第10話― 逃亡 ―



「――っ、はぁ、はぁ――うぅぁ、はぁ――」


 どれだけ走ったのか、体中を笹や枝に切られても気に留めることもなく、ただ走った。

 幸いにも、どれだけ混乱した頭でも体は山道を覚えていた。

 祖父に連れられて登った山道、あれから何度も登って道を覚えたのは無駄ではなかった。引き絞られた喉で息をして、暗くなってきた獣道をかき分けるように進んだところで、それはようやく見えてきた。


「……あま、水」


 祖父が彫った天水の像が、あの時と変わらず優しい微笑みで立っていた。

 何もなかったように、何もしらないように、何にも関せずとでも言うように。

 だが元よりこの神に頼るつもりもない。



「せぇ、のっ――」



 木像の頭と腰を握って引き倒す。

 力を込めれば土台から倒れ、そこから暗い穴が姿を表した。

 祖父が大壁様を彫り抜いて作った抜け穴。

 ここを抜ければ壁の外、村の外に出られる唯一の脱出口。



「…………」

 


 この先には彼女はいないという事実が、ここまで動き続けてくれた足を止めた。

 後ろ髪を引かれるような思いはあった、だが引かれた向こうには誰もいない。

 留まる理由がなくて、進むべき理由がなくて、ここに立つ自分は一体なにを目指せばいいのか。



「食い物に……、されてたまるか」



 理由がなければ作ればいい、食われるくらいならこの身体に火を放ってやる。

 心に火を灯し、穴に頭を突っ込んだ。廃葉土の饐えた臭いを掻き分けて、言われた通り、教えられた通りに手を前に突き出し暗闇に滑り込む、僅かな日の明かりを背にして中へ中へと身体を押し込んで、行き止まりで天井に向けて両手を突き上げた。

 手は難なく外の空気を掴む。

 腕を回して枯れ葉を足元に押し込んで、やがて外に出た。

 村の外、大壁様の裏側、ここがと考えに浸る前に歩きだす。

 考える事はこれから沢山できる、だけど今は前にすすむ事が、ここから離れることが先だ。

 

 祖父の言葉を思い出し、まずは真っすぐ、まずは真っすぐに。



  ∞ ∞ ∞



 夕闇が迫る中、山をまっすぐにくだった。

 深く茂った木々に隠されて行き先は見えなかったが、祖父の教えの通り曲がることなく、まっすぐに進み続け、目的のさわを見つけた。

 細くか弱い小川だが確かに流れがあった。

 この川を伝って、さらに下へ下へと向かう。

 込み上げてくる後悔と涙を振り払い、ただ下へ、川の流れが示す先へと進むと、徐々に小川は太く、強くなっていった。

 行きつくまで辿れと言われた通りに川を追い、やがて見えてきた土手を登ると、見慣れた光景に行き当たった。



「……、だ」



 夕日に染まる青葉の列が遠くまで、遠くまで続いている。

 それはあまりにも長く、広く、遠い。

 今まで見てきたどんな土地持ち長者の畑より整然と青葉が広がっていた。

 これが行きつく場所なのだから、もしかするとまだまだこの先へ進む必要があるのか……ならばと、膝をついて青葉握りしめた。

 葉の形からして大根だとすぐに分かった、これなら生でも食べられる、喉も少しは潤う、今は前に進む力が必要だと、残った力でそれを引き抜き、後悔した。



「っ、ぁぁ、そういうこと、か……」



 土から引き出された大根の美しい桃色をみて、それで全てを察した。

 この畑は、あの村から川と土を同じくする地続きの場所なのだ。

 天水の井戸から流れ込んだ甘い水はここまで来ている、ならここは、



「…………逃げなきゃ」



 引き抜いた大根を投げ捨て、再び歩きだす。

 冷たい土の感触に寒気を覚えながら、強く踏み出しあるき続けた。

 太陽は完全に傾ききり、夜の帳が降りても尚その畑は続いた。

 虫の声に紛れて、誰かの声が聞こえたような気がして、暗闇の中を走った。

 何も見えない暗闇の中、小さな明かりが遠くに見えて、もう限界に近かった喉の乾きがあそこで何か、せめて喉を潤す物がなければ諦めようと囁いてくる。

 朦朧とする意識の中で、ただただ歩き続け、ようやく明かりの袂までやってきて、絶望した。

 それは家の囲炉裏の明かりでもなければ、畑の夜番をする人間の焚き火でもなかった。


「……なに、これ」


 あったのは、冷たく硬い石のような地面に立つ、細く滑らかな灰色の棒だった。

 大の大人四人分はあろう高さの先に、光る何かが吊るされていた。

 こうこうと輝くそれは炎のように揺らめくこともなく、輝きを放っている。

 よく見れば光の根本から、なにか紐のような物がどこかへと続いていたが、もうそれもどうでもよかった。

 足の疲労に身体の乾き、考えないようにしていた空腹感に足は止まり、せめて背もたれくらいになれと、灯りの下で小さく蹲った。


 動きを止めてしまえば、置いてきた記憶が追いついてくる。


 責め立ててくる。


 どうすればよかった、なにがどうなればよかった。


 答えを求めて、意識が暗闇へと落ちかけた――、その時だ、




「大丈夫ですか?」


 光を近くで感じて目を開いた。

 そこに青い格好をした若い男が立っていた。



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