令和神仙記

佐藤万象

プロローグ

 谷川岳。標高一九七七メートル、群馬県と新潟県の県境の三国山脈に属する、日本百名山のひとつである。この山は標高が二千メートルにも満たないのだが、急峻な岩壁と複雑な地形に加え中央分水嶺との関係もあって、天候の変化も激しく遭難者の数も群を抜いて多いという。

 一般的なルートでは天神尾根を通るコースが、ほとんど危険な個所がないために、もっとも遭難者が少ないといわれている。反対に遭難者が一番多いのは、一ノ倉沢を経由しての岸壁からの登頂で、一九三一年から開始された統計によると、二〇一二年までに八〇五名の死者が出ているという記録が残っている。

 これは各国の八千メートル級の高峰十四座の遭難死者数が、六三七名であることをみてもわかるように、この飛び抜けた数字は日本のみならず「世界のワースト記録」として、ギネス世界記録にも記載されている。

 その谷川岳に、一ノ倉沢口から登頂しようとしている若者がいた。時は令和元年十二月三十一日、午後三時頃から登頂を開始してから、天候の崩れもなく順調なクライミングを続けていた。一ノ倉沢からの登頂は急勾配や断崖絶壁も多く、もっとも難攻不落なコースのひとつとされていた。

だが、この男は違っていた。彼の名は上山昇太郎という、名前からして登山とは切っても切り離せないよう名なのであった。しかし、そんな彼が何故こんな師走の大晦日に、しかもたったひとりで谷川岳に登頂しようとしたかについては、ちゃんとした彼なりの大義名分があったからだ。

 彼が登山を始めたのは大学に入って、山岳部に所属してからだから、かれこれ七・八年が経過している。そんな根っからの山男である昇太郎は、彼をよく知る人びとから質問されることがあった。

「お前はいつでも必死になって、山登りをしているようだけど、いったい何が面白くてそんなに山登りばかりしているんだい?」

 すると、彼はいつも決まってこう言うのだった。

「何がって、誰の力も借りないで自分だけの力で頂点に達した時の、何とも言えない爽快感が素晴らしいからさ。きみにもぜひ薦めたいね」

 と、いうような訳で、これまでも何回か登頂している谷川岳に来ていた。そんな中で、この年の四月三十日を以って平成天皇が退位され、翌五月一日に第一皇子である徳仁親王が即位され、元号も「令和」と改元されたのだった。

 そこで彼が考えたのは、新しい年の元日に谷川岳の頂上に立って、初日の出を眺めることが出来たらどんなに素晴らしいだろうかと。

 彼はしばらくの間そんな思いに取りつかれて、同じ山岳部の仲間たちを誘って回った。しかし、仲間たちの反応は意外と冷たいものだった。

「俺はイヤだね。せっかくの正月休みじゃねえか。郷里にでも帰ってゆっくりと過ごしたいし、ひさしぶりに友達とも逢いたいから行かねえよ。そんなに行きたければ、お前ひとりで行けばいいだろう」

 と、いうのが、大半の仲間たちの反応だった。

「くそ、なんて根性のない奴らばかりなんだ。こうなったら意地でも俺ひとりで登ってやる…。いまに見ていろよ」

 こうして、ひとり着々と準備を続けてきての今日であったのだ。

 午後十時を回った頃には、谷川岳もどうにか八割方を登りつめていた。

「よし、ここまで来れば、まずはひと安心だ。ここら辺りでひと息入れるか…」

 彼は独り言のようにつぶやくと、新たにハーケンを岩盤に打ち込むと、カタビラを掛けてザイルを固定した。上を見上げると半月に近い月が、中点よりやや西に傾きかけていた。山の天気は変わりやすいというが、今日は雪がチラつくこともなくコンデションとしてはまずまずの日和だった。

 彼は上着のポケットをまさぐると、煙草を一本取り出し口に咥えるとターボライターで火をつけた。この内部燃焼型のターボライターは、特に風に強く野外の風の強い場所でも、高速でガスを噴出して着火させるために、一度着火した炎は指を離さない限りまったく消えることはない。

 昇太郎は吸い込んだ煙草を一気に吐き出すと、煙は瞬時にして視界からかき消されて行った。こうして束の間の休憩を取ってから、彼は再びほとんど垂直に近い壁面を頂点を目指して登り始めて行った。

 それから五時間ほどが過ぎただろうか、上を見上げるとようやく頂点も間近に迫っていることがわかった。月も西の山並みに沈もうとしている時刻だった。

『頑張れ昇太郎…、もう少しの辛抱だ。もうすぐ頂上だぞ…』

 上山昇太郎は、そう自分を励ましながら登り続けて、そしてついに谷川岳の頂上に到達することが出来たのだった。

「ついにやったぞー。ついに俺は、たったひとりの力で谷川岳の頂上に立ったぞー。バンザーイ、バンザーイ…」

 上山昇太郎の叫び声は山々に木霊して、四方八方から彼のもとへと帰ってきた。夜明けまでには、まだ幾分の余裕がありそうだった。

 昇太郎は適当な岩を見つけて腰を下ろした。しばらく時間が経って、ここまで全力を尽くして登ってきたせいか、全身にかいた汗が急激に冷え込み体中に悪寒が走った。一日のうちで、いまの時間帯がもっとも冷え込む時間帯でもあった。

 昇太郎は寒さで全身の震えが止まらず、奥歯がガチガチと音を立てるのをどうすることも出なかった。震えながらも東の空がうっすらと白んでくるのが見えてきた。

「よ、夜明けだ…。つ、つ、ついに夜が明けるぞ……」

 震えが止まらないまま、昇太郎はそれだけつぶやくのがやっとだった。見る見るうちに東の空が明るくなり、やがて令和二年の元日の初日が登り始めた。ゆっくりと立ち上がって、昇太郎は初日に向かって両手を合わせた。体の震えは未だに止まらないままだったが、やっとここまで辿り着いたという安堵感と、いままで一度も味わったことのない従属感とが彼の全身に漲っていた。

