ケッコンツリワ

吉水ガリ

結婚吊輪

 コウハイはセンパイに誘われ研究室のちょっとした喧騒から抜け出し、構内のカフェを訪れることにした。

 カフェとは名ばかりの売店。キッチンカーのような軽食の販売スペースで商品を受け取り、周囲に散らばったテーブル席を利用するという、ある意味で大学らしい解放感と自由さのあるスポットだった。

 注文したコーヒーを受け取り、適当な席を選ぶ。昼食を控え午前ももう終わり頃というその時間帯は構内を歩く学生の姿も比較的少ない。このカフェではなおさらそうだった。

 席についたセンパイは真っ黒なコーヒーの入ったカップをそっと持ち上げた。視線を落とし、静かに息を吹きかける。


「まだ熱そうですよね」


 コウハイは言った。渡された砂糖とミルクには手をつけず手元のアイスコーヒーから伸びるストローを軽く摘まんで、混ぜる。カラカラと音が鳴った。


「それって季節的なこと?」


 センパイはコーヒーを冷ます作業を続けながら、上目遣いに訊いた。


「……どっちもですね」


 十月だった。残暑だ暖冬だ秋がないだと世間ではいろいろと評しているが、日中は多少の暑さを感じる日々が続いていた。今日もその日々から外れることはなく、飲み物はホットかアイスか意見が割れそうな気候だった。

 センパイはぽつりと言う。


「風が吹けばコーヒーが温まる」

「風が吹いたら冷めますよ」


 コウハイは常識的に指摘した。


「日差しを受けたら暑く感じるような日でもちょっと強い風が吹いたら肌寒い気がして、飲むコーヒーもつい温かいものを選ぶようになってしまう、というそういう現象。風が吹けばコーヒーが温まる。どうかしら?」

「どうでしょうねえ」


 言いながら、ストローに口をつける。顔にひんやりと冷気を感じた。味はさておき温度だけはキンキンに冷えている。

 センパイもカップに口をつけた。ゆっくりゆっくりとカップを傾け、まだまだ盛んに湯気を上げているコーヒーを口に含んだ。


「ところで、それって結局なんなんですか?」


 センパイが一息ついてカップを下ろしたところで、コウハイは尋ねた。


「これ? そんなの知ってるでしょう?」


 センパイの視線は下を、自分の体の方を向く。そこには縄が垂れ下がっている。親指ほどの太さの縄が垂れていて、それは上に伸びていて、センパイの細い首元で輪っかになっていて、それがチョーカーのようにぴったりと巻きついていて、つまりは彼女の首を絞めている縄の端がだらりと体の前で揺れている状態だった。

 それがなにかと言われれば、センパイが言う通りそんな常識的なことはコウハイだって知っていた。結婚吊輪だ。厳密には婚姻関係に限らず愛を誓い合ったふたりを――物理的にはそのうちのひとりの首だけをだが――結ぶ縄。その関係はまるで主人と下僕、さながら飼い主とペット。首を括る縄を手にしてもかまわないほどの信頼関係に結ばれた証として使われる吊輪だ。


「それがなにかじゃなくて、どうしてって意味で言ってるんですよ」

「それなら簡単。結婚吊輪に興味が湧いたから、だからつけているの。さっきも言ったでしょう?」

「それが意外なんですよね」


 このやりとりは先ほど研究室で他の学生たちと一緒になってやったものと同じだった。こんなやりとりがあってそこから質問責めが始まりそうになり、センパイはコウハイとともに研究室を抜けてきた。


「そんなに意外なこと?」


 センパイはわざとらしいほどにきょとんとした顔をした。


「研究に関係しているのなら、そんなに意外じゃないと思いますけど。一応は関係ありますよね? 吊輪の慣習って、広く見れば文化人類学の範疇だから」

「そういう見方もできるわね」


 センパイは曖昧に答える。


「学部生の頃から互恵関係を扱ってたし、理由としてはおかしくないんですけど」


 わざわざ研究室を出てきたのだが、コウハイは遠慮なく自分の疑問をセンパイにぶつけた。この場で質問されるのが嫌なら自分を連れずにひとりでどこかへ行っただろう。そう考えれば、疑問をぶつけることを我慢する理由はなかった。


