猛れメロス
一河 吉人
猛れメロス
メロスのメロスは激怒した。必ず、かの
きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた
歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう既に日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。路で逢った若い女衆をつかまえて、何かあったのか、二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった
「王様は、人を殺します。」
「なぜ殺すのだ。」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」
「たくさんの人を殺したのか。」
「はい、はじめは王様の妹婿さまを。それから、御自身のお
「おどろいた。国王は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」
聞いて、メロスは得心した。クーデターを未然に防ぐのは、国防として当然だ。どこに他国のスパイが入り込んでいるか分からぬ昨今、王は成すべきことを成している。聞けば、刑場では今も処刑が行われているという。メロスはこれ幸いと冷やかしに行くことにした。
「はて」
刑場には、なにやら諍う声が響いていた。
「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳です。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」
どうやら、王女の一人が処刑を止めようと、その命をかけ王を説得をしているらしい。
メロスは激怒した。処刑は、庶民の娯楽である。それを、お前のような恵まれた生まれの者が、薄っぺらい綺麗事を並べて取り上げるのだ。
たちまち彼は、
調べられて、メロスの懐中からは短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」
暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を
「市を暴君の手から救うのだ。」
とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」
王は、
「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「いや、そっちの王女からだ」
「なんて?」
「邪智暴虐の王女から、大罪人の処刑という楽しみを救うのだ」
王は混乱した。
「……み、見よ! 口では、どんな清らかな事でも言えるが、人間の本心とはこんなものだ。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。そんなに死刑が見たいなら、おまえを処すことにしよう。いまに、
メロスも混乱した。なぜ、こんなことに? 王の擁護派だったはずの自分が、どうして処刑にかけられようとしている? 自分はこれからどうなる? 一体、どうすればいい? メロスは助かるの? 作者の太宰治とは? メロスは狼狽した。メロスには『走れメロス』がわからぬ。メロスは、村の牧人である。メロスの使っていた教科書には、『走れメロス』も『山月記』も無かった。ただ、インターネットの話題に取り残されぬため、授業で習った振りをしていたのだ。メロスのお気に入りは、かまきりりゅうじであった。
メロスは必死で記憶をたどった。走れメロス、走れメロス……太宰……直木賞……熱海……旅館……そうだ、確か――
「ああ、王は
と言いかけて、メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらう振りをし、
「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。たった一人の妹の結婚式が、明後日あるのです。それが終われば、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな。」
と暴君は、
「とんでもない
全くその通りだ、メロスは同意したがそれはおくびにも出さず
「そうです。帰って来るのです。」
と必死で言い張った。
「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセ、セ……」
メロスは詰まった。あの竹馬の友、名前は、ええと、そう――
「この市に、センズリティウスという石工がいます」
「セ、セン……」
王は言い淀んだ。女王も顔を真赤にして
「そう、センズリティウス、私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。たのむ、そうして下さい。」
それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと
「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」
「なに、何をおっしゃる。」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」
メロスは歓喜した。素晴らしい案だと思った。王は人の醜さを喧伝できるし、こちらも処刑を免れる。まさにWin-Winだ。ゼウスに手を挙げて感謝したい気分だった。国外逃亡も考えたが追手が怖い、しかしこれなら安全だ。それにセンズリティウスの妻は気の弱い女、亡くなった主人に金を貸していたとゴネればいくらか
メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。王はセンズリティウスを連れてくるよう命じたが、そんな男は見つからなかった。
メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、
結婚式は、翌日の夕方に行われた。「王国一の妹アイドル」クラムちゃんと、彼女を推す幾多のファンによる魂の
メロスは走った。とにかく走った。朝に走っては仏を殺し、夜に走っては祖を殺す勢いで走った。今年は是非とも、あのクソ野郎どもに、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って表彰台の台に上ってやる。若い時から名誉を守れ。さらば、ふるさと。メロスは家を抵当に入れて走った。
若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。下位層を出て、中位層を横切り、上位層をくぐり抜け、一桁順位に着いた頃には、日が何度目かの頂点へ昇って、そろそろ暑くなって来た。メロスは額ひたいの汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、もはや故郷への未練は無い。妹は、きっと
彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、また、声を限りに呼びたててみたが、イベント資金は残らずジュエルに変換されて影なく、プレゼントボックスには未受け取りのアイテムも見えない。メロスは床にうずくまり、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。「ああ、
