うつほ舟

唯月湊

うつほ舟

 錆び付いて重い扉を開けば、開けた視界に空が広がる。硬質なコンクリートに一歩足を踏み出せば、風が彼女の短い黒髪を撫でた。かすかな磯の香りが鼻孔をくすぐる。

 海の青と空の蒼、ふたつが混じり合う境界まで見渡せるその屋上には、一人の生徒が立っていた。

 背の中ほどまである癖のない黒髪は海風に吹かれ緩やかに後ろへ流れ、校則規定よりも少し長めのプリーツスカートがふわりとなびく。日の当たる中にいるというのに、白い半袖のセーラー服からのぞく両腕は透き通るように白かった。

 少女はこちらを向くことなく、ただ手すりに両の手をかけてじっと遠くへ視線をやっていた。

「また、みているんですね」

 隣に並んでそう問えば、屋上の先客はこちらに視線を移して笑んだ。

「まぁね」

 そう告げる彼女はいつも通り、どこか遠くに消え去ってしまいそうな雰囲気をまとっていた。


*****


 彼女と初めて出会ったのは、この屋上でのことだった。

 ぎらつく太陽もようやく沈み、冴え冴えとした月の輝く深夜二時。咲希はこっそりと家を抜け出した。

 夜の学校の探索、なんて、高校二年にもなってやることではないとは分かっている。それこそ、まるで小学生のような話。

 それでもやはり、草木も眠る丑三つ時の静けさや、月が雲に隠されたときの暗闇の深さは、慣れない土地に来たことでの緊張感を少しでも和らげてくれそうだと思ったし、夜間立ち入り禁止という簡単な禁をこっそりと破るその背徳感は、咲希にとってとても刺激的に思えた。

 幼い頃から東京で暮らしていた咲希からすれば、無味乾燥的な警備システムではなく血の通った警備員が常駐する学校、というものは物語の中でしか存在しなかった。

 それも、彼女の好奇心を増長させるのに一役買っていたのだろう。

 時折耳をそばだてながら、学校へ忍び込んだ彼女はゆっくり廊下を歩く。取り立てて何があるわけでもないのに、ほんの少しの開放感で、鼻歌でも歌いたくなるような心持ちだった。

 そんなとき、ふと咲希は足を止めた。

 かつん、かつん、と足音がした。一瞬警備員の物かとも思ったが、それにしては音が硬すぎる。そう、高校生の好む革靴のような足音だったのだ。

 咲希は少しその場に立ち止まって音をやり過ごして、十分距離が空いたことを確認してその音を追った。遠くのかすかな物音をたどるとなると、自分の足音が邪魔になるので靴を脱ぎ、両手に持った。

 その様相は明らかに不審者のそれだが、何より好奇心が勝ったし、すでに深夜の学校に忍び込んでいるのだ。名実ともに不審者である。

 足音は一定のリズムを刻みながら階段を上っている。立ち止まる気配も見せないため、どうやら自分の尾行はばれていないらしい。

 そうしてたどり着いたのは、屋上への扉前。

 靴を履き、ゆっくり扉を開けば錆び付いた音が響く。

「――おどろいたね。こんな時間に人を見るとは」

 扉が開いた音で振り返ったらしいその人影は、アルトの声でそう告げた。月はかげり、その容姿はまだうまく見えない。

 月が雲から顔を出し、冴え冴えと屋上を照らし出す。

 そこにいたのは、手すりに背を預けたセーラー服の少女。風に流れる長い黒髪を手で押さえるその姿がどこか浮き世離れているように見えたのは、そのどこか芝居がかった口調にもあるのだろう。ただそれを差し引いても彼女は咲希の目を引いた。

「しかし、初登校が夜の学校だなんて、君も変わった人だね」

 そう彼女は苦笑していた。こちらのことをひとつも話をしていないのに。

「学校がそんなに待ちきれなかったのかい?」

「そ、そんなわけじゃないですけど……」

 探検がしたかった、など子供っぽいことも言えない。

「明日からここの生徒になる、富崎咲希です。あなたは?」

「私? 私は、名残。名残[[rb:千景 > ちかげ]]。ようこそ、この学校へ。歓迎するよ」

 彼女――千景は手すりから背を離してこちらへ歩み寄ってきた。そのまま咲希とすれ違うとき、彼女はこう小さく告げた。

「願わくば、君がここで上手くやっていけますように」


 翌日。まだ制服が出来上がっていないため、前の学校のブレザーを着る。黒の上着に、臙脂色を基調としたタータンチェックのプリーツスカート。ネクタイもスカートと揃えてある。デザインは結構気に入っていたのだが、これを着るのもあと一週間。少し寂しくもあるけれど、それよりも一人だけ違う制服、ということの方が憂鬱だ。