「大学院生になって半年も過ぎていろいろと試行錯誤してるとか」

「だからって研究対象のものを自分でつけてみたりする?」

「普通はないと思います」


 思案の間もなくコウハイは言い切った。センパイの首から下がり、ふら、と揺れる縄を見る。普通という言葉で括ってしまえるなら目の前の状況はそもそもがあり得ない。その尺度は無意味だとコウハイは思っていた。


「おまえ、変なものつけてるな」


 不意に会話に割って入る声が飛んできた。ふたりが視線を向けると、テーブルの傍で男が立ち止まった。


「あら、おはよう」


 センパイの同級生の学生だった。コウハイも何度か顔を合わせたことがある、センパイの友人のひとりだ。コウハイも、おはようございます、と頭を下げる。


「こんな所でわざわざ声をかけてくるなんて、珍しいわね」

「こんな珍しいものを見たらな。声だってかけたくなるだろ」


 その友人の視線はセンパイの顔ではなく首元に向いていた。


「こんなもの街中でいくらでも見られるでしょう?」

「おまえの首についてるから珍しいんだよ。見合いでもしたか?」

「いまの時代に?」

「そうでもなかったら吊輪なんてつけることないだろ」

「あら。それはちょっと失礼な言い草よね」


 センパイは唇を尖らせてコウハイに同意を求める。確かに、とコウハイは頷いた。


「違う違う。恋人ができたとしてもそんなのつけるタイプじゃないだろ、おまえは。結婚でも披露宴はしないし籍だけ入れれば十分って考える方だ。絶対にそう」


 それも確かに、とコウハイはまた頷く。研究室の人間に訊いてみても全員が同じように答えるだろう。実際、数人がその反応をしたのをつい先ほど見たばかりだった。


「みんな同じことを言うのね」

「それもまた失礼か?」

「いえ、わたしのことをよく理解してもらえているようで嬉しい限り。でも、ひとつだけ間違いがあるわ。そもそも、わたしは結婚吊輪をしているわけじゃないの」


 センパイは縄に手をやり、その先端を掲げてみせた。そこにはあるべきはずのものがない。


「……手がないぞ」


 友人は訝しげな顔をした。


「そういうこと」

「……なんだそれ。男よけとか?」

「それだったらレプリカの手を用意するわ」

「だったらなんのためにそんなのつけてるんだ? それ、多分ブランドものだろ。学生が衝動買いするようなものじゃないぞ」

「そんなに高いんですか?」


 コウハイは思わず口を挟んだ。


「見ただけじゃどこのやつかはわからないけど、作りが安物じゃない。確実に値は張るね」


 友人はセンパイの手からだらりと垂れている縄をしげしげと眺める。


「詳しいんですね」

「俺も一応選んだことはあるから。結局、使えずじまいでゴミ箱行きになってそれで終わりだったけどね」


 自虐的にそう言いながら、友人は自分の両手を前に差し出した。それは義手ではない正真正銘生身のもので、当然ながら手首には切断の後もなかった。恋が実らなかったというわけだ。なんとも言葉を返せず、コウハイは、へえ、と感嘆のような納得のような妙な相槌だけを打った。


「そういう経験があったのね。知らなかったわ」

「失恋の話なんてわざわざ喋ることでもないだろ。おまえがなんのためにそんなものを買ったのか知らないが、俺みたいにならないことは祈っておくよ」

「それはどうもありがとう」


 縄を下ろし、センパイは深々とお辞儀をした。


「そうじゃなく別の目的があるなら、いつか種明かしはしろよ。絶対だぞ」

「検討しておくわ」


 センパイはすげない返事だったが友人はそれ以上執着せずに、それじゃあな、とこの場を離れた。付き合いの長さから粘っても意味がないと判断したのか自分の過去の失恋を思い出して気分が萎えたのか。唐突にやってきたのと同じように彼は唐突に去っていった。

 すたすたと去っていくその後ろ姿を見送って何の気なしに人もまばらな構内を眺めたコウハイは、自分たちの方に足早に向かって来る別の男の姿を見とめた。知っている相手だ。


「先生、なにか用事かしら」


 センパイも気づいていた。男はこの大学で講義を持っている、ふたりともに知っている准教授だった。その目はいまセンパイに釘づけで、早歩きで一直線にテーブルにまでやってくる。そしてすぐ目の前まで来たところで、