入賞ボーダーは、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、
しかし、押し流されつつも、見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、モバイルでイベントを再開しながらすぐにまた家路を急いだ。やはり光回線でないと時速が落ちる。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。
「待て。」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに家へ帰らなければならぬ。放せ。」
「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」
「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから天にくれてやるのだ。」
「その、いのちが欲しいのだ。」
「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」
山賊と思われた者たちは、国税庁の徴税官だった。彼らはものも言わず一斉に
「気の毒だが正義のためだ!」
と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、残る者のひるむ
ふと耳に、
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。あれは、アカウント乗っ取りだったのだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、
路行く人を押しのけ、
「いまごろは、あのアイドルも、入賞圏外に落ちているよ。」
ああ、そのアイドル、そのアイドルのために私は、いまこんなに走っているのだ。そのアイドルを死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、一桁順位が見える。入賞した妹の姿は、夕陽を受けてきらきら光っている。それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い!
最後の死力を尽して、メロスは走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。イベントの陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く一桁台に突入した。間に合った。あっぱれ。妹もまた、間に合った。メロスは入賞できなかったアイドルのファンを三日三晩煽り倒した。
「ありがとう、妹よ」
そして今、メロスは、嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。妹が入賞の栄誉として勝ち取った1stライブ。モニタの中からも、
「クラム」
メロスは眼に涙を浮べて言った。
「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が
だが妹は、画中の人だった。メロスは腕に唸うなりをつけて、自分の頬を殴った。
兄と妹の幸せな結婚式は、盛大に幕を閉じた。メロスほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁へ画面越しに
「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、すぐに市に出かける。大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しいファンがあるのだから、決して寂しい事は無い。おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。ファンとの間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを持っていろ。」
とSNSに長文を投稿した。メロスは、それからキーボードをたたいて、
「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」
メロスは笑ってスタッフたちにも会釈して、宴席から立ち去り、暖かいベッドにもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う、南無三って何? というか間に合っても困るし、もう少し出発を遅らせよう。メロスはライブのアーカイブ配信を二周した。
ようやく涙も乾いたころ、メロスは重い腰を上げ、悠々と身仕度をはじめた。雨も、いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、雨中、矢の如く走り出た。
センズリティウスは、今宵、殺される。やつが殺される為に走るのだ。このメロスの身代りにする為に走るのだ。王女の
すでに磔の柱が高々と立てられ、縄を打たれたセリヌンティウスが、徐々に釣り上げられてゆく。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように警吏を掻きわけ、掻きわけ、衣服が千切れ飛ぶほど抵抗し必死で逃げようと試みたが叶わず、もはやこれまでと腹をくくり、かくなる上は情に訴える他無いと覚悟を決め
「私だ、刑吏! 殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」
と、かすれた声を精一ぱいに装って叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、
「シュインティウス。」
メロスは眼に涙を浮べて言った。警吏に散々殴られ全身が悲鳴を上げていたので、嘘泣きは容易かった。
「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が
セリヌンティウスは、すべてを察した様子で
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」
メロスはドン引きした。あれだけの仕打ちを受けてこの台詞、この男も一種のサイコパスなのでは……? 走れメロス、登場人物サイコパスしかいないのでは……? 薄ら寒いものを感じつつも、腕に
「ありがとう、友よ。」
二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣き、メロスはちらちらと王を盗み見た。
群衆の中からも、
「おまえらの望みは
二人は王の頬を一発ずつ殴った。
「万歳、王様万歳。」
どっと群衆の間に、歓声が起った。
ひとりの少女が、
「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
メロスのメロスはメロスした。
(古伝説と、シルレルの詩と、青空文庫から)
猛れメロス 一河 吉人 @109mt
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