 あてがわれた二階の自室から下へ降りると、叔母が朝食を作ってくれていた。ご飯に味噌汁、簡単なサラダと目玉焼きというごく簡単なものではあったが、朝がいつもパン食だった咲希としてはかなりの違いだった。とはいえ、この感覚は嫌いではない。

「おはよう、咲希ちゃん」

「おはよう、るり子さん。明日からはもう少し早めに起きて手伝うね」

 用意された食事を完食し、学生鞄を手に外へ出る。朝日が眩しい。

 昨夜通った道を同じように、咲希は一人学校へと向かう。あの屋上にいた彼女、名残千景は一体何者だったのだろう。場の雰囲気にのまれてまともに質問できなかったのが悔やまれる。しかし、彼女の着ていた制服はこれから通う学校の物で間違いはなかったし、上手くすればまた会うこともあるだろう。

 ひとまず聞いていた通りに職員室へ。まだ登校時刻としては早いが、それでも廊下で何人かの生徒とすれ違った。この格好だからなのか見慣れない顔だからなのか、一度こちらを見てすぐに視線を外す。それでいて咲希が通り過ぎると、隣を歩く友人とひそひそ話。どこに行っても良くある光景だ。もし咲希が逆側だったとしても、同じことをやっていただろう。女子とはそういう生き物だ。問題は、そうした内緒話に入れてもらえる関係が作れるかどうか、ということ。

 職員室でこの学校の簡単な説明と、今までの学校生活などを話しているうちに時間は過ぎ、HR始業の時間に。担任に連れられ、割り当てられたクラスへ入る。

 一クラス十五人のクラスは、空席が二つ。窓際一番後ろの席と、ちょうど教室の真ん中に当たる二か所である。今まで共学校にしか通ってこなかった咲希からすれば、見る生徒たちが全員女子というのはやはり少しどこか違和感がぬぐえない。

 HRが終わってから、想像通りではあったが席の周りにクラスメイトが集まってきた。どこから来たのか、制服が可愛い、前の学校はどんなところだったのか、と矢継ぎ早に質問が飛んできた。

 咲希がこの海の街に越してきたのは、両親の仕事が海外赴任となったのが原因だった。そのまま海外を拠点にする、という話も出ているらしく、咲希も一緒に来ないか、とは言われた。だが、咲希としては英語の成績も中の下であるし、日本を離れたくはなかった。そのため、親戚である叔母の家を頼り、そこで生活を始めたのだ。今までほとんど交流がなかったにもかかわらず、咲希を引き取ってくれた叔母には感謝している。元々娘が欲しかったのだ、という話を母から聞いたので、良い娘代わりになれれば、少しは恩返しになるだろうか、と思っていたりもする。

 そんな事情があってきたものだから、この街の事はほとんど何も知らない。その旨を話せば、案内するよと次々に声が上がった。


 ここは小さな港町だったが、何故か高校は男女別校だった。そしてこの高校は神道系の女子校であるため、少々カリキュラムが一般的な普通科高校と異なる。週に一時間宗教の時間があり、説話、礼拝も習慣的に行っていた。