 遠く遥かな山々の地平から登った令和二年の太陽は、周辺の山並みを明々と照らしながらゆっくりと登り切った。

 昇太郎は震えの止まらない手で、もう一度両手を合わせ初日を拝した。

「さて、こう寒くちゃたまらないや。早く宿に戻ってひと風呂浴びて、有ったかいお雑煮でも頂くか…。よし、下りよう…」

ザイルを止めてあるハーケンを確認してから、昇太郎はゆっくりと降りる準備を始めた。絶壁の岩肌に掴まりながら最初の足場の確認にはいった。岩はがっしりとしていて、昇太郎の体重を預けても動じないほどしっかりとしていた。

「よし、これなら大丈夫だ。さあ、下りよう…」

 次の左足を下ろした岩も、昇太郎の全体重を支えてくれた。そして、三段目の岩に右足をかけた時だった。見た目にはガッチリとした岩に見えたが、昇太郎が体重をかけた途端にザクッという鈍い音とともに、昇太郎の体重が掛ったまま崩れ落ちて行った。バランスを失った昇太郎もそのまま落下したが、

『ザイルは切れっこないし、ハーケンはしっかりうちこんであるから、抜け落ちる心配はないぞ。あとは何とかして這い上がる工夫をすればいいさ…』

 などと考えてはいたが、そもそもその考えが甘かった。

 昇太郎の体重に落下する速度が加わり、その落差スピードのほうが遥かに大きく最初のハーケンは、昇太郎の体重と落差速度に耐え切れず、無残にも見事に弾けて飛び散った。さらにスピードが加わって二番三番と続けざまに、ハーケンは無情にも岩盤から弾け飛んで行った。

「うわぁー、もう、ダメだぁ…。オレは死ぬんだぁ…。もう助からないんだ……。うわぁぁ………」

 わずか数秒間の時間だったが、昇太郎にはそれが数十分にも数時間にも感じられた。そして、数秒後。鈍い音とともに昇太郎の意識は途絶えた。

 それから、どれくらい経ったのか定かではないが、やがて、ゆっくりと昇太郎の意識は戻ったようだった。昇太郎は静かに眼を開いた。

「あれ、生きるのか…。オレはてっきり死んだかと思ったのに、助かったかぁ…。あれ、でも、何だかおかしいぞ。さっきまで月とか星が出ていたのに、なんでこんなに真っ暗なんだ……」

 空を仰いでみたが、星どころかまるで墨汁を流し込んだような、暗黒な領域が昇太郎の眼前を覆っていた。眼を見開いてよく見ようとしても、鼻を摘まれても分からないほどの完ぺきな闇だった。

 こんなところに、いつまでもいるわけにはいかないと思い、昇太郎は右手を動かそうとした。だが、動かそうとした右腕の感覚がまるでないことに気づいた。いや、動かそうとしても、それは右腕ばかりのことではなく体全体としても、まるで感覚を感じ取ることが出来なかった。いまの昇太郎はもはや肉体を離脱した、魂のような存在になっていたのかも知れなかった。

 その時、昇太郎の傍らの闇の一部がボーッと霞んだように見えた。それはゆっくりと白い霧状のようなのに形を変え、徐々に黄金色を帯びたかと思うと最終的には、金色に光り輝くひと形となって変貌を終えた。

 そのものは、音もなく昇太郎に近づいてきた。傍まで近寄ってきても強い光を放っているために、ひとの形態を取ってはいるものの、全体像としての輪郭はどうしても認識することはできなかった。

 すると、そのものは昇太郎のすぐ側までくると、ピタリと静止すると昇太郎の心に響き渡るような声でこう訊ねた。いや、正確に言えば、それは声ではなく昇太郎の心に直接伝わってくる、そのものの想念だったかも知れなかった。

『そなたは大山昇太郎ですね』

 そのものは女の声で尋ねてきた。

「そ、そうですけど、どうしてぼくの名前を…、あなたは一体どなたなのですか…」

 昇太郎はもはや何も考えられなかった。

『わらわは、この仙境に棲むソーラ・マラダーニアと申すもの、そなたが落ちるのを見て下りてまいりました』

「ぼくはどうなったのでしょうか。さっき腕を動かそうとしても、手も足もまったく感覚がないんです。ぼくは一体どうなってしまったんでしょうか…」

『さよう、これは忌々しき事態なれば、そなたたちの言の葉を借りて申すならば、そなたはすでに生命を絶たれております。おお、なんという、誠に忌々しきことじゃ…。そなたは、それに気づいてもおらぬとは…』

「そうすると、ぼくは死んでしまったということですか…。あの高さから落下したのなら、万が一にも生きているわけがないか……」

『ひとつお尋ねいたしますれば、そなたはさほど驚かれた様子もなく、自らの死を疑う余地もなく受け止めし、純然たる振る舞いには殆幾(ほとほと)感服いたしました。それにしても、わらわの容姿を見てもいささかも動ぜぬとは、ますますもって見上げたもの…。このままにしても置けますまい。何とかせねばなりませぬ…』

「そ、それじゃ、ソーラさんとかおっしゃいましたね。あなたはぼくを生き返らせてくれるんですか…」

『それは、一度死んだものを黄泉がえらせるなどと云うことは、いくらわらわとて叶わぬことじゃ…』

「それじゃ、やっぱりぼくはこのままここで白骨化して、人知れず朽ち果ててしまうのでしょうか…」

『まだ、わらわは何も申しあげてはおりませぬ。それ故に如何にして、そなたはそのような先走った考えを抱くのでありましょうか』

「だって、ぼくは現にこうして自分の死を認めているじゃありませんか。恐らくぼくの頭蓋も内臓も、グシャグシャに砕けて飛び散っているのに違いありません。魂だけが取り残されて、こうして現在に至っているのだと思います…」

『ほほほほ…、さすがにわらわがお見受けしたとおりの聡明なお方のようですね。そなたは、まさしくこの日のために選ばれた存在なのでありましょう』

「何を云っているのか、ぼくは何のことやらさっぱり解かりませんが、とにかく、ぼくが死んだことには違いないということですね。それに、あなたはどうしてそんなに光り輝いているんですか…」

『誠にごもっともな質問ですこと…、これはわらわたちが仙境より人界に降りた時に起こる現象で、さほど珍しいとも思いませぬが…、もう間もなく消えて失せることでありましょう』

「さっきから聞いていると、仙境とか下りてきたとか云っていますけど、その仙境というのは一体何のことなんですか…」

『これは失礼いたしました。それではご説明を致さねばなりませぬ。

仙境とは、そなたたちの言の葉を借りれば、神またそれに準ずる神仙の棲みいしところ、天空高きところに在りて人界からは、見ることも触れることも出きない場所ということになりましょう』

