第8話― 提灯 ―


「……寒い、なんで今回に限ってこんな格好なんだよ」


 まだ冷え込む時間ではないが、うっすらとした曇に隠れた日の明かりは乏しく、薄手での布切れ一枚という格好にはあまりにも堪えた。


 祖父、村長を見送る時には特別な格好をする決まりがあるのだと渡された着物は、ただの白い布切れだった。


「それはね、ワンピースというのよ、とても似合っているわ、ナエ」


 隣を歩く母が、隠そうともしない笑顔でそう教えてくれた。

 両肩を紐一本だけで止めただけのもので、襦袢じゅばんと呼ぶにはあまりにも心もとない薄生地は強い風が吹けば簡単にめくれ上がる。こんな格好で人前で勤めを果たすのかと考えると、思わず気恥ずかしさでうずくまりたくなるのを我慢してミノリは二人の後を歩く。


「……この格好もだけどよ、なんか気持ち悪くねぇか、あいつ」


 先頭を母に譲り、近くまでやってきたナエが眉と声をひそめて目を細めた。

 平屋敷を出る前からミノリも同じことを思っていた。

 気持ちが悪いというより、気味が悪かった。

 悲しんでいるようで、浮かれている。

 辛そうでいるようで、機嫌が良い。

 泣きながら笑っているような、

 怒りながら笑っているような、

 気味の悪さがずっと続いていた。

 姉の格好や、髪型や、肌の具合を見てはやたらと褒めてくる。

 こんな母親を見るのは、随分となかったことだ。

 それにいつもは周りに付き纏わせている男衆が一人もいない。


「ほらナエ、お父様のお家が見えたわよ」


 遠くを見やれば、高く伸びた長霊の黒杉が見える。

 祖父の屋敷に立つ樹齢八百歳を超える長老樹、その根に体を預けるように村長の屋敷はある。

 村で最も高い場所で、最も広く、最も大きな屋敷には既に行列があった。

 長い長い弔問客の列が見える。

 祖父を慕う人達の列だと思うと、ミノリは寒々とした格好であっても胸に熱いものを感じずにはいられなかった。

 そして、そんな人達に追いつき追い越し、のだという息苦しさも共に感じながら……、


「さぁついたわよ、ナエ」


 列に並ぶ人達を追い越しきって屋敷の前まで来た二人が見たのは、確かな違和感だった。


「……なぁミノリ」


 ぽつりと呟く姉の言葉の先を見れば、そこに揺れるのは忌中を報せる清らかな白ではなく、


「赤い、提灯……だね」


 まるで何かを祝うように煌々と輝く紅色べにいろの提灯が二つ、佇んでいた。



  ∞ ∞ ∞



 棺に収められた祖父は、穏やかな表情をしていた。

 半月前まで一緒に山に登り、手彫りの天水様を磨いていたなんて嘘のようだった。

 あの笑顔が、あの声が、あの手のひらが、あの足音が、刻一刻と遠くなっていく。

 その前に自分にできる事をすべきだと、ミノリは息を吸い込む。

 ここではないどこかへ、きっと温かいどこかへ、彼が運ばれて行きますようにと、ミノリは詠う。


 心を籠めて、感謝を籠めて、さよならを籠めて、届けと詠う。


「『彼の御霊は天水に導かれ行きました』」


 詠い終わり、振り向き、四十畳はあろう大広間に座る皆々に二人は告げる。

 誰かが深い溜息をつく音がして、それぞれがそれぞれに動き出す。

 喪主を務める母は、村のお偉方に頭を下げに回りだし、何名かはもう見納めだと祖父の顔を覗きに来た。


「よし……あとは歳食の儀を終わらせて、その後の会食の時にだな」


「うん……」


 残る勤めは難しくはない。

 故人が、祖父が育てたものを食し、神様に届ける。

 祖父が何を育てていたのかは知らない、ただ大切に育てている物があることは話していたことがあった。

 それを届ける事が最後の勤め、その時が迫るにつれて震えが強くなっていく。

 恐れ、後悔、懐疑、考えれば考えるほど増えていく不安は体から血の気を奪っていく。


「――大丈夫」


 ふと、右手に温もりが宿った。

 ナエの左手がしっかりとミノリを捕まえてくれていた。


「ミノリの事は、お姉ちゃんが守ってやるから、どんな場所にいっても、二人なら大丈夫だ」


 そういって太陽のように笑ってみせるのだ。

 たった五分先に生まれただけなのに、自分だって少し震えているくせに、


「……うん、ありがとう、お姉ちゃん」


 その五分が、こんなにも頼もしいと思える日が来るだなんて、思いもしなかった。

 手に力をこめて握り返す。自分もこの人を、これからお互いを、護り合って生きて行くのだと誓いながら。


「皆様、巫女様、おまたせしました」


 喪主である母の声が弔問客を飛び越え、静けさを一瞬で呼び込んだ。

 人々が左右へと割れて道を作り、その先に盆を持った母がいた。

 静けさの中を滑るようにやってきて、そして差し出してきた盆に載せられた二つの小皿に乗ったを見て、二人は息を呑んだ。


「これはお父様が大切に育てられていた『モモ』です、どうぞ、これをもってお父様をお見送りください」


 母はモモと言った。

 熟したモモを半分に切り分け、種を切り取ったそれは、


「……赤い、ね」


 ただ一色でしか表現することを許さないまでに、赤に染まったそれは、人の心臓を縦に割ったように赤く、赤い――、


