第9話― 破瓜 ―

 風に撫でられ、寒さに意識が引き上げられた。

 刺すような冷たさだ、身体にさぞや悪いだろう。

 目を開き、さっきまでのが全てが悪い夢だったのだと安堵して、だが吐き気で現実へと呼び戻された。体の痺れ、喉元にまだ残っている嫌な甘み、吐き出したくなる衝動に耐えられず飛び起きえずき、その場に全てを吐いた。

 胃袋を引っ張り出されるかと思うくらい激しく吐いた。

 吐いて、吐いて、吐ききって、ようやくできた呼吸に両肩を震わせる。

 まだ吐きたい気持ちと、酸素を求める肺からの信号が頭でぶつかって涙を流し呼吸が上手くできない。それもやがて落ち着いてくると涙を拭って顔を上げた。


 目の前に現れたのは、またも異様な光景だった。


 いつのまにか外にいた。

 気絶している間に運ばれてきたのか、風に運ばれてくる土と木の匂い、そこに確かに紛れてくる甘い香りに再び吐き気を覚える。

 呼吸を繰り返すにつれ、頭が状況を把握しはじめる。

 だが、それを拒むように巨大な異物が目に入った。


 

 

 それは岩のように見えて、それは柱のように見えて、だがあまりにも巨大で。 

 櫓屋根やぐらやねのなかにある釣り鐘のように、黒く、長く、巨大な『石柱』が吊るされている。

 

 円形に石積みにされた井戸の上で揺れる黒い石柱は、異様でしかなくて。


 現実か、夢なのか、確かめようと視線を泳がせれば、石柱を吊り上げている巨大な滑車が見えた。幾重にも縛りこんだ締縄が五方へと伸び、また同じように滑車台に括り付けられ、縄の先を屈強な男達が握り止めている。


 そんな男達を照らすのは炎、松明を手にした住人たちが四方の滑車から中央の石柱を囲むように円陣をしいて、こちらを見ていた。


 誰も彼もが、笑顔だった。


 円の中心に自分がいると気がついて、片割れの姿を探した。

 すぐに見つかったのは、姉妹ではなく、母だった。



「もう大丈夫? 気持ち悪くない?」



 記憶の中では先程で、獣のように料理を食い荒らしていた母が井戸の向こうで微笑んで立っていた。


「ここは、ここは……なに」


 純粋な疑問だった。


「ここはね、天水様の寝床、私達の神様の膝下……とても神聖な場所よ」


 母は優しく答える。

 それが義務であるように、ただ優しく。


「そしてここで私達の今までの清い行いに、天水様が御応えになってくださるのよ……、本当によかったわね」


 慈愛すら感じる微笑みを浮かべ、母はゆっくりとやってくる。


「本当に苦難の半世紀でした、耐え切れずに老い流れ行く人を何人も出してしまった……それも全てはお父様と、重治《シゲハル

》さんが貴方達の成長を待つだなんて、誤った判断をしたせいで……」


 慈しみ、悲しみ、後悔を浮かべ、それでもその表情には影一つなく。


「でも、それも終わり……、この私が終わりと、決めました」


 取り囲む群衆から拍手が聞こえる。

 英断を褒め称えるように、喝采が聞こえる。


「ありがとう、ありがとう皆! もうこれで流れに怯える事はありません! 私達はこれまで通り、これからも、この先も、永遠に天水様と共に生きていけましょう!」


 拍手は万雷のように轟く。祝え、祝えと、急かすように。


「……、貴女にも今まで苦労をかけたわね、でもこれからが巫女としての本願よ。貴女にはこれから沢山、沢山、子供を生んでもらうことになる。再び二巫女を孕むまで……あぁ大丈夫、天水様の代役も既に何人か選んであるわ。大変なことだけど、大丈夫、村の皆で支えるから…………でもその前に、確認したい事があるの」


 微笑んだまま歩みきって、目の前で屈み、




「――あなた、?」




 そう言ったのだ。


「ごめんなさいね、本当に……、馬鹿な男が先走ったせいで、あの時に貴方達がのよ、蹴り飛ばした男もどっちを蹴り飛ばしたか分からないなんて言うの、本当に男って無責任よね」