「え、それじゃ、あなたは神さまなのですか…」

『いいえ、それは違います。それに、そのような大それたことを云われては、わらわが困ります。神とは唯一無二の存在。わらわどもよりも、より高い天におわしに遊ばされます。されど、わらわどもとて神に準ずる存在なれば、そなたをこのまま見過ごすわけにはまいりませぬ。それに本日は、地球が太陽の周りを一周して、またもとの位置に戻ってきたという、たいへん目出たき日でもありますゆえ、何とか致さねばならぬとは思ってはおりました…』

「そ、それじゃ、ぼくを生き返らせてもらえるんですか…。ソーラさん」

『それは、わらわにも到底叶えられぬこと、たとえわらわが神仙とはいえども一度生命を失いしものを、いま一度黄泉返らせることなど、神をも恐れぬ所業ではありませぬか。しかして、このままにしておくのも忍びなきことゆえ、生き返られることは叶いませぬが、仮の生命を与えてあげることは可能かと思われます。

 但し、仮の生命とは申せども、そなたはその段階にてすでに人間にはあらず、わらわたち神仙の一族に属することになり、時を超えて困っている人びとを助けなければなりませぬ。それでもよろしいのですね』

「時を超えてって…、そんな力はぼくにはありませんよ…。ソーラさん」

『その心配には及びませぬ。わらわが、そなたに仮の生命を与えるのと同時に、「翔時解」と申す法力を伝授いたしますゆえ、それを用いればどのような時代にも瞬時にして行けるのです、さあ、これからそなたはどこでもよい、自分の好きな時代に翔んで困っている人びとを助けなさい。これはわらわからそなたに与える最初の試練と思いなさい。さあ、お往きなさい。自分の好きな時代へ…』

「あ、ちょっと待ってください。ソーラさん、ぼくが往く前に本当のあなたの姿を見せていただけませんか…。まだ輝きが止まらないので、眩しくて完全には見えないんですけど…」

『これはわらわとしたことが、たいへん失礼をば致ししました。未だ下界光が消えていないとは、まったく解かりませんでした。重ね重ね失礼をば致しました。直ちに解きますれば少々お待ちくだされませ…』

 ソーラはくるりと一回転したかと見るや、たちまち羽衣伝説に出てくるような天女の姿に代わっていた。

「あ、それがソーラさんの本当の姿なのですか…。まるで、子供の頃に絵本で読んだ天女さまみたいだ…。何という美しさだ……」

 昇太郎はうっとりとして天女姿のソーラに見とれていた。

『そなたはわらわの、この姿になにか不服でもお持ちなのですか…』

「いえ、とんでもありません。あまりにも美しすぎて、ただ見とれていただけです」

『ほほほ、それは何よりでござりました』

 ソーラは満足そうに微笑んだ。

『さあ、これからそなたはどちらに往くかは存じませぬが、出かける前に仙境にてゆっくりとお休みになられてからお出でなさりませ、わらわがいい夢を見させて差し上げましょうほどに、さあ、参りましょうぞ』

「その前に、ひとつお尋ねしてもいいですか…」

『どのようなことでござりましょう。何なりとお聞きくだされませ』

「あなたたちの棲んでいる、仙境とはどのようなところなんですか…」

『ほほほほ、よほど気になると見えますのね。昇太郎どのは…』

「それはそうですよ。何しろ、初めて往くところですから…」

『仙境というところは、人界のように戦いとか人を殺めることとか、それらすべての醜い事柄から一切解放された、人界でいうところの天国よりもさらに穏やかな、ひと言で云い表すことなどできないほど、素晴らしいところでございますゆえ、どうぞ、楽しみにしていてくださりませ。

 それから、昇太郎どの。そなたはもはや神仙の一族になられた身ゆえ、口から言の葉を発することはお控え遊ばされては如何かと存じます』

「え、じゃあ、ぼくもソーラさんのように、相手の心に直接言葉を伝えることができるのですか…」

『はい、そのとおりです。これはわらわたちの法力で内言法と申します。これを用うれば人のみにあらず、いかなる動物とでも心を通じ合うことができましょう』

「でも、どうやったら、自分の思いを相手に伝えられるのか、ぼくにはまったく解かりません…」

『造作もないことです。相手に伝えたい自らの想い考えていることを、心の中で強く念ずれば、それだけでいいのです。ただ、それだけのことなのです。さあ、昇太郎どのもわらわに向けて、念を送って戴ければわかると存じます』

「果たして、ぼくにできるのかなぁ…」

 昇太郎は、そういうと眼を閉じてソーラに向けて、自分の想いを必死に送り続けた。

『ソーラさんは、なんという素晴らしく綺麗なひとなんだろう…。まるで女神さまのようだ…。きっと世界中で一番美しい方なのだろう……』

 すると、昇太郎の念を感じとったソーラは、思わずその輝くような頬や耳まで真っ赤に染めた。

『し、昇太郎どの……、そのような念を送られては、わらわは…、わらわは……』

 いまにも消え入りそうな表情で、ますます止まるところを知らぬほど、その頬の朱の色は強まっていった。

『もう、いいでしょう。ソーラさん、ぼくをその仙境とやらに連れて行ってください。さあ、往きましょう…』

 こうして、ソーラは昇太郎を連れて天空高く舞い上がって行った。


     1


 しばらく飛んだ後、遠くの空を指してソーラはいった。

『ほら、見えてきましたぞ。昇太郎どの。あれに見えますのは、わらわたちの棲む神仙境にございまする』

 ソーラの指さすほうを見ると、はるか天空高いところに霞みのような雲が浮いていた。昇太郎たちが近づくにつれて、雲のように見えていたものは、たちまちのうちに巨大な陸地へと変貌を遂げて行った。

