第11話― 鳥 ―
「ええ、ええ、里馬さんちの畑前の道で、ええ、ええ、電話もしたんですが里馬さんも親戚も孫も来てないって……はい……はい、ところどころ怪我も、ええ古いものも沢山、……わかりました、あれですかね、最近流行りのネグレなんとかってやつかもですね、とりあえずこっちで保護してますので、ええ、ええ、お願いします、はい、では失礼します」
そう言って男は小さな板から耳を話した。
急に一人で誰かと話し始めた、もしかすると狐に取り憑かれているのかもしれない。
「おまたせ、いやぁごめんねぇ狭い所で待ってもらって」
虚ろ虚ろとした意識の中で、青い男に抱えられて移動したのは覚えている。
朧気だった意識が瞼を開いた時には既にここにいた。
なにかの部屋で、なにもかもが奇妙な部屋だった。
天井には先程みた白い光が張り付いていて、黒光りする大きな板を棚に飾っている。
床は畳だが、壁は見たことのない土でできていて、火もないのに不思議と寒くはなかった。どうやら天井近くにある白い箱が熱気を出しているようだった。
「それでさっきの続きなんだけどね、お名前とか言える? どこから来たとか、お母さん、お父さんの事はわかるかい?」
青い男、若い男、母が囲っていた
「うーん、そっかぁ……まぁ、言えない事もあるわなぁ……うん、大丈夫、そのうちなんとかなるから、とにかく身体を温めようか、ちょうどできたはずだよ」
そう言って男は、狐に取り憑かれて板と話し出す前に湯を注いで蓋をした器を、ずいと机の上を滑らせて目の前に置いた。
最初はお湯だけでも飲ませてもらえるのなら嬉しいと手を伸ばしたが、「まった! まだダメ!」と、お預けだと肩透かしをもらったが、待てば待つほど空腹のせいかただの湯から徐々にいい香りがしてきていた。
「さぁどうぞ」
器の蓋をとると、その香りは強烈なまでに吹き上がってきた。
「…………なに、これ」
注いでいたのは確かにただの湯だったに、なのに器の中にあったのは黄金の汁物だった。黄金色の汁の中で青いネギが泳ぎ、極細の饂飩が身を横たわらせ、その上にさらに黄金の玉が乗っていた。
「なにって、チキンラーメンだよ、あっもしかして卵食べられなかった?」
卵と聞いて、これが卵かと思わず喉が鳴った。
村の人間が食べているところを何度か見たことはあったが、もちろん食べることを許してもらえるわけもなく、ただ名前だけは知っていた食べ物だ。
「……食べて、いいの?」
「もちろん、お兄ちゃんのおごりだから好きなだけ食べてええぞ、なんてなぁ」
何かが可笑しいのか一笑し、青い男は自分の蓋を開いて、箸を突っ込み中身をすすりだした。ずぞぞと、すこし下品だが、この上なく美味そうにかっこむ姿を見ていると、自然と箸に手が伸びていた。
器を引き寄せ、箸を黄金の汁に浸して麺を数本すくう。強烈な熱さを唇に感じたが、それより鼻孔を擽る香りに負けて、口の中へと押し込んだ。
「……おい、しい」
思わず言葉と次の箸が出ていた。
先程より多く掴み、口の中へと流し込むと濃厚な味が温もりと一緒に広がっていく。
食べたことのない味だった。
塩味とも味噌味とも違う、でもそれはただただ、美味しいという情報を、膨大な旨味だけを集めた何かだった。
「おぉ、おいおい、そんなにかっこむと火傷しちまうぞ?」
美味しかった、美味しかった、ただただ美味しかった。
口に流し込む度に、噛みしめる度に、飲み干す度に、新しい美味さに身体が満たされ、冷たい身体を熱が駆け抜ける。お腹に籠もった熱が涙を押し出し、泣きながら食べた、身体が、頭が、ただ欲するままに飲み干した。
「そんなに美味かったのか……あぁやっぱりネグなんとかなんか、ね、おろ?」
何もかもを満たされたような気持ちになって、何かが緩んだのか、その瞬間、身体から力が抜け、
「…………あれま、寝てるよ」
引っ張り合って保っていた意識は解けで、あっさりと暖かな暗闇へと落ちた。
∞ ∞ ∞
夢を見た。
二人で川遊びをしていた夢だった。
夢を見た。
二人で木登りをする夢だった。
夢を見た。
姉妹で村の人間に食われる夢だった。
飛び起きて、ここがどこで、自分が何者なのか、わからなかった。
息ができる、身体がある、手がある、畳を触っている、呼吸ができる。
順番にできる事を追いかけて紐を撚り合わせるようにして意識を今に繋げる。
感じることを確かめながら、思考を回し始めた。
辺りを見回してみれば窓から差し込む光が見える、朝、もしかすると既に昼かもしれない。まるで昨日までのことは全て夢だったのではと思えるくらいの深い眠りだったせいで、まだ現実感がついてこない。
「掛け布団……」
膝上に落ちた掛け布団を見て、青い男の事を思い出す。
暖かな料理の味も思い出した所で、腹の虫が鳴いた。
「おっ、おきたな、よかった、まるで死んだみたいに寝てたから心配したよ」
扉の影からひょいと青い男が現れて、ニカと微笑んだ。
腹の虫の音を聞かれた事が恥ずかしくて、思わず視線を反らして下を向いてしまうと、また軽く一笑され、
「もう昼前だけど、これから本庁の方から担当の人が来てくれるから、お昼ご飯は向こうで食べるといいよ、あっちには地下にちゃんとした食堂もあるから、好きなものが食べられるぞ」