 そんな学校に通い始めて一週間。教室には彼女が来た時と同様にひとつだけ空席があり、咲希はそこに誰かが座っているところを見たことがなかった。

「ねぇ、あそこの席って誰かいるの?」

 そう問えば、クラスメイト数人は顔を見合わせ、曖昧に笑んだ。咲希さんは知らなかったよね、と口を開く。

「あの席は、魔女の席」

「魔女?」

 そう首を傾げれば、彼女たちはくすくすと笑う。

「一応、うちのクラスではあるんだけどね」

 彼女たちはそう言うだけで、良く意味が理解できない。あの席の人には近づくな、ということだろうか。

「その人、名前は?」

 そうよね、名前を教えておかなくちゃ。そうして告げた名前は、彼女も聞き覚えのあるものだった。

「名残千景って子よ」


 お昼休み。席の近いクラスメイト数人とお弁当を食べ終えて、構内を散策する、ということで席を外した。ひとつ、行きたいところがあった。

 まっすぐ向かうのは階段。その他の生徒に目も向けず、咲希は階段を上る。

 たどり着いたのは、あの夜と同じ屋上への入り口。あのときと同じく、冷たい鉄の扉がそこにある。ドアノブに手をかけて、勢いよく回す。

 がちっ、と硬い音がした。鍵がかかっている。元々屋上は立ち入り禁止だと言われていたから当然なのだが、それならあの日、彼女はどうしてこの扉の先にいたのだろう。咲希は首をかしげた。

 とはいえども、考えて分かる問題でもない。少しだけ残念に思いながら、咲希は教室へと戻る。


 翌朝。少し早めに登校した咲希は、荷物を教室へ置いて屋上へ向かう。

 もう一度話がしてみたかった。好奇心には勝てない。

 屋上へ続く扉のドアノブへ手をかけて、勢いよく回す。すると、何の抵抗もなくノブは回った。

 扉を開けば、きつい夏の朝日に少し目をひそめる。太陽の光を手で遮り見渡したその屋上には、あの夜と同じように一人の女子生徒が立っていた。

「やあ。おはよう」

「おはよう、ございます」

 ただ挨拶をされただけなのだが、何故か敬語で返した。初対面のあの日は夜の雰囲気にのまれたからかと思っていたのだが、やはりいつであろうと彼女の雰囲気はそのままだった。

 にっこりと綺麗に笑う彼女を、何も言わずにずっと眺めているのも申し訳なくなった。緊張気味の頭をどうにか回転させて、聞いてみたかったことを引っ張り出す。

「どうしてあの夜、ここにいらっしゃったんです?」

「それを言うなら、君もどうしてあんな夜に、こんな場所へ?」

 そう問い返された。つまりは、聞かれたくないということだろうか。彼女は悠然と笑んだままだ。

「答えてほしいわけではないさ。気にしなくていいよ」

 ひらひらと手を振って、彼女はこちらに背を向け、海を眺める。そんな背中へ声をかけた。

「いつも、ここに?」

「まぁね。下にいると色々あるだろう?」

 彼女はさも当然のように告げた。自分がどう思われているかもよく分かっているようだった。

「実は、私昨日も来たんです。お昼に。その時は鍵がかかってましたけど、いらっしゃったんですか?」

「あぁ、昨日の昼は保健室にいたよ。暑かったからね」

 昼間は日差しもきついし、とどこか芝居めいた様子で肩をすくめる。

「しかし、君も本当に変わった人だね。その様子だと、私の話は聞いているんだろう?」

 女の子は「協調性」が大事じゃないか、と。告げる彼女の笑みは少し意地が悪いそれ。言葉に窮していると、千景はくすくすと笑った。別に答えが欲しいわけではないよ、と彼女は告げた。

 そんな千景へ、今度は咲希が口を開く。

「あの日も、海。見ていましたよね」

「――好きではないよ。ただの罪償いさ。しいて言うのなら。それも夏の間だけ、だけどね」

 そう肩をすくめて苦笑する彼女はどこか投げやりな印象を受ける。否、これは諦めなのかもしれない。

「また、きても良いですか?」

「おすすめはしないね」

 先ほどまでと同じ笑みなのに、自分との間に一つ明確な「拒絶」という名の線が引かれたのを察する。

「とはいえ、私に止める権利があるわけでもない。好きにすると良いさ。ただし、くるときは気をつけて」

 この場所は立ち入り禁止だ。咲希はコクリと頷いた。


 今日も朝からうだるような暑さ。用意した朝食を叔母と一緒に食べながら、半ばうんざりとしたように外を見れば、まだ早い時間にもかかわらず既に陽炎でも立ちそうなほど、きつい日差しが降り注いでいた。