『うわぁ、これは凄いや……。でも、どうしてこんなに大きなものなのに、飛行機とか人工衛星からは見つけられないのかい…』

『先にもご説明して差し上げたではございませんか。ここや、わらわたちの姿は人界からは認識できないことを、もうお忘れなられたのでありましょうや』

『そうだったか…。あんまりいろいろなことがあり過ぎて、何がなんだかわからなくなって忘れてしまったよ…』

『また、それもやむを得なきことかと存じますが、昇太郎どの。そなたはもはや神仙の一族に連なる身、昇太郎どの。もうすこし自覚をお持ちにならなくてはなりませぬ』

『はい、はい。わかりましたよ。ソーラさん』

『はいは、一回でよろしいかと存じます。昇太郎どの』

『はい、わかりました』

『それで、よろしゅうございますわ』

 そんな痴話ごとのような話をしながら、ふたりはゆっくりと神仙境へ降り立った。

 神仙境は、昇太郎が想像していた世界とは違って、古い琉球や中国のような建物が立ち並ぶ、見るからに古びた街並みだった。

『へえ…、ここが神仙境か……。ぼくはもっと煌(きらび)びやかな街だと思っていたけど、わりとひっそりとした街なんですね。ソーラさん』

『そうでしょうか…。ここは古(いにし)えより続いております街でもありますゆえ、それも致しかたのなきことなのでございます』

 ソーラは昇太郎を連れて歩き出した。

『これから、そなたのことを神仙大師さまのところへお連れして、お目通りを願わなくてはなりませぬ』

『え、神仙大師さま…って、誰…、初めて訊く名前だけど……』

『はい、神仙大師さまと申しますのは、この神仙境におかれましても、壮大なお力をお持ちの方であらせられます。大師さまは神仙境はもとより人間界に及ぶまで、すべてお見通しという偉大なお方でございますれば、そなたも神仙の一族に身を委ねたる上は、ぜひともお目通りの上ご挨拶と、ご報告を致さねばなりませぬ』

『ふーん、そんなに偉いひとなのか…』

『さようでございますよ。もっとも、神仙大師さまのことゆえ、ご報告をいたす前にすべてお察ししているかとも思われますれば…』

 そうこうしている間に、天にも届かんと思えるほどの大きな屋敷が見えてきた。

¬『ほら、ここでございます。昇太郎どの、さあ、こちらからお入りください』

 ソーラは門前まで行くと、門番と思(おぼ)しき者と二言三言話してから、昇太郎を連れて奥へと入って行った。

『やはり、わらわの思った通りでございました。神仙大師さまは昇太郎どのの来るのを、いまや遅しとお待ち兼ねとのことでございました』

『でも、凄い方なのですね。何からなにまですべてお見通しだなんて、やっぱり神仙大師さまって神仙一族の頂点に立たれる方は、ぼくなんかに云わせてもらえば、ただただ「凄い」のひと言しか云いようがありませんよ…』

昇太郎の初めて見る神仙大師の屋敷は、通路も広く敷き詰められた絨毯(じゅうたん)には、色とりどりの宝石がビッシリと散りばめられていた。それは通路だけに止まらず、壁面や天井にまで及ぶ壮大なものでもあった。珍しい宝石に見とれて昇太郎は、あちらこちらと見渡していたが、ソーラはある一角までくると突然足を止めた。

『こちらのほうで、お待ちくださいとのことでした。どうぞ、こちらへ…』

 と、いうとソーラは壁に向かって進むと、ソーラの姿は壁に溶け込むように見えなくなった。昭太郎もおなじように壁に向かって歩いて行った。

 すると、次の瞬間には神々しいばかりの光に包まれた、広大な広間のようなところに立っていた。

『ここは一体どこですか。ソーラさん…』

『昇太郎どの、ここは「栄光の大広間」と申しまして、そなたのような方々だけが通されるところで、普段はわらわたちと云えども、滅多には入れぬところなのでござまする』

『そんな大それた場所に、ぼくなんかが入っても大丈夫なんですか…。ソーラさん』

『そなたは、いまや特別な存在になられた。ゆえに、この大広間に招じられたのです。ましてや、一月一日という一年に一度しかない、めでたき日に神仙の一族となられた身。それゆえにこそ、特別な計らいにより神仙大師さまが招じられたのです。このようなことは極めて稀なことなのです。それゆえ、そなたも心してお目通りをしなければなりませぬ』

 そんな話をしている時だった。

『これより、神仙大師さまのご出座……』

 と、いう、テレビの時代劇で「遠山の金さん」が白州に登場する時の、アナウンスのような声が響いてきた。

『いよいよ、いらっしゃったようです。さ、昇太郎どのも頭を低くして、大師さまのお出でをお待ちくださりませ』

 ソーラはひれ伏するように身を低くして、神仙大師が現れるのを待っていた。

『おお、待たせてしまったかのう…。ソーラ・マラダーニアよ、ずいぶんとひさしいのう…』

『恐れ入りまする。わらわのほうこそ、ご無沙汰を致しておりまする。神仙大師さま』

 ソーラはひれ伏したままで答えた。

『さて、その方(ほう)が此度(こたび)われらが神仙の一族に加わりし、大山昇太郎と申す者かの。遠慮はいらぬぞ。面(おもて)を上げなされ』

 昇太郎は恐る恐る顔を上げて、神仙大師と呼ばれている、ソーラたち神仙の長ともいうべき、老神仙の姿は白く淡い光を放っているように見えた。

その容姿はと言えば、白い薄絹の衣を身にまとい、白髪の長い髪を腰の辺りまで垂らし、真っ白な髭も胸下まで伸ばしていた。口元は髭に覆われていて、ものをいう時に髭の合間より微かに覗く程度なのだが、その目は眼光鋭くして、すべてのものを見通すほどの厳しさと、測り知れないほどの慈愛に満ちた温かさも感じられた。

『神仙大師さま。初めてお目にかかります。ぼくは大山昇太郎と申します。どうぞ、よろしくお願いいたします』

『うむ…。その方は、なかなかの面構えをしておるようだな。それは実に良いとじゃ、昇太郎』

 昇太郎を見下ろしながら、神仙大師は満足そうに頷いた。

『時に、昇太郎。その方は坂本龍馬という名は、知っておるであろう』

『はい、知っていますが…、それが何か…』

『知っておればよろしい。それと斉天大聖という名も知っておろうな』

『知っていますとも、斉天大聖・孫悟空のことですよね。神仙大師さま』

『おお、よく知っておるな。その方はまだ若いのに見上げたものじゃ』

『それは知っていますとも、坂本龍馬と云えば歴史上の人物で、明治維新寸前のところで何者かによって暗殺された人ですし、孫悟空と云ったら西遊記でしょう。その西遊記は、世界四大奇書のひとつに数えられる、超有名な物語じゃないですか。日本人なら九十九パーセントのひとが知っていますよ』

