第75話 別れの時
僕はホビットと肩を並べて、少しだけ湾港付近を歩いた。
「なんかその、ホビットさん……今までいろいろとお世話になりまして、ありがとうございました」
僕はそうポツリと呟いた。すると、オーバーアクションを取りながら、僕の前にホビットがピョンと立った。
「おいクロパン、確かに俺の方が三年先輩だが、ホビットと呼び捨てにしてくれて構わないと言ったはずだぜ。俺たちは友達だ。そんな他人行儀な言い方よしてくれ」
僕はプッと吹きだして、
「ねえ、本当にホビットは三年だけ先輩なの?」と訊いた。
「いや、実は今年で三十歳になる」
「やっぱりな。体が小さいし童顔だからつい信じてしまいがちだけど、さすがに十代の設定は無理があるよ」
この指摘に僕たちは大きな声で笑った。
「でも、僕もひとつ嘘をついていたんだ。僕が引きこもりになった理由。クラスメイトの悪戯で、女子生徒の黒パンストを盗んだ嫌疑を掛けられていたっていう話」
僕は言うべきかどうしようか躊躇ったが、思い切って告白した。
「実はあれ……本当は僕が盗んだ」
それを聞いてホビットは、
「知ってた」と言った。
「どうして?」
「俺の愛用してたパンストがニートザワールドのランドリー室から返却されなかった。そしたらお前が持っていたからな」
「えッ? あのパンスト、ホビットのなの?」
「ああ。俺は体がこんなだから、伸縮自在のパンストを寝巻代わりに使用している。それが返却されなかったとき、女子寮の方に紛れ込んだかと思っていたが、なんとお前が持っていた。『コイツ、パクリやがった』と」
僕は仄かな酸味の効いたパンストを毎夜くんかくんかしていたのは、なんとホビットの体臭だったのだ! 僕は思わず吐き気を催した。
「おい、大丈夫か?」
僕の背中をホビットが擦ろうと背伸びをする。
「大丈夫大丈夫」僕は手を挙げてホビットを制した。
「そういやあ、ホビットが鼻血を出したときは大丈夫だったの? 血の色も青みがかっていたけれど」
「あのときの鼻血はグレープジュースさ。ちなみに過剰な銅成分がスープの中に混入されていたっていう話も嘘だからな。あれは単に煮詰めに煮詰めた、ただのポタージュスープだ」
僕はそれを聞いて安心した。いや、スープの中身では無い。ホビットが無事ならそれで良かった。
それから少しの間、僕たちに沈黙が走った。
何を言えばいいのか、何を話せばいいのか、途端に分からなくなった。水平線に顔を出した太陽を背後に両親の姿を目撃したからだ。僕はホビットから、そしてニートピアから離れなくてはならない。その時間が刻一刻と迫って来ていた。
「あの……」
僕は立ち止まり、とりあえずこう言ってみた。
「どうした?」
「その、ありがとう……」
「さっきからそればかりじゃないか。礼なんて聞き飽きたよ。今度はその言葉を、お前をここまで育ててくれたご両親に対して言ってやれ」
「うん」
僕は頷いた。
ホビットが僕の前に背伸びをして立つ。
「じゃあな」
彼が小さな手を僕に向かって差し出した。
初めてニートピアを訪れたとき、食堂のテーブルを這い上がって、僕に手を差し出したあの日のことを懐かしくも思い出した。すると急に何だか熱い物が込み上げ、目の前がふやけてきた。
「おいおい、何泣いてやがる。男なんかに泣かれたって、俺はちっとも嬉しくなんか
ないぞ」
「だって……だって……」
両膝を地面に付けると、僕はホビットにしがみ付いた。
僕は彼との別れが惜しくて、恥ずかしながらうおんうおんと声を上げて泣いた。
「ニートピアから、ホビットから……離れたくないよ……」
その言葉を聞くと、ホビットがきつく僕を抱きしめてくれた。そして僕を自身の胸から離すと、
「何を言ってる! お前はここを出て行くんだ。これからはきちんと『外の世界』で暮らしていくんだ。ちゃんと学校にも通い、友達も大勢作り、両親に感謝しながら毎日を生きるんだ。お前が住む世界は——ここじゃない」
ホビットが首を横に振りながら言った。
僕はホビットの顔を見た。彼もまた、僕と同じように両の眼から涙を流していた。
「分かったか?」
「うん、分かったよ」
僕はひとしきり泣いてから、元の世界でちゃんと暮らしていくことを彼の前で約束した。
「じゃあもう一度握手だ」
僕は彼の小さな手を握った。そして立ち上がると、両親が待ち構えている方角を向いた。
「さあ行って来い。
ホビットはそう言って、僕の尻をパンと叩いた。
〈了〉
クラスメイトの黒パンストを盗んだら、ニートピアという矯正施設に放り込まれた件 川上イズミ @izumi-123
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