「……戴きます」


 不気味にすら感じるそれを、ナエは真っ先に手にして口に投げ込む。

 ミノリも後を追うように手にしたモモを口に運んだ。


「…………っ」


 モモ、桃、赤い桃、芳醇な甘みをもつ白桃とも、爽やかで心地の良い酸味と甘みを持つヤマモモとも違う、赤いそれは、


「あ、まい……おぇ」


 吐き気がするほどに、あまい。

 舌を蹂躙じゅうりんし、喉の奥へと流れ込む粘性のある甘み。

 暴力的なほどに甘い果実が後を追って流れ込む。

 味を感じるわけもない喉にまで甘みを感じる。

 喉を、食道を、胃を、甘みに塗りたくられる。

 痛いほどの甘み、臭いほどの甘み、重いほどの甘み、


「っ……ふ、っぅ」


 思わず吐き気が込み上げてくる。

 両手で口を抑えて、それをミノリはこらえた。

 えずきそうになるのを我慢して最後まで嚥下えんげする。


「ふ、ふふ――」


 今にも甘みが逆流しそうだと涙ぐむミノリに聞こえたのは、



「ふふ、あは、



 確かに笑う、満面の笑みを浮かべた母が、叫んだ。



!! !! !! !!



 そして高らかに笑う。

 何が可笑しい、何かが可笑しい、どうして拍手の音が聞こえてくる。

 喝采だ、部屋中から手を叩く音が聞こえる。

 祖父の葬式で、誰が、何を祝っている。

 

「終わりよ、終わり、これで終わり……終わり」


 自らの両肩を抱くようにして震える母が終わったと呟き、そんな母の周りに人が集まってきた。


「おつかれさま」

「終わったわね」

「よく我慢したわね」

「偉かったわね」

「大変だったね」

「よかったわ」

「おめでとう」

「今までありがとう」

「これで皆たすかるわ」

「よく育てたわね」

「偉いわ」


 代わる代わるに肩を背を頭を撫でながら、村の人々が母を賛美する。

 涙を流しだした母が嗚咽を履きながら震えていると、部屋の襖が開かれて、次々と盆が運ばれてきた。

 上に載っている皿に盛り付けられたそれは、料理のようだった。


 赤黒い塊は透明な汁を吹き出していて、

 長細い饂飩うどんのような真っ赤な麺には見たことのない具材が湯気を立ち上らせ、

 赤い米に緑の豆かなにかをあえたもの、

 なにを使っているかもわからない焦げ茶色の揚げ物の塊、

 雪のように白い何かを絞り出した円形をした何か、


「あ、ああ、あああああ」


 次々と運ばれてくる盆に並ぶ見たこともない料理達、それを見て母はさらに発狂する。乾いた黒髪を乱し、涙を流し、開きっぱなしの口から止めどなく涎を振りまきながら、





 そのままかぶりついた。

 湯気の出ている赤黒い塊を素手で掴むと獣のように唸りながら歯を立てた。食い込んだ部分から絞られるように汁が溢れる。手と歯を使い噛み千切り、あぐあぐと泣き声を発しながら貪るように口に押し込む。口の外へ溢れ出さないように両手で塞ぎ、何度も頷きながらぐちゅりぐちゅるりと咀嚼し、飲み込む。

 口を空にしたら次は赤い饂飩の皿を掴みとると顔を押し付けるようにして食べ始めた。


「なんだ、なんだよ、これ」


 ミノリと同じように吐き気を我慢して口元を抑えたナエが目を見開く。

 その異様としか言いようがない光景に吐き気は増すばかりだ。

 次から次へと運ばれてくる料理を素手で貪る母。

 そんな母を労うように体をさするもの、拍手をするもの、称賛の言葉をかけるもの。


 皆が笑顔だ、皆が幸せそうだ、何かを成し遂げたとでも言うように。


 祖父の葬儀の最中だというのに。


 宴は続く、今度は全員が運ばれてきた料理を食べ始めた。

 体は動かず、甘い吐き気と体の痺れは膨れ上がる。

 人は笑う、高らかに器を掲げてぶつけ合う。

 母は食らう、何から何まで、涙を流して食い続ける。



「に――、げる、ぞ……」



 手を引く感覚にミノリの意識がようやく現実へと引き戻され、目的を思い出す。

 ナエの白いワンピースに吐瀉物の後が見え、自分もさっき食べた物を吐き出そうと指を口の中に差し込む――、



「おいおい、駄目じゃないか」



 衝撃が脇腹で爆ぜた。

 衝撃はミノリの体を容易く飛ばし、視界はにごねじれ、次いで何かにぶつかった。全身が、肺が、腹が打ち据えられた鐘のように震えて呼吸が止まる。

 

「せっっかく村長が作った物を無碍にしちゃ駄目じゃないか」


 蹴られた、大の大人に、大きな男に、思い切り。

 心臓が跳ねる度に痛みが吹き上がる。

 痛い、痛い、痛い、痛い。

 あぁ、思い上がっていた。

 母が自分を木刀で殴ることが暴力なのだと、思いこんでいた。


「駄目じゃないか駄目じゃないか駄目じゃないか駄目じゃないか」


 次々と炸裂する痛み、衝撃、これこそが暴力だった。

 優しい眼差しで、まるでそっと叱るように腹を蹴る。

 君のためだと、腹を蹴る。

 正しくあろうよと、腹を蹴る。

 受け入れる、受け入れないの問題ではない。

 だってこの男は、母と違って、これっぽっちも辛そうじゃないのだから。

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