『それでは尋ねるが、その方はいま西遊記のことを世界四大奇書とか申したが、あれは作り話ではない。と、申したらいかがいたす気かな』

『えー、だって、大師さま。あれは完全フィクションの創作ですよ。実際に牛魔王とか金角や銀角、それに羅刹女がいたなんていう話は、見たことも聞いたこともありませんよ』

『それでは聞くが、その方の云う西遊記の中に登場する、三蔵玄奘は実在の人物なのだぞ。この現状はどう解釈する気かの。昇太郎』

『そのように云われましても、ぼくはいまのいままで、西遊記は創作だとばかり思っていましたので、大師さまに反論するつもりはありません…』

『なかなか潔い態度だのう、昇太郎。ところで、その方は坂本龍馬のことはどのように考えておるのかの』

『その前に、大師さま。ひとつだけ教えていただいて、よろしいでしょうか…』

 昇太郎は、戸惑うような素振りを見せて、神仙大師に訊ねた。

『なんじゃ、どのようなことかの…』

『はい、神仙大師さまは先ほどから、坂本龍馬や孫悟空のことばかりおっしゃっておられますが、坂本龍馬と孫悟空とは、どういう関係がおありなのでしょうか…』

『おお、それじゃ、それじゃ。わしも少しばかり歳をとり過ぎたかの…。

 実はの、昇太郎。坂本龍馬をあのままにして置くのは、どうにももったいないと、わしは前々から考えてったのじゃが、いかんせん神仙境も手不足でな。いままで延び延びになっておったのじゃが、そこでどうじゃろうの、昇太郎。その方がこれからすぐにと云わぬが、慶応三年十一月十五日の京都近江屋まで翔(と)んで、坂本龍馬をこの神仙境まで連れてくるのじゃ。すでにソーラより翔時解は伝授されたであろう』

『はい、それは判りますけど、坂本龍馬を神仙境に連れてくると云うことは、もしかして龍馬を生き返らせるということですか。大師さま』

『いや、いくら神仙とは云えども、それはやってはならぬことなのじゃ。人間にはそれぞれ持って生まれた寿命というか、運命というものが定められているからの。

 それに、もし龍馬を生き返らせとしたら、人間界の歴史そのものが変わってしまうのじゃよ。そのようなことはあってならぬことなのじゃ』

『それではどうして、坂本龍馬をこの仙境に連れてこいと、おっしゃられるのでしょうか…』

『うむ、それはの、昇太郎。わしは龍馬のあの類い稀なる才覚、時代を超えて未来をも見通すような、あの感覚が実に惜しいと思うてのこと、それ故に仙境に招じてわれらが神仙の一族に加えたいと思うたまでのことじゃ』

『しかし、大師さま。ぼくは慶応三年の京都も近江屋も分かりません。そりゃあ、坂本龍馬は写真も残っているし、有名だから分かりますよ。たけど、京都ですよね。しかも幕末の慶応三年じゃ…、まったく自信ありません…』

『心配いたすな。昇太郎、その方ひとりで往けとは申しておらぬ。ソーラ、そなたが一緒について往ってやるがよいぞ』

 それまでかしこまっていたソーラも、突然の神仙大師の言葉に一瞬驚いたように、

『はい、かしこまりましてございまする。大師さま』

 と、再び、ひれ伏するようにして言った。

『良いか、昇太郎。分かっているとは思うか、決して龍馬の生命を救ってはならぬぞ。一度決定された事象は何としても変えてはならぬのじゃ。良いな、昇太郎。

 それから、その方には孫悟空ではないが、斉天大使という称号を遣(つか)わそう。

 それと、どんな物にでも姿の買えられる、「万華変」という力を授けて遣わそうほどに、心して往って参るがよいぞ』

 昇太郎とソーラに言い渡すと、神仙大師は何処へともなく姿を消し去った。

『斉天大使…か、何だかこう、照れくさいんだよな…。フフフ…』

『とんでもございませぬ。昇太郎さま。斉天大使さまともなりますれば、もはやわらわどもなど足元にも及ばぬ存在。なにとぞ、いままでのご無礼の数々、平に平にご容赦のほどをお願いいたしまする』

『え、何を云っているんですか、ソーラさん。無礼だなんて、そんなことはないですよ。それに助けてもらったのは、ぼくのほうなんだし、そんなに謝られても困りますよ。そんなことより、慶応三年十一月十五日の京にはいつ往きますか。これからすぐ出かけるんですか。それとも…』

『いいえ、そのように急ぐ必要はございませぬ。昇太郎さまは何かとお疲れのご様子ゆえ、今晩はごゆるりとお休みくだされませ。ほれ、先にいい夢を見させて差し上げますと、お約束をいたしたではございませぬか。ほほほ、さあ、参りましょうか、昇太郎さま』

 こうして、ソーラは昇太郎を連れて自らの館へと案内して行った。

『昇太郎さま。ここがわらわの館にございますれば、どうぞ、遠慮なくお上がりくださりませ』

 ソーラの館も、神仙大師の屋敷ほどではないが、豪華な館であり門番もふたりほど立っていた。ソーラは門番のひとりに、何ごとかを云いつけると館の中へ入った。

『ささ、こちらでございますれば、あちらの奥のほうにお出でください。これ、そこの者。こちらの斉天大使さまを、奥のお部屋まで案内を頼みますぞ』

 ソーラは近くにいた、まだ歳の若い娘を呼び止めると、何ごとかを耳打ちした。

『昇太郎さま。この娘がに案内させますゆえ、どうぞごゆるりとお寛(くつろ)ぎください。わらわも後ほどお伺いいたしますゆえ、どうぞよしなに…。

 これ、ソラシネ。こちらの斉天大使さまに、くれぐれも粗相のないようにお仕えするのですよ。昇太郎さま、わらわはこれにてお暇(いとま)をいたしますれば、それでは、また後ほど…』

 昇太郎とソラシネを残し、ソーラは何処へともなく立ち去って行った。

『こちらでございます。どうぞ…、斉天大使さま』

 このソラシネと呼ばれた、若い天女は昇太郎の前をしずしずと歩いて行く。薄絹を纏(まと)った天女は衣を通して、しなやかな身体をそのまま彷彿とさせるような、幻影を昇太郎に抱かせたまま黙々と歩き続けた。