「結婚したのかい、きみ?」


 精一杯に押し殺したといった様子の、息が多量なわりに過剰なほどの小声でそう言った。同時に、ごっ、と音がした。准教授の首から下がる吊輪の先、そこを掴んでいる手がテーブルの縁にぶつかった音だ。吊輪用に防腐処理済みで釉薬のようにコーティングをされているその手は傷ひとつつくことなく、縄を掴んだまま弾むように揺れた。


「違いますよ」


 センパイはまた質問者に自分の吊輪の先端を見せた。そこには、准教授のつける吊輪とは違い、手が存在しなかった。ふえっ、と准教授は間抜けな声を上げた。


「主人となるパートナーがいないのかい? それはまた不可解な状況にあるね。きみが結婚するという事実よりもけっこうな不思議と言える」


 准教授は急いで走ってきたせいもあり、忙しない呼吸をくり返しながら言う。


「結婚はしませんよ」

「それはなおさら不思議だね。これはいったいどういったことなんだろうか。吊輪をどうしてつけているのか。男よけかな? しかしそこにあってしかるべき手がないのならば相手がいないことはすぐにばれてしまって意味がない」


 呼吸が落ち着いてきたと思えば今度は、うんうん、となずきを交えてひとりで考え始める。


「だったら逆かな? これはパートナー探しだ。吊輪を首にかけることで、この誰の手にもまだ握られていない縄をぜひあなたの手に、という意志表示を無言のうちにしているわけだな。それは誘いの結婚吊輪だ。これはいい作戦だね。誰の手にも握られずぶらぶらと揺れている吊輪を見せられれば本能的に意識せざるを得ない。ぼくだってきみの縄を掴む者として立候補してしまいたくなるというものだよ」


 准教授は真面目な顔でそう言った。センパイは笑う。


「先生にはもう相手がいるじゃないですか」

「それはもちろん承知しているさ。僕にはすでに主人たる妻がいる。だがしかしそれとこれとは別だよ。きみの吊輪に魅力を感じたことは事実でありそれを表明すること自体が悪であるとは僕は思わない。僕がきみに求婚することはないし恋人に立候補することもない。しかしながらそうしたいと思う気持ちが湧いたという事実をありのままにさらけだすことは認められるべきだという認識だよ」


 准教授は視線を落とし、縄の先を握る手をそっと自らの手で持ち上げた。彼自身の両手はアイボリー色をした義手だった。


「認められても、歓迎はされないかもしれませんよ?」

「それでもいいさ。僕は自由な思想と思考を尊ぶことが信条なんだ。なんなら歓迎されないついでに、もうひとつ余計なことを言おうか。僕は、きみが吊輪のそちら側であるというのは正直なところ意外に思ったよ。きみは握る側だと思っていた。そちらの方が自然だと。ねえ、きみもそう思わないかい?」


 最後の言葉は、突然コウハイに向けられたものだった。

「ですね」


 反射的に答える。それは全員がそう思うことだろう。実際、今朝研究室にいた人間は全員が口を揃えてそう言っていた。そういう意味でもまたセンパイの吊輪は意外なものだった。


「不躾なことを言うんですね」

「それもまた承知の上さ。僕だって初対面の人間相手であればこんなことを言わないぐらいの理性はあるしマナーもわきまえている。しかしこれは至極大事なことでもあるんだよ。自分がどちらの立場であるか。それを判断するのは非常に難しい。当人のことは当人にしかわからない。けれども当人自身がわかっているかもまたわからない。かくいう僕も今とは逆の立場、主人の側を経験してきた過去があるわけだけれどもそれはとんだ間違いだったんだ。自分は吊輪を握る側でなく握られる側だった。それに気づくまでにふたりのパートナーに捨てられて両手を失うという犠牲を払ってしまった。右手は残飯と一緒に生ごみに出され、左手はトイレに流された。そんな目に合うまで自分自身で気づくことができなかったんだよ」

「二回とも随分と揉めたみたいですね」


 そう言ったのはコウハイだった。


「揉めたというより、元恋人たちが苛烈だったということさ。苛立ち任せに三角コーナーに叩きつけ、主失格のパートナーの手は糞尿まみれで廃棄されて当たり前だと怒鳴りつけ、そういう破天荒な人間たちだっただけのことさ」