「今日も暑くなりそうだね」

「困るねぇ。このままだと。うつほ船の準備も始まったみたいだから」

「うつほぶね?」

 聞き覚えのない単語だった。そう問い返せば、叔母はやんわりと笑うだけで、詳しいことは教えてくれなかった。ただ彼女は一言告げた。

「雨が降ればいらなくなる物だよ」

 そう叔母が言ったことで、気が付いた。彼女がこの街に来てから既に二か月が経っていたが、まだ一度も雨が降っていなかった。


 とっぷりと日が暮れた夜。クラスメイト二人が彼女の家まで迎えに来たので、その子達と祭りを回ることにした。制服を着替えることもなく家を出る。

 何でも、うつほ船が出来上がると、こうしていつも祭りを行うのが習わしなのだそうだ。

 お囃子の音が聞こえてくる。祭りの雰囲気は昔から好きだった。小さい頃は両親に手を引かれ、中学以降は浴衣を着つけてもらって友人達と一緒に出店を回り、お参りをしたものだ。

 この町で雨を祈る今回のような祭りを行う時、二十歳未満の人間は皆初めに神社に行くことが慣習になっているのだそうだ。例にもれず、咲希もクラスメイトに連れられてやってきた。

 この祭りを取り仕切っているのは、山の奥に建つ神社。この町にある神社はここだけだという。あまりまだ町中を見て回っていなかった咲希がここに来るのは初めてだ。

 鳥居にかけられた名前を見て、咲希は立ち止まる。

「……名残、神社?」

 立ち止まった咲希を、二人の友人が遅れて振り返る。

「咲希ちゃん?」

「あ、ごめん。この神社、来たことなかったから」

「お祭りの時じゃないと私達も来ないよねー」

 ねー、と告げる二人は、咲希が気にしたことを察したらしい。にこりと笑った。

「だって魔女の家だもん。ここ」

「魔女が神社に住んでるなんて、って感じよね」

 そうくすくすと二人は笑った。

 鳥居をくぐり、戻る人々とすれ違いながら境内へ向かう。そこには比較的小さな社が建ち、多くの人でにぎわっていた。参拝する者、社務所で守りや護符などをいただく者と様々である。あまり広くないこの場は、奥へ進むのにも少し苦労する程度だった。

 そんな中、二人に連れられ向かった先は、境内の裏手。そこには何やら細い川沿いに列が出来ていた。

 列に並んでいるのは、見たところ二十歳未満の男女。校内で見かける顔も多かった。

 前に連なって歩んでくれば、目の前に広がったのはそれほど広くもない水のたまり場。奥手には小さな滝がある。ここから細く水が流れ、自分達がたどってきた川を経て海へと流れ出している。

 列はそれなりに長かったが、さほど待つこともなく咲希の番まで回ってきた。その小さな池の底は何か紅く光っている。前の人間に倣って、その池の前へとひざまづき、まくり上げた袖さえ濡れるような深い水底へ右腕を沈める。

 水底が光る理由は、ここに紅い石が無数に沈められているからだ。その一つを選んで取ることが、ここにはじめに来る理由なのだと、先ほど二人から聞かされていた。

 特に何も思うことなく、何か一つを手に取ろうと思っていた、そのとき。


 誰かに、腕を掴まれたような。

 けれど温もりも感じられない、ひどい冷たさ。


 この水底に人が居るはずがないのだ。咲希はとっさに手を引きあげた。

 その手には、ひとつの紅い石が収まっていた。見つめればどこか中がうごめいているような、深い紅。

 池を見ても、何かが居るようには見えない。ただ静かに水をたたえている。腕にも、掴まれたような痕はない。どこか釈然としないまでも、咲希は二人の元へと戻る。

 二人は手にした赤い石を大事そうに握っていた。祭りの最後に使うのだという。咲希は再度その手にした石を眺め、すぐに使うのでないのなら、と鞄へとしまった。

 そのまま祭りの出店を冷やかしながら、気になる物を買って夕食にする。

 小さい町で行う祭りでありながら、藁で作った巨大な龍が町中を走る。何故龍なのかと問えば、龍は天候を操る生き物だと言われているため、この町では龍を信仰しているのだという。