『ここでございます。斉天大使さま。どうぞ、お入りください』

 昇太郎が通されたのは、大きな食(テー)台(ブル)の上にはさまざまな食べ物や果物。それに、これまでに一度も見たこともないような、ありとあらゆる珍しい食物や、飲み物などで満たされていて、その周りには天女の使い女たちが、気忙しげに斉天大使・昇太郎を迎える準備に追われていた。

『うわぁ、みんな忙しそうだな…。よし、ぼくも手伝ってこようかな…』

『とんでもございません。そのようなことをさましては、わたくしがソーラさまよりお

叱りを受けてしまいます。なにとぞ、お止めくださいませ。大使さま』

 そのうちひとりの使い女がやって来た。

『たいへんお待たせをいたしました。ようやく準備のほうも整いましたので、なにとぞお席のほうにお着きくださいませ。もう、間もなくソーラさまもお見えになりますゆえ…』

 昇太郎が席に着くと、使い女たちが次から次へと彼のもとへ、珍しい料理が運ばれてきた。あまりに多くの料理を運んでくるので、昇太郎の食台の前は見るみる食べ物で溢れ返っていった。

『さあ、斉天大使さま。まずは食前酒などをお召し上がりくださいませ』

 ソラシネは、現代のワイングラスのようなものを、昇太郎に手渡すとギヤマンでできた酒壺から、黄金色に輝く液体をなみなみと注いでくれた。

『うわ、こんなにいっぱい注いで…。でも、こんなに飲めるかなぁ…。ぼくあんまり酒強くないし…』

 それでも、昇太郎は注いでもらった酒をひと口飲んだ。

『うまい、これ何という酒ですか。ソラシネさん』

『はい、それは「天馬の涙」という酒でございます。大使さま』

『天馬の涙…。天馬というのは、あのギリシャ神話に出てくる、ペガサスとかユニコーンのことですよね。ソラシネさん』

 グラスを食台に置きながら訊いた。

『はい、天帝さまのお乗りになられる、羽根の生えた真っ白な馬とか訊き及んでおりまするが…』

『へえー、天馬の涙か…。それじゃ、うまいわけだ……』

 昇太郎とソラシネが話をしているとこへ、大きな虹色に光輝く酒壺を抱えたソーラが入ってきた。

『斉天大使さま。長らくお待たせをいたしまして、まことに申しわけございません。

 わらわは、これなるものを探し求めておりまして、つい長引いておりました。平にお許しのほどをお願いいたしまする』

 と、詫びを入れながら虹色の酒壺を、昇太郎の食台の前に置いた。

『何ですか。これは…、ソーラさん』

『はい、これなる酒は「霞の雫」と申しまして、神仙境の霞を吸い集めまして造り上げし酒。これをぜひとも、斉天大使さまにお飲みいただきたくて、探し求めてまいりまいりました。これ、そこな者。早う杯(グラス)をお持ちいたさぬか』

 ソーラが近くにいた使い女に言いつけた。

『さあ、斉天大使さま。これをお飲みになって、ごゆるりとお休みください。さすれば、大使さまは極上この上もない、良い夢をご覧になられることでありましょう。さあ、どうぞお飲みくださいませ』

 ソーラは虹色の酒壺を取ると、使い女が新たに持ってきた杯に注ぐと、優雅な手つきで昇太郎に渡した。手渡された杯を見ると、淡い緑色をした液体が半分ほど注がれていた。

『この霞の雫っていうのは、一体どういうお酒なんですか…。ソーラさん』

『はい。ですから、この酒をお飲みになられますと、斉天大使さまに極上の夢をお届けできるかと思われますので、ひと口なりとお召し上がりくださいませ』

 昇太郎はひと口だけ飲むと、

『うまい…』

 と言うと、残りの酒を一気に飲み干してしまった。

『もう一杯いかがですか。大使さま』

ソラシネが、また昇太郎の杯に注いでくれた。昇太郎は、それも一気に飲み干すと、急に眠気を催したのか椅子の背もたれに倒れ掛かった。

『大使さま。だいじょうぶでございますか』

ソラシネの問いかけにも、

『大丈夫だけど…、何だか眠くなってきた……』

と、言ったきり、椅子にもたれたまま眠り込んでしまった。

『ソラシネ。斉天大使さまはお休みあそばされました。さあ、これからがわらわたちの出番でありますゆえ、早うに斉天大使さまを寝台にお運びしなさい』

 すると、使い女たちが大勢集まってきて、昇太郎の身体を包み込むようにして抱え上げると、そのまま寝室のほうへと運んで行った。

『さあ、わらわたちもまいりましょうか。ソラシネ』

 ソーラとソラシネも、昇太郎が運ばれた寝室へと向かって行った。

 その頃、昇太郎は深い眠りについて夢を見ていたが、それが夢であることを昇太郎自身にも解るのが不思議だった。

 とにかく、何もない空間に浮かんでいる夢だった。何をしようとしているのかさえ分からず、ひとりでただ呆然と浮かんでいるだけで、これから何をしようとしているのか、何処へ行こうとしているのかさえ分からず、何も可もが霧の中に溶け込んでしまったような夢だった。

「そうだ。ソーラさんに『霞の雫』という酒を飲まされて、そのまま眠ってしまったからこんな夢を見ているんだな。きっと、それにしても、ちっとも面白くもなんともないじゃないか…。『いい夢を見させてあげますから』なんて云ったのに…」

 昇太郎は、そんなことを思い出しながら、ただ呆然と浮かんでいるだけだったが、下のほうを眺めていると、突然ソーラとソラシネが浮かび上がってくるのが見えた。

『あ、ソーラさんとソラシネさん。やっぱり来てくれたんですね。よかった……』

『大変、お待たせをいたしまして、申しわけもござりませぬ。約束どおりに斉天大使さまは、いま現場すでに夢の中におられます。そして、これよりわらわとソラシネで、さらに素晴らしい夢をご覧になって頂きますれば、ごゆるりとご堪能くださりませ』

 羽衣をまとった天女姿のソーラとソラシネは、昇太郎の目の前で天女の舞とでもいうべき踊りを舞い始めた。じつに優雅で華やかなうっとりするような舞いであった。

 見事なまでのふたりの舞いに、昇太郎はただ呆然と見とれていた。そのうちソーラが、自分の着衣に巻いている腰ひもを解き始めて、それをソーラが手から離すと薄絹の帯は、きらびやかな蝶のように舞い落ちて行った。続いてソラシネも同じように薄絹を解くと手を離し、手から放れた薄絹も陽炎が揺らぐようにヒラヒラと舞い落ちて行った。