 本当に困ったと、苦笑いを浮かべながら母は頬を撫でる。

 優しく、優しく、愛おしいとでも言うように。


「でもね、私には分かるわ、だって大切な娘ですもの、大切な大切な私の――」


 嘘だ――、そう叫んで眼の前の糞女を殴る飛ばす、その前に、



「――逃げてっ!! っ!!」



 拍手の音を遮るように叫び声が確かに聞こえた。

 声の方へ、確かに聞こえた声の元へと走り込み、そして――、覗き込んだ。



「お姉ちゃんっ!!」



 井戸の中、仄暗い底から、鼻を刺すほどの甘い匂いの中に、愛しの人がいた。


「お姉ちゃん! こっちに来ちゃだめっ! いいから私をおいて逃げてっ!」


 深い、とても手が届かない、闇の底だ。

 なにか手はないかと井戸から顔あげると、母がいた。



「やっぱりやっぱりやっぱりっ」



 満面の笑みを浮かべる母が歓喜し、抱きしめてきた。



「あぁ私の可愛い子……貴女が生まれてくれたから、私は天水様のお側に、ここまでやってこれた……、本当に、本当に愛しているわ……」



 抱きしめる力に加減はない。骨が軋み、肋が痛む、刺すような痛みに再び吐き気がぶりかえす。



「は、なせ……」


「え?」


「はなせっ! このっ!!」



 鼻面を手で殴るより、自由な頭を振りかざす方が早かった。

 振り上げて、振り降ろす。

 ひたいを鼻面めがけて打ち据えてやれば、母はすぐさま手を解いた。



「っ――、今助けるからっ!」



 なにか解決策があるわけじゃない、それでも二人でいればきっと何とかなる、上がってこれないなら、飛び降りればいい。二人ならきっと、二人でならきっと――



「っ――ッ!!」



 井戸に足をかけた瞬間、首から引っこ抜かれるように後方へと投げ飛ばされた。

 呼吸が乱れて視界が回り、濃い土の匂いが舞い上がった。


「……もう酷いじゃない、ふふ、血を流すなんて久しぶりだわ……」


 噴き出した鼻血を拭いながら、それでも笑顔で母は言う、


「ほら、いい子にしてあげる」


 抱き止めて、抱きしめて、頬に頬を這わせて、頭を撫でて、


「いいこ、いいこ……いいこ、いいこ……」


 これが母の愛だと言うように、全てを許すのだと示すように。



「いい子だから、もう――、お別れをしましょうね」



 ――からからから

 滑車の回る音がする。

 ――がらがらがら

 そそり立つ黒い石柱が、ゆっくりと、ゆっくりと、井戸の中へと落ちていく。

 ――がたがたがた

 井戸の壁を削るように、隙間なく柱は沈んでゆく。



 

「――ッギッ――ヤぁぁっ!!」




 胡桃ずがいの割れる音がした。

 蜜柑にくの潰れる音がした。

 西瓜あばらの砕ける音がした。

 林檎はいの捻れる音がした。

 石榴しきゅうの彈ける音がした。

 


 命を磨り潰して、押しつぶして、ゆっくり、ゆっくりと黒い柱は沈んでいく。

 


「あ、あ、ああ、あぁ……」



 井戸から赤い甘い匂いが噴き出して、絞り出された体液が溢れ出して、流れていく。

 母の体温を感じながら、愛する人が搾り取られていくのを見ていた。



「おい見ろ! 天水様のに引っかかっておるわ! とんだ売女ばいたじゃ!」



 辺りから下卑た笑い声が沸き起こった。

 引き上げられた石柱に赤い布切れ、ワンピースが引っかかっていた。

 頭から縦に潰された彼女も一緒に、小さくなってしまった家族も一緒に引き上げられて、

 

 ようやく彼女と――目が合った気がした。



「それもう一突きじゃ! イカせちゃれ!」



 合図と共に柱が再び井戸へと飛び込んだ。

 轟音と共に強く、なお高く、彼女の体液が吹き上がったのを見ながら、



「あ゙あ゙あ!! ――ああっ!! ――っ――!!」



 母の腕を振りほどき、叫んで、泣いて、走り出すしかできなかった。

 男達の間を転がって、獣のように四つ足で地面を蹴って、転がって、また走る。

 ここがどこかも分からず、逃げろという最後の願いを叶えるわけでもなく、ただただ生命の本能としての逃走だった。

 後ろから『捕まえろ』という声がするが、振り向かずに走った。

 藪に飛び込み、宙を掻き回すようにして走った。

 段々畑から飛び降り次の畑を蹴ってまた走った。

 赤々と実る白菜が家族の頭に思えた。

 真っ赤なめだま、真っ赤な馬鈴薯ちぶさ、何もかもが赤く染まった畑達。

 全ては天水によって育まれた、村の水によって育った、野菜かぞく達。

 逃げろ、逃げろ、この場所から、この村から、逃げなくてはならない。

 さもなければ、次にこの野菜かぞく達を育てるのは自分の番なのだから。


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