 そうして気づけば十時過ぎ。「そろそろ終わりかな」という咲希の言葉に「そうだね」と二人は笑むと、鞄の中から神社で手にした赤い石を取り出した。

「咲希ちゃん、行こっか。お声を聴きに行かなくちゃ」

 二人は咲希の両脇に並び、にっこりと笑む。そんな二人に誘われて坂を下り、向かう先は海のようだった。砂浜を歩いていけば、周囲に同じように赤い石を持った人々が同じ先を目指していた。その表情は楽しそうであったり、祈るようであったりと様々だ。

 そのうち、入江の奥に小さな鳥居が立っていた。そこが目的地のようだ。

 列に並んでそのまま連なって行けば、鳥居の先には小さな祠があった。かろうじて人がすれ違える程度の陸地は確保できているが、あとは全て海水に満たされていた。その水は波に呼応して微かに波立っている。

 祠の前には岩でできた台座があった。だが、その台座は中央がくり抜かれているようだ。そんな台座の隣には神主の装束を来た男性が一人立っていて、その前で皆その中に赤い石を落としていく。

 石を落とした台座をしばらく見つめて、彼らはそのまま立ち去って行く。どこか肩を落としているようにも見えた。

 咲希と友人二人のなかで、咲希は最後だった。前の二人に倣って、手にした赤い石を台座へ落とす。

 特に何もなく終わると思っていた。咲希もそのまま踵を返す。

 初めの異変は、音だった。気泡が水の中で破裂するような、くぐもった音がした。

 すると、見る見るうちにその台座から水が溢れだしてくる。ただ、それは深紅。そのどこか粘つくような印象すら与える水に、得体のしれない怖気が走る。思わず咲希はその場から一歩下がる。

 だが、周囲の人間は誰一人そう思わなかったようだ。がしっと腕を掴まれ、反射的にそちらを見れば、そこには酷く喜ばしげな友人たちの姿。

「咲希ちゃん、やったね!!」

「――え?」

「咲希ちゃん、選ばれたんだよ! おめでとう!」

 そう笑む彼らに戸惑っていると、装束を着た男性が咲希の方へやってくる。友人二人はそれをみて少し下がる。装束の男性は、手にした御幣ごへいを咲希へと数度振ると、どこから取り出したのか榊の枝を差し出した。持って帰れ、ということらしい。

 咲希の後ろに並んでいた人間はめいめいに立ち去っている。それはそうだよ、と二人は言う。

御徴みしるしが出たんだもの。お祭りもおしまい」


 咲希は若干未だに混乱したまま家へと戻る。そろそろ日付も変わりそうな時間だったが、叔母は起きて待っていてくれた。

 今日の祭りはどうだった、と尋ねてくる叔母はとても楽しそうだ。一緒に行けばよかったかな、と思いながらも、今日の出来事を話す。

 叔母は彼女が榊の枝を持って帰ったことで、巫女に選ばれたということに気づいたらしい。彼女はまるで自分の事のように喜んでくれた。咲希の両手を握り、よかったね、よかったねぇと笑ってくれた。

「でも、私ここに来たばかりなのに……」

「大丈夫よ。今日はもう遅いから、明日はお祝いね」

 そう笑う叔母に、置いてきぼりな印象を抱きながらも咲希は頷くしかなかった。


 登校すれば、昨日の出来事はクラス中に広まっていた。

 あっという間に席を囲まれ、賞賛の声に包まれた。具体的なことはいっさい教えられないまま祝われるのは、居心地がひどく悪かった。けれど、そんなことを言えばこの先どうなるかなど分かり切ったことだった。どうにか笑みを張り付けて「がんばるね」と応えるのが精一杯だった。


 射抜くような日光も夕暮れ時には少し和らいできた。一日「おめでとう」と言われ続けながら、咲希は何とか級友から離れていつもの屋上へとたどり着く。

 そこには、いつもと同じように、そしてどこかけだるげな千景の姿があった。

「お疲れさま。今日は忙しかったのかな」

 いつも来る昼休みに来なかったから、と彼女は告げた。彼女はあの神社の娘だと聞いたが、昨日の話は聞いていないのだろうか。そんなことを思いつつも、昨日の出来事を話す。

「そう、巫女に選ばれたの」

 そう返事をした千景は、いつもの笑みをたたえていながら、何か違和感がぬぐえない。それは一体何故だろうと考えるも、いまいち思い当たらない。

「それは大変ね。先生方から色々言われたんじゃない?」

「えぇ。これから普通の授業の時間を本祭の勉強にすると言われた。今から少し気が重い」

 知れず溜息をつく。そんな咲希を見て千景はくすくすと笑った。笑い事じゃないよ、と肩を落とす。元々物覚えはあまりいいとは言えないし、宗教ごとなど、この学校にくるまで全く触れてこなかった。素養はほぼゼロと言っていい。

