髪は成績の悪さから、受験をやめることになったという。僕なんかからしたらどうでもいいとか思っちゃうけれど、白髪は昔のことを真剣に悩んじゃうタイプの人間なのだろう。白髪はきっと、そういうこと、わからない。

 白髪は数学ができる。抽象概念だよ、と言う。何それ、と聞くと、「やれやれ」と言う。それが村上春樹の模倣なのはわかる。でも、白髪が村上春樹にどっぷりと浸かっている姿を見るのは、あんまり見ていて気持ちのいいものではない。白髪はあくまで野球部で、バカで、なんにも考えてなくて、笑いを取るのが大好きで。白髪とはそういうやつであってほしいと、僕は願っている。

「星志くん、五十六ページ問2」

「五分ください」「五秒あげます」「無理です」「そうでしょうね」

 教室はしいんとしていた。先生は怒っていた。生徒に怒っている。僕を含めている。

「桑子敏雄訳のアリストテレス『心とは何か』を課題図書にします。これ、テストに出ます」

「数学で?」と僕は思わず突っ込む。

 ちょっと受けた。


11


ジャングルジムにのぼった。思いがけないくらい高かった。ちょっと恐い。座って景色でも眺めようと思ったけれど、今すぐ、降りたい。よし、降りよう。そう思ったら、白髪がやってきた。「何お前、楽しそうなことしてるな」とか言って、がんがんのぼりはじめる。おりるにおりられなくなってしまった。

「景色いいな」「ああ」

「ちょっと高いだけなのに、全然見え方違う。あーあ、のぼってよかったわ、なんか」

 白髪は楽しそうに僕の背中をバシバシたたいた。僕は恐怖で、でもそれがばれるのが嫌で、適当にごまかすしかなく、「ああ、そうだな」とか言っていた。

「あのさ」「うん」「この前は、ごめんな」「この前って、結構、謝られる理由あるから、どのこの前なのか、わからない」

「尻、初めてだったから痛かっただろ」

「ああ、それね」

「そう」と白髪は伏し目で言う。

「先輩だったの、あの人?」

「そうだよ。部活の先輩。優しかった?」

「優しくしてくれたよ。尻もものすごく念入りにほぐしてくれたし。『痛くない?』って何回も訊いてくれた。結構、平気だったよ。気にしなくていいからな」

「そっか。よかった」とほっとしたように優しく微笑む白髪。なんだかいじらしかった。

「酔っぱらってたから、なんか誘っちゃったんだ。で、お前はずっと何も言わないし、みんな帰った後も、酔っぱらってるおれにキスされてたわけだから、だんだんなんかやばいことしちゃったんじゃないか、と思って」

「平気だよ。気にすんな」

「そっか。ほんと?」

「ほんと。大丈夫。それに」と言いよどむ。

「それに?」

「気持ちよかった」

 そして、僕と白髪は爆笑した。


12


「ディケンズ読んだことある?」と白髪。

「『オリヴァー・ツイスト』、『二都物語』、あとはなんか長いやつ。タイトルは人名」

「ああいうのって、なんか結局、未来が幸福であるだろうな、って感じで終わるじゃん? おれそういうの、いやでさ。良いこともあれば悪いこともあって。それで乗り越えたり鬱屈したり、転んだまま立ち直れなくなって死んじゃったり、うだうだ生きていったりするわけだと思うんだ。おれだってこんな髪型にしてさ、短い白髪頭で学ランなんか着てるじゃん? これおれのポリシーとかそういうんじゃないんだよ。そうしたいから、そうしてるわけでさ。それ以外の何でもないんだ、いやほんと、マジな話。でな、楽しいこととか気持ちいいこととかってずっと続くわけじゃないと思うし、それって当然だろ? 定期テストで毎回毎回一喜一憂するだろ。ずっと学年一番なんか無理なわけだ。おれは高校二年生現在、今のところ二回くらいしか学年一位取ってねえよ。で、クソとか思って、勉強して部活やってさ。あー、おれ何言いたいんだろ」

「ま、伝わってるよ」

「そうか?」

「なんにでも終わりがあるってことだろ、良し悪し関係ない前提で」

「あ、それ。マジでそれ」

「でも短い白髪頭はトレードマークみたいには、なってるよな」

「おれ、この前家族旅行でハワイ行ったらさ」

「ああ」

「ホワイト・ジャップって言われたわ」

「白髪の日本人的な?」

「たぶん」

「はは。それ受けるな」

 放課後の教室で、でかい声で話す白髪は、適当に相槌を打ちながら数学の勉強をする僕の邪魔をしていた。しかし、まあ、これも僕の日常。

 世の中には道理というものがあって、きっと僕たちはそれを探しながら、生きていくのだろうと思う。それが今の僕の最善の答えだった。

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