『さあ、ここからが真(まこと)の夢にございまする。斉天大使さま』

 と、いうよりも早くソーラは、自ら身に着けていた薄絹の天女の衣を、すべて脱ぎ去ると一糸まとわぬ神々しい裸身を露わにしていた。

『何をなさるんですか…。ソーラさん』

 昇太郎は少しうろたえながら叫んだ。

『さあ、ソラシネ。そなたも身に着けているものは、すべて脱ぎ去るのです』

『はい、かしこまりました。ソーラさま』

 ソラシネもソーラと同じように、自分の着けていた衣を一気に脱ぎ去ると、まだ幼さが残る可愛らしい胸を晒していた。

『や、止めてください…。ふたりとも、何をなさるのですか……』

 昇太郎の問いかけにも答えず、ソーラとソラシネは左右から昇太郎を抱え込むと、淡い雲の湧きあがる谷間へと消えて行った。

『うわぁ……』

 昇太郎の夢は、そこでピリオドが打たれた。

『如何でしたでしょうか。斉天大使さま。ただいまの夢には、ご満足頂けましたでしょうか』

 昇太郎がめをけると、ソーラとソラシネがニッコリと微笑んでいた。

『それじゃ、いまの夢はふたりが……』

『はい、お粗末さまでございました。それでは、斉天大使さまもゆっくりと、お休みになられたようでございますれば、これより直ちに慶応三年の京に旅立ちとう存じますが、よろしゅうございましょうや』

『いいよ。ぼくはいつでもOKさ』

『それでは出発をば致しましょう。ソラシネが、留守のほうは頼みましたぞ』

 こうして、昇太郎とソーラは坂本龍馬が暗殺されたという、慶応三年十一月十五日の京近江屋に向けて旅立って行った。


     2


 京の夜は墨を流し込んだよりも暗く、民家の灯かりが所々に見えてはいるが、二十一世紀の日本に暮していた昇太郎には、およそ想像もつかないほどの暗さだった。この時代の人々の大半は、夜明けとともに起きて日没とともに寝る。という、習慣のようなものがあったから、この時間帯に就寝するということ自体、さほど珍しいことでもなかったようだ。

 当時の京は昔から京の都と謳われ、天子(天皇)さまの住まわれる御所などもあり、江戸や浪花とはまた違う独特の風情があった。

 さて、神仙境から遥々(はるばる)この時代(慶応三年十一月十五日)に舞い降りてきた、昇太郎とソーラは坂本龍馬の暗殺現場である、近江屋へと向かっていた。道は雨が降ったのでもあろうか、ところどころに泥濘(ぬかるみ)ができていた。

『ほれ、ご覧くださりませ、昇太郎さま。あそこに見えますのが、近江屋かとも思われますが…』

『う、入り口の雨戸が倒されている。急いで行って見ましょう。ソーラさん。まだ、坂本龍馬の精神体が止まっていてくれればいいが……』

 倒れている雨戸を踏み越えて中に入ると、入り口の土間に人が倒れていた。

『あ、人が倒れていますよ。ソーラさん』

『その者は、この家の番頭か手代の者かと…。さあ、急いで二階へまいりましょう。昇太郎さま』

 階段を上ると龍馬のいる部屋は、戸が空けっぱなしにされており、倒れている龍馬と息も絶え絶えの中岡慎太郎がいた。そして、倒れている龍馬の傍らには青白きオーラを放つように、坂本龍馬の精神体が切られた自分の姿を、見下ろすようにして立っていた。

『龍馬さん…』

『坂本どの……』

昇太郎とソーラが同時に声をかけた。すると、龍馬はふたりの姿を見みて、うつろな眼差しでつぶやくように言った。

『何じゃあ、おんしらは…。わしゃあ、死んでしもうたんかいのう。

己れが目の前で切られている姿を見るちゅうのも、何だか妙な気持ちがするもんじゃのう…』

『坂本どの。わらわは神仙境よりまいりました、ソーラ・マラダーニアと申すもの。これにおわす方は、斉天大使大山昇太郎さまにございます。此度は神仙境の神仙大師さまの命により、坂本どのをお召しに上がりましてございまする』

『龍馬さん。初めまして、大山昇太郎と云います。よろしくお願いします。て、いうか。龍馬さんがあまりにも有名な方なんで、初めて逢ったような気がしないんですけどね。それにしても龍馬さんから出ている、その青いオーラは見事なものですね。さすがに神仙大師さまは見る眼が違いますよ。そうは思いませんか。ソーラさん』

『まことにお見事なオーラ、神仙境においてもこれほどのオーラはお見受けすることもありませぬ』

『一体、何なんじゃい、おんしらは…。その神仙境とか神仙大師とかちゅうもんは、何のことぜよ。わしには何のことやらさっぱり解からんぜよ』

『坂本どの。あなたさまは、たったいま人に切られてお果てなさいました。いまこうして、わらわたちとお話なされているのは、坂本龍馬どのの精神なのでございます』

『ん、精神体…。ああ、魂とか霊魂とかいうものかいのう。つまり、わしはやつらに切られて死んで、そして精神体に…、魂だけになってしまったという訳か。人が死ぬと魂は残るというがまっこと本当じゃったんじゃのう。ふーむ…。

 それにいま思い出したんじゃが、おまんらが云っている神仙境とやらのことも、だいぶ昔のことだが誰かに聞いたことがあるぜよ。なんでも、そこには偉い神さまとか、仙人さんが住んでいるという話じゃったがのう。おまんらもまっこと、その神仙境とやらからやって来たんかいのう…』

『そうですよ、龍馬さん。でも、ぼくは龍馬さんの生きていた時代より、百五十年くらい後の日本に生まれたんです。それで、ぼくは学生時代から山登りが好きで、十二月の大晦日に山に登って、令和二年という年の初日を拝んでいたんですが、山を下りようとして足をかけた岩が崩れてしまい、谷底へ真っ逆さまに落ちてしまったんです。