 准教授は、両の義手で自分の縄の先の手に触れた。


「それに引き替え、彼女は素晴らしい。まず常識がある。それだけでどれだけ僕が救われることか」

「昔の恋人と比べるのはよろしくないんじゃないですか?」

「それは金言だね」


 センパイに指摘され、准教授は素直に認めた。


「いつもの癖が出てしまったんだ。僕たちふたりきりの時の癖さ。実は、こういう話をするのがお仕置きの合図になるんだ。嫉妬に駆られたあの表情、そして振り上げられる拳。その様を僕はいたく気に入っているんだ」


 頬が紅潮し、顔が緩んでいく。


「おっと、いけないね。顔見知り相手とはいえこれはさすがにマナーがなっていない。惚気はほどほどにしないと」

「ふたりの生活はふたりだけの秘密にしてお楽しみくださいね」

「つい自慢したくなってしまったよ。失敗を積み重ねた上の、ようやくのパートナーだったからね。僕は幸せで仕方がない。きみも僕と同じように幸せになってほしいものだね。失敗なんて経験せずにきみの求める幸せをまっすぐに掴んでほしいものだよ」

「ありがとうございます」

「それでは、これ以上余計なことを言う前に僕はここを去ろうかな。吊輪があるのを遠目に発見してついこうやって押しかけてしまったがふたりの時間を邪魔するのも失礼なことだ。特に、学生の水入らずを邪魔するものじゃない」


 准教授はこれまでとは打って変わって妙に配慮を見せる。


「それでは、また」


 結局、センパイの吊輪のことは自分の推測で納得してしまい、准教授はその場から足早に立ち去った。


「みんな気になるみたいですね」


 コウハイは言った。センパイは澄ました顔でカップに口をつける。周囲の驚きはどこ吹く風だった。その態度に不思議はなにもなかったけれど、周りからの質問にはっきりと答えを出していないことはコウハイにとって不思議だった。隠すことに意図があるのか。いまのところ、センパイがなぜまっさらで新品の吊輪を首につけているのかはわからないままだ。


「あら、また気になる人が来たみたい」


 カップを置いて、センパイが言った。視線の向きに合わせて顔を向ければ、コウハイも見知ったひとりの学生の姿があった。コウハイの先輩でありセンパイのさらに先輩でもある、現在博士課程の同じ研究室所属の先輩だった。

 彼女はふたりのテーブルに向かって一直線に向かってくる。先ほどの准教授よりも気が急いている様子で、早歩きを超えてほとんど駆け足だ。小気味よいパンプスの音がしばらく響いて、それは一際大きな音を出して突然に止まる。ふわ、と視界に、縄を握る小ぶりな手が舞った。大先輩のつけた結婚吊輪が勢いよく跳ねていた。


「どうしてそんなのつけてるの?」


 開口一番、挨拶もなしに大先輩はセンパイにそう尋ねた。質問ではなく、問い質すという表現が的確な力強さがある尋ね方だった。


「恋人ができた?」


 大先輩は答えを待たずに言葉を続ける。だん、と吊輪を握る手がテーブルを叩いて転がった。


「実は許嫁がいたとか。親の意向でお見合いをしたとか。悪い男に騙された? 嫉妬深い女につけるように命令された? それとも、逆にそういったことがなにもかもわずらわしくなったから自分には心に決めた相手がいることをアピールしてるの?」

「先輩、落ち着きませんか?」


 センパイは大先輩を宥めた。


「その手もテーブルにぶつかってかわいそうですよ」

「こんなレプリカはどうでもいいの。あなたのそれ、なんなの? 手がついてないし、なんのためなのか全然わからない」


 大先輩は一年ほど前から結婚吊輪をしていた。センパイと違ってその縄はしっかりと誰かの右手に握られているが、しかしそれは誰のものでもないレプリカだ。近くでまじまじと見ればそうとわかるもので、大先輩の友人知人は大抵そのことを知っている。


「私みたいに恋愛関係の話題を避けたいからつけているわけじゃないでしょ? それだと手がないのがおかしいし、それだと相手を探しているように見える。そう思う方がよっぽど自然」