「――どうして、私だったのかな」

「それこそ、神のみぞ知る、というやつじゃないかな」

 その言葉で、ふとあの祭りの夜のことを思い出す。一つ、聞いていないことがあった。

「あの、名残さんの家って――」

「あぁ。これでも私はあの神社の娘。正直、自分でも似合わないなぁとは思っているよ」

 何せ私は「魔女」だからね、と、彼女はどこかいたずらっぽく笑んだ。ただ、咲希はあの日神社へ立ち寄ったが、彼女の姿は見なかったように思う。

 それを告げれば、それは仕方がないよ、と彼女は言う。

「私はずっと奥にいたから。祭りでのお役目でね」

 授業の始まる予鈴がなる。教室へと戻る階段を下りているとき、彼女に覚えた違和感が何か、唐突に理解した。

 彼女は、咲希が今まで散々聞いた「おめでとう」という祝福の言葉を一度もかけることがなかったのだ。


 三週間ほどかけて儀式の背景や淤加美神おかみのかみのことを教えられた。

 この土地でまつっているのは淤加美神。『古事記』の時代より水をつかさどるとされ、空中、水中、地中に住み、天空天地を行き来して雲を呼び、雨を起こすとも言われる龍神である。この町では日照りが続くと古来よりこの淤加美神へ祈雨きう、つまりは雨乞いを行ってきたのだという。それだけ伝統的なものだということだ。

 ただ、肝心の「巫女」の役割や祭りの内容については皆ただ微笑むだけで何一つ具体的なことを教えてはくれなかった。


 祭りまで一週間。

 今まではひとり別室で巫女に関しての授業を受けていたのだが、良い機会だからと今日からは普段の教室で授業を受けることになった。

 そろそろ授業開始のチャイムがなりそうだというそのとき、少し大きな音を立てて後ろの入り口が開いた。咲希だけでなく、全員がそちらをみる。

 そこに立っていたのは名残千景だった。全員の注目を集めながらも彼女は何を気にするわけでもなく、視線さえもぶらすことなく自分の席へまっすぐに向かった。

「咲希さん、今日からは名残さんのおうちにお帰りなさい。これもしきたりの一つですから」

「そう、なんですか?」

 取り仕切るのが名残神社であるから、禊ぎの意味もあるのだという。一週間も泊めてもらうのは申し訳がない、と千景の方を見れば、彼女はさもつまらなそうにその席に座っていたが、咲希が見ているのに気づいたのか、こちらを見て「気にしなくて良いわ」という風に笑んだ。

 しかし、それも見間違うかというほどにほんのわずかのこと。千景はすぐにつまらなそうに、その整った顔を無表情に戻してしまった。

 教師の授業が始まった。今日は、この町で行われる祈雨のことについて、授業を行うらしい。

 祈雨には音楽を奏でる、大きな火をたくなど、様々な方法があるのだという。先の前祭で作った藁の龍もその一環である。

 そして、本祭。そこに、以前話に出ていたうつほ船の話が始まる。「うつほ」とは「虚ろ」であり、中をくり抜き外に削り彫りの装飾をあしらった豪奢な船を海へ流し、雨を願った。これが、この町に伝わるうつほ船の始まりだったのだという。

 しかし、ある年。いくらこいねがってうつほ船をながしても、雨の降らない日々が続いた。何がいけないのかとこの土地の人々は頭を悩ませた。

 そこで、ひとりの村人が言ったという。


「もし雨が降ってくれるなら、淤加美神様の怒りに触れたとしてもかまいはしない」


 この言葉に、人々は賛同した。この夏の盛りに雨が降らねば生きてはいけない。それが怒りに触れたとしても、雨を呼び込めるのなら躊躇してなどいられない。雨に流されることになるかもしれないが、このまま干からびるよりは望みが高いと。