男が何を言っているかは、実のところよくわからなかった。ただ好きなものが食べられるという言葉だけはハッキリと分かったものだから、また腹の虫が盛大に鳴いた。
今度は大きく笑われて、ますます顔を上げるのが難しくなった。
「本庁のカツ丼は特に美味いぞー、っと、噂をすれば来たみたいだ」
男が顔を引っ込め、壁の向こうで何か一言二言を交わすと、次に現れた時には青い服の男が二人になっていた。
「やぁこんにちは、僕は田木市警察少年女性安全対策課の山岸といいます」
初老の男だった。白髪混じりの短髪で青服、どこか祖父を思い出させる柔和な顔をしていた。
名前はなんなのか、どこから来たのか、どうして来たのか、上手く答えられるものだけ答えると、山岸と名乗った男は難しそうに眉をひそめてから、
「ううん、そうですか、その儀式や家族のお話は少し理解ができない部分もありますが、どうやら児童虐待の線で調べたほうがよさそうですね。まずは本庁の方で保護するので、このまま護送します」
「ありがとうございます、よかったなお嬢ちゃん、これでもう安全だぞ、山岸さんはこの手の問題の専門家なんだよ、何人もお嬢ちゃんみたいな子を助けてきた凄い人だぞ」
若い男はまた快活な笑顔を浮かべて、なにかを支度すると言い残して部屋を後にした。そのまま山岸に案内されるまま扉を二つくぐって外にでると、すっかりと高くなった太陽に照らされ光る、赤と白と黒色の大きな箱があった。
車輪らしきものがあるのを見るに荷車の一種だと分かった。
箱に取り付けられた扉が開くと、驚くことに中に椅子が見えた。
背を押され中に入り椅子に腰掛けた所で扉が強く閉じられた。
少しして、パンっと乾いた音が一度だけして、それからすぐに山岸が扉を開いて現れた。
驚くことに荷車は誰が引くでもなく、低い唸り声をあげると勝手に進みだした。
もうなにがなにやらと理解の範疇を超えてしまい、凄い速度で流れていく景色に圧倒されると共に、昨夜の吐き気がぶり返してきた。
「あまり近くを眺めていると酔いますからね、横になっているといいですよ」
山岸が黒い車輪を両手で回しながら、くすくすと笑った。
言われた通りに椅子へと横になると、少しだけ気分が楽になった。
背中に僅かな揺れだけを感じるのは妙に心地よく、あれだけ寝たのにまた眠気が忍び寄ってきていた。それから何度か目を深く閉じては開けるを繰り返していると、
「それにしても、随分と遠くから来られたのですね」
睡魔に瞼を操られ、うつらうつらとする中、山岸は前を向いたまま言った。
「実は僕もね、出は田舎の方なんです。山と畑と川しかないような田舎でしてね、そこで蜜柑畑で生計をたてる農家で育ちました。働くために街へ出ましたが、やっぱり生きていくならこっちの方がいいと戻ってきてしまいました、だから今でもこの仕事を続けながら蜜柑畑の世話なんかをしています」
山岸は止まることなくと喋り続けた。
「知ってますか? 美味しい蜜柑の育て方、実は蜜柑は甘やかしても美味しくならないんです、水を抜いたりして飢えやストレスを感じさせると、その実は強い甘みを蓄えるんです、それはなぜかというと――」
「――、鳥に食べてもらうため」
全ては願いのため、あの人に食べてもらうために甘くなる。
この辛く乾いた大地から、冷たく怖い場所から、肥沃な大地を目指すために。
「だけど結局は、その実も違う人達が食べるんだ」
この実を犠牲にしても、得るべきものがあるからと身を切ろうとも、鳥は追い払われてしまう。知恵もつもの、力あるものが、食べる権利を持つ。それがこの世界だ。
話を引き継がれた事に驚いたのか、小さな鏡に写る山岸は目が合った。
「正解です、さすがですね、……ミノリさん」
実り、ミノリ、ミノリ……。
そうだ、今確かに名前を呼ばれた。
教えた覚えはない、なら、なぜ、どうしてと答えを求めて身体を起こした時、そこに答えがあった。
「あ、まみず、村……」
見間違えるはずもない、生まれ、育まれ、愛する人と過ごした、その場所を
「……すみません、そういうことなので」
心苦しいのか、申し訳無さそうに山岸は視線を伏せた。
「本当にすみません。でも、今あの村を失うわけにはいかないんです……、この国の命を担う村なんです、この村から生まれる作物がなければ……」
違う、違う、そうじゃない。
知りたいはのは、
「どうして……どうして私が巫女だと分かったの」
あぁそんなことかと、山岸は箱を道端に止めて、黒い板を後部座席のミノリへと見せた。
「貴女のお祖父さんから動画をいただきました、必ずこの日の時間に逃げ出すので手を回して捕獲してほしいと、二日前のことです」
突きつけられた現実を見れば、そこには自分の姿が写っていた。
平屋敷の裏庭で二人並んで食事をしていた。
動いている、鏡の中で、まだ生きている姉と二人。
やがて裏庭に降り立ったナエと二人で母の喧嘩を盗み聞きしているところも。
「あぁそれと、最後に伝言も入っていますよ」
引きつけられた絵から、懐かしい声は微笑んでいて、
『やぁ、外は楽しかったかい、ミノリ』
∞ ∞ ∞
自然由来 ― 果実 ― 兎野熊八 @ooisikinui
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