 大先輩は准教授と同じ推測をしていた。


「研究室のみんなもわからないって言ってずっと悩んでたけど、あなた、どういうつもりなの? どんな意図があるの?」

「意図、ですか」


 大先輩に詰め寄られ、センパイは少し考える表情を作った。そうして、


「驚かせたかった、というところですかね」

 単純で、しかしながらいまだ曖昧なことを言った。

「絶対、嘘」


 大先輩は真っ向から疑ってかかる。


「あら、そう思います?」

「言いたくないみたいだからあんまりしつこく追及するのもどうかと思うけど、いまの答えは嘘でしょ。具体的かつなにかしらの目的があってやっているのは確実」


 大先輩は断言する。


「それがなんなのかを知りたい欲求はとてもあるけど、言いたくないことを言わせるのは嫌だからこれはまあ難しいところね。私はいったいこの問題をどうするべきかしら」

「そんなに気になります? こんな縄ひとつが?」


 センパイはぷらぷらと縄を振った。


「ただの縄じゃないし、私はあなたに仲間意識を持っているから。勝手にね。結婚吊輪をして、大学院をやめてこれからは家庭に入るつもりです、とかそういったことになるのは個人的に望んでないの。あなたが望んでいるかは知らないけど」

「心配はいりませんよ」


 センパイは微笑した。


「そんなことに頭を悩ませるのはやめてください。そんな余計なことに貴重な頭脳を割くことはなく、自分の研究に邁進していただくのがわたしとしても嬉しいです。同じ、仲間意識を持つ者として」

「……わたしのこれはただの杞憂だってこと?」


 ええ、とセンパイはにっこりと笑った。あどけなさを感じるぐらいに素直な笑みだった。

 大先輩はそのセンパイの顔をじっと見ていた。じっと見て、じっと見て、そして、前かがみになっていた背をそらせた。


「それなら、よし」


 センパイの言うことを信用したのか、信用せざるを得ないと思ったのか。大先輩は追及の姿勢を解いた。


「言ってもよくなった時には教えてよ。考えないようにしても絶対に頭の片隅に残っちゃうから。いつか教えてもらわないといつまでも引っかかることになる」

「それはもちろん」


 センパイは快諾した。大先輩は、それじゃあまた、と言って踵を返した。リズムよくパンプスの音が鳴る。突然やってきて、また突然帰っていった。




「こんなものひとつつけているだけで大慌てね」

 センパイはカップを下ろし、そう言った。ちら、と視線は自分のつけた吊輪の先端に落ちる。


「あれこれと想像して、みんな大変そう」

「もしかして、そういう実験ですか? 吊輪をつけた人間に対してどういった反応をしてどういった感想を得るのか」

「そんなものデータが取れないでしょう。相手との関係性やそれを見た状況、本人の発言、そういった要素でいくらでも結果が変わりそうなものだし、サンプルとして使いものにならない」


 センパイはばっさりと否定する。しかし最後に、


「ただ、実験という表現は間違っていないわ」


 そう付け加えた。

 その言い回しの意味はコウハイには理解できなかった。そして、


「あなたはどう思った?」


 そう問いかけられ、どう答えるべきか、なぜそう問いかけられるのかもまた理解できなかった。


「どうしてだろうって、不思議に思った? わたしに吊輪をつける方は似合わないって、そう思った?」

「そんな失礼なことは思いませんよ。つけるもつけないもご自由に」

「別に思ってくれてもいいのよ。似合わないのは自覚もしてるし。だってこれはわたしのものじゃないから。実は、これってあなたのものなの」


 出し抜けに言われた。センパイは指先で縄の先端をこねるようにいじっている。

 理解はまたも追いついていなかった。


「あたしは、間に合ってますよ。ブランドものにはだいぶ見劣りする安物ですけど」

「そうじゃなくて、あなたにつけるの。あなたが首を括る側よ」


 無言。コウハイは沈黙の間を作ってしまった。けれども、今度は理解できなかったわけではなかった。まったく逆だ。ようやく、コウハイは彼女の意図を正確に理解することができた。

 だから、適切な言葉を選んだ。


「それは無理ですよ」


 自分の左手を静かに持ち上げた。正確には、左腕だ。なにせコウハイの左手はもうそこにはなかった。手首から綺麗に切断されて白濁したジェル状の保護材で覆われているそこには、もうなにもない。