 そこから、彼らは禁忌に手を出した。

 神の通り道ゆえ汚すなかれと伝えられる入り江へ動物の死骸を投げ込んだ。

 雨は降らなかった。

 こんなもの意味はないと言った男を殺して投げ込んだ。

 雨は降らなかった。

 神は海に住まうという。そこまでこの所行が届かねば、神は気づかないのではないかと誰かが言った。

 村のためならと震える声で言った少女の喉を裂き、その血を入り江へ流し込んだ。その亡骸は、今まで虚であった船へ込めて、死した彼女は淤加美神のもとにと海へ流した。

 翌日。雨が降った。

 この時以来、この町では禁忌を犯すことで雨を呼び込むことが習わしとなった。ひとり巫女を選び、その血と命で雨を呼び込む、という儀式を行うのだという。


「――――なに、それ――――」

 そうしれずに呟いていた。

 講義を終えるチャイムの音が、乾いた音で鳴り響く。

「どうして?」

 気づけば、クラス内にいる人間全員が、咲希の方を見ていた。無数の目が、咲希ひとりに向いている。それは全員が咲希の発言の意味が本当に理解できない、というそれ。その不気味さに、身の毛がよだつ。

「だって、巫女の役目って――」

「巫女のお役目は素敵なものよ」

「淤加美神様の御許に行けるなんてなんて光栄なこと」

 彼女達のどこか恍惚ささえ感じさせながら、そう咲希へにっこりと笑った彼女たちは全て同じ笑みを浮かべていた。その画一さは同じ生身の人間とは思えず、まるで作り物の人形のように整っていた。

 心臓の音がうるさい。ここにいてはいけないと本能的に悟った。けれど、ここから逃げて一体どこへ行けるというのか。

 横から伸びてきた手に腕を掴まれる。はじかれるようにそちらを見れば、そこには教師が立っていた。

「咲希さん、今日は千景さんと一緒にお帰りなさい。いろいろとお話を聞くと良いわ。そうすれば、きっと貴女の不安も取り除かれます」

 告げる教師の両目は確かにこちらをみて口元は微笑みかけていたが、そこに咲希など映ってなどいないと言わんばかりの、ひどくがらんとした笑みだった。

 かたん、と軽く音を立てて千景が席を立つ。その手には鞄があり、彼女は咲希の席の前まで来た。

「それじゃ行きましょうか。先生、もういいでしょう?」

 そのまま荷物を持たされ、千景の後へ続き教室を出た。

 校門には一台の乗用車が止まっていた。千景が慣れた手つきでドアを開け、先に乗るよう促す。

「千景さん、あの話――」

 本当に何も聞いていなかったんだね、と千景は静かに嘆息した。その言葉はあの話をそのまま肯定するもの。

「この町は生け簀なんだよ。淤加美神様に捧ぐ贄として生きて、選ばれたら淤加美神様の許へ召される。それによって雨が降るのだから、ありがたいことだよ」

 それを当たり前のことだと思っている、そんな町だと彼女は告げた。

「君はあの夜にこの町から逃げておくべきだった。あの夜なら外へ出られた。今はもう無理だろうけれどね」

 神社の裏手に建てられた屋敷。千景は咲希の手を取りそのまま屋敷の奥へと歩いて行く。

 連れてこられたのはひとつの部屋。ユニットバスに最低限の家具と神棚が備え付けられている。代々巫女になる人間に貸し与える部屋なのだという。

 部屋の中を見ている間に、千景が部屋の外へ出て扉を閉めた。ガチャリ、と重い音がした。とっさに振り向き、扉にすがりつくようにしてドアノブを回した。鍵がかかっている。どう揺らしても硬いガタガタという音ばかり。

「千景さん――!!」

「君は警戒心がなさすぎるよ。私が名残の娘だって知っていたのについてくるし」

 祭りの日まではこの部屋にいるように、そして整理をつけておいて、とだけ告げると、千景は部屋の前から去っていった。

 よく見れば扉にはきちんと物を通せるだけの小窓がついていて、そこから着替えと食事が毎日運ばれてきたが、それは千景以外の知らない人であったし、部屋をくまなく見てみたけれどどこからも逃げられるような場所は無く。逃げられないとわかった時点で、咲希には何をする気も起きなくなっていた。


 そうして祭り当日。頭がうまく働かない。日も落ちた頃に装束を着せられ、一週間ぶりに部屋から出された。

 外では楽が鳴り響き、断続的に鳴る鈴の音が耳に残る。

 そのまま後ろ手に縛られ目隠しをされ、駕籠かごに入れられる。町内を引きまわすように巡っていることは、閉ざされた駕籠の中からでも判断がついた。

 がたりと駕籠が降ろされ、外へ出される。目隠しを外されればそこがあの巫女を選ぶ儀式を行った入り江だと分かった。

 気づけばこの場所には千景と咲希の二人しかいなかった。ひざをついた咲希の左肩へ、次いで右肩へ、千景はその手にした短刀を厳かに当てる。

「逃がしてあげようか」

 咲希の首に短刀をあてがって、その口で千景は全く真逆のことを言う。短刀にゆっくりと力を込めて、咲希の首の薄皮をゆっくりと裂いていきながら笑む彼女は、あの夜と同じ目をしていた。

「この町から出てしまえば、貴女の日常が帰ってくる。行く当ては無いのかもしれないけれど、ここで死ぬよりマシだろう?」

 声が出ない。咲希は「どうして」と彼女を見つめた。

「貴女はこの町の人間じゃない。この町の人間なら、もう私も放っておくのだけれど」

 この町自体が生け簀なのだと、かつて彼女は告げた。その言葉をあのときは、納得済みのものだと思っていたけれど。

「五年前最後のひとりは、私の姉だった」

 そう淡々と彼女は視線を向けることなく言う。

「あの年はどれだけ送っても雨が降らなかった。送った人数は、姉で七人。それだけやっても、この町の人達はこんな儀式が迷信だなんて信じやしなかったんだ」

 彼女が「魔女」と呼ばれる理由は、きっとここにあるのだと悟る。「魔女」を「異端」と捉えるのであれば、彼女の思考は明らかに異端以外の何物でもない。

「昔は、人の命にも天災を止める力があったのかもしれない。けれど今の私達の命にそんな力も重みもないさ」


――命はだんだん軽くなっているのかもしれないね――


 人が神を信じなくなったのと同じように、神も人を必要としなくなっているのかもしれないと彼女は言った。

 ざくりと音を立てて、縄が断ち切られる。千景の手を借りて、ゆっくりと立ち上がった。彼女に手を引かれて奥へと向かう。

 入口からは死角になる場所に、古びた小さな扉があった。開けば、人が一人通れるかどうかというくらいの細い穴が開いている。

 明かりもないその暗いうろが、どこに繋がっているかなどわからない。それでも、この場所で千景に、いやこの町に殺されるよりは、よっぽどマシなはずだ。

「決して、振り返らないように」

「千景さん――」

「――元気で」

 その言葉は温かかったけれど、彼女が咲希に見せる背はひどく冷たく。鈴の音が迫っているのは咲希にも聞こえていた。

「千景さんも一緒に」

「私は、ここから出る気はないんだ。最後まであの人を弔いたい」

 その言葉は、咲希がどんな言葉を尽くしたとしても説得できないと理解させた。

 外へ出たら、海に背を向けて歩くんだよ、と彼女は告げた。ごめんなさい、と一言告げて。咲希は指し示された暗い穴を先へ進む。明かりもほとんどないその道を、ごつごつとした岩壁づたいに歩く。

 足下は海水で満たされ、着慣れない長い着物は水を吸って重くなっている。それでも足は止められない。はねる心臓をどうにかなだめて道ともいえぬ道を歩む。

 道は海水に満たされたそこを抜ければ急な上り坂となっていた。ほんの少し立ち止まりながらも、何とか上る。

 この道に入ったときと同様の、かろうじてくぐり抜けられる程度の扉が見えた。縋りつくようにその扉へ取りついてがたがたと揺らし、何とかその扉を押し開く。

 地面に手をつきながらどうにか外へ出ると、そこは木々に覆われた山の中腹だった。よろけながらも後ろを見やれば、そこには海が見える。

 そこで、咲希の頬へ、ぽつり、と。水滴がつく。思わず上を見上げた。

 ぽつりぽつりと落ちてきたかと思えば、それはすぐにざぁっとなだれるような雨へと変わる。


 海にはひとつのうつほ船が浮いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

うつほ舟 唯月湊 @yidksk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