 左手はいまはどこか。安物の結婚吊輪をしっかりと握ったまま、寝坊して布団の中にいるであろう彼女の幼馴染の腹の上にでも載っているはずだ。大学生になってますます怠惰になった、ひとりではとても生きていけそうもないあの幼馴染の。


「物理的には可能なことでしょう?」


 センパイは戸惑いもなく、微笑すら浮かべて言った。


「あ、でもそれだと手が繋げなくなるから困るわね。左手でお揃いもいいけど、鏡合わせみたいに反対の手の方がいいかしら。私は左利きだし、その方が自然ね」

「本気で言ってます?」

「趣味の悪い冗談は言わないわ」


 それはそうだろう。コウハイはそれを理解していた。そういう人じゃない。大学に入った内のほんの数年の間の付き合いでもそれぐらいはわかっていた。


「私、ぬくもりが恋しいの。こんな時期になるといつも温かいものが飲みたくなって、時にはまだまだ暑くて汗ばむこともあるけどやっぱり恋しい」

「その割に薄着で、寒い寒いって言いながら日の光に照らされた所を求めてうろうろしてますね、いつも」

「寒いけど暖かい。あれって幸福よね」

「センパイは……」


 少し、言いよどむ。言葉を選び、言葉を続ける。


「その吊輪を握りたいんですか?」

「私は握りたいわ。あなたにつけた縄の先を。あなたは、そうは思わない?」


 質問を返されて、コウハイは黙った。


「こんなものひとつで、みんな大慌てよね」


 センパイはため息を漏らした。表情は、まだ笑みを浮かべたままだった。


「でもわたしも慌てたわ。先週、あなたの左手がなくなっていて。自分でびっくりするぐらい慌ててた」

「そうは見えませんでしたけど」

「パニックになると硬直するタイプなの」


 それはコウハイは知らなかった。


「それで、これをつけたの。あなたも慌てるのかなって思って」

「そうですか」

「でも、慌てたのは他の人ばかりね」


 センパイは笑みを濃くした。無理をして笑っている。そう見えた。本当は寂しそうな笑みだ。でもそうじゃないのかもしれない。そういう風に感じたのは、センパイの言葉の意味を理解できているからかもしれない。


「あたしが慌てたらどうするつもりだったんですか?」

「気づくと思ったのよ。この吊輪は保護者が握るものじゃないって」


 ふ、とコウハイは思わず笑った。それはすぐに苦笑になる。


「やっぱりそう見えます?」

「そう思ってるんでしょう? 手のかかる幼馴染は自分が守ってあげなくちゃいけない。保護者じゃなければ、うんと歳の離れた兄弟かなにかかしら。でもだからって、こんなものを使わなくてもいいでしょうに。って、それがわたしの考え。あなたの首に縄をかける理由のひとつ」

「保護者から解放させてあげようってことですか?」

「そんな人助けじゃないわ。私は握る側だもの。あなたを私のものにしたい。本当の理由はそれだけ」


 コウハイはすっと視線を落とした。小さくなった氷が浮いたアイスコーヒー。ストローに口をつけて、一口飲んだ。水が溶けて薄まって、飲みやすい。片手で入れるのが面倒だからと、砂糖もミルクも入れなかったのはよくなかった。ここのコーヒーはブラックだと苦すぎる。新しい発見だった。


 片手がないのは、当然不便だ。代わりに、その手が握る縄をつけたパートナーが存在する。主人は首にかけた縄を握る。従者は主人の手となり足となる。それが結婚吊輪の契約だ。互恵。互いが互いを求め、互いに互いを助ける。そこに、保護者なんて役回りは存在しない。

 なるほどである。


「ごめんね」


 センパイが言った。


「もっと早く慌てた方がよかったわ。わたし、今に甘えていたみたい」


 また、寂しそうな顔をした。または、そう見えた。そう思ってしまっただけのことかもしれない。センパイの言いたいことが理解できていたから。

 そんな顔に、あたしは弱い。


「少し、考えさせてください」


 コウハイは言った。目の前のものを指差す。


「それ、センパイに似合ってるかも」


 彼女の表情が変わった。そんな顔にも、弱い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ケッコンツリワ 吉水ガリ @mizu0044

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