 気がついた時は、辺りは真っ暗な闇でした。ぼくは手を動かそうとしてみましたが、感覚もまったくなくて困っているところに、こちらのソーラさが来てくれて、ぼくのことを神仙境に連れて行ってくれたんです。

 そこで神仙大師さまから、斉天大使という称号をいただいて、大師さまの命により龍馬さんをお迎えにきました』

 昇太郎は自分の身に起ったことを、大筋ではあったが龍馬に語り終えた。しかし、龍馬はこの時昇太郎が語った、百五十年後という言葉を聞き洩らさなかった。

『何…、おまんは百五十年も先の時代に生きとったとか…。そ、それで、徳川は…、幕府はどうなったんじゃい』 

 龍馬は、そのことがよほど気になっていたと見えて、即座に昇太郎に問いただしてきた。

『大丈夫ですよ。龍馬さん。徳川幕府はなくなりましたから。龍馬さんも知っていると思いますが、いまからひと月ほど前に、徳川慶喜公が朝廷に大政奉還を行い、来年…、慶応四年には明治という新しい時代が始まるんです。ですから、龍馬さんも安心して、ぼくたちと一緒に神仙境に来てください』

『ほうか…、来年にはあの腐れ切った江戸幕府がなくなるのか…。だけんど、わしもその新しい世の中ちゅうもんを、一目なりとも見てみたかったもんじゃのう……』

坂本龍馬の精神体は、しみじみとした口調で言った。しかし、龍馬の眼には自分が見ず知らずの不逞(ふてい)の輩(やから)に切られて死んだという、無念さや悲愴感は微塵も見られなかった。

『さあ、そろそろ参りましょうか。坂本どの』

 ソーラが龍馬を促した。

『さあ、行きましょう。龍馬さん、神仙境へ』

 こうして三人の精神体は、瀕死の重傷を負っている中岡慎太郎を残したまま、京近江屋の二階の小部屋から、まだ夜明けまでにはほど遠い夜の空へと飛び立って行った。


『ほう…、ここが仙境というところかいのう…』

 神仙境に着くよりも早く、物珍しさにあちこち見回しながら龍馬が言った。

『だけんど、わしゃあ、神仙さんたちが住んでいるところじゃき、いまちいっと綺麗で賑やかなところかと思っとったぜよ。しっかし、神仙境には随分と美しか女子(おなご)がいっぱいいるもんじゃきに、わしゃあ、いまたまげて見とれておったところぜよ』

と、龍馬の見上げる空には天女の衣をまとった、若い神仙女たちが優雅な姿で飛び交っていた。

『そうでしょう、龍馬さん。ぼくも初めてソーラさんに連れてこられた時は、まったく龍馬さんと同じことを感じましたよ』

 昇太郎もつられて、神仙女たちが舞い飛んでいる空を見上げた。

『さあ、坂本どの。神仙境に着きましたれば、今宵はわらわの館にてごゆっくりお休みになられて、明日にでも神仙大師さまに、お目通りをして頂かねばなりませぬ。さあ、こちらのほうにお入りくださりませ』

『おう、まっこと、すまんのう…。ソーラどの。すっかり世話ばかけ申して…』

 神仙女たちの舞い姿に見とれていた、龍馬もにわかに我に返ったように、ソーラのほ向き返った。

ソーラが門番にひと声かけて館に入ると、奥の方からソラシネが駆け寄ってきた。

『お帰りなさいませ。ソーラさま』

『ソラシネ、坂本龍馬殿をお連れ申したゆえ、使い女たちに宴の用意をさせなさい』

『いいえ、ソーラさま、宴の準備はすっかり整っております。どうぞ、こちらのほうにお越しください。龍馬さま』

『おまんは、ソラシネさんというんかい…。神仙境ちゅうところは、まっこと美しか女子ばかりいるところじゃのう…』

『まあ、いやですわ。龍馬さまったら…、そんなことを云われたら、わたくし困ってしまいます……』

 ソラシネは、思わず頬を赤らめながらも、龍馬を宴の間へと案内して行った。

 宴の間に入るや否や、食台の上に盛られた数々の食物を見て、龍馬は思わず驚いたような顔をして叫んだ。

『こ、こげえな豪勢か喰い物ば見たのは、わしぁ、生まれて初めてじゃき……』

 使い女たちは龍馬の前に、次々と料理の入った器やら飲み物を運んできた。

『さあ、龍馬さま。どんどんお召し上がりください。本日は、ソーラさまより龍馬さまのお世話をするようにと、わたくしが仰せつかっておりますので、なにとぞよろしくお願いいたします』

『おう、そうか、そうか。時に、ソーラどのと昇太郎どのの姿が見えんようだが、どげんしたとか…』

『ええ、間もなく見えられると思いますので、まずはご酒などをお召し上がりください。それにお料理もございますので、ぞうぞ』

『ほうか。それじゃ、お先に頂くきに…。これはなかなか旨かもんぞね。これは何かの…』

 そんなことを話して、龍馬が酒を飲みながら料理を食べている頃、昇太郎とソーラは別の場所で、龍馬のことについて語り合っていた。

『昇太郎どのも見られたと存じまするが、龍馬どのが切られ時に立っておられた、龍馬どのの精神体から発しておられた、あの凄まじいばかりに青白く光り輝く、オーラをどのように見られましたか。昇太郎どのは…』

『確かに、もの凄いオーラだと感じました。ぼくもソーラさんのもただ白いだけなのに、これは普通の精神体ではないなと思いましたよ。さすがは、精神大師さまの見る眼は違うなと思いました。正直云って、龍馬さんの精神体は並みの精神体とは違うというのが、ぼくの率直な気持ちです』

『やはり昇太郎どのも、そのように思われまするか。わらわは龍馬どのの、あの青きオーラを見ましたる時には、落雷でもあったような衝撃が全身に走りました。あのお方は…、坂本龍馬どのの精神体はわらわどもなど、到底足元にも及ばぬほどの尊い存在なのでありましょう。それを精神大師さまはすでに見抜かれておられた。おお、なんという恐れ多いことじゃ…。お、お、お……』

 ソーラは、自分では考えても見なかった真実に気ついて、すっかり恐れおののいているようだった。

『でも、ソーラさんそんなに恐れいることはないと思いますよ。ぼくは…、それに龍馬さんだって、ぼくらと同じ精神体じゃありませんか。精神体に上下の隔たりがあるとは思いません。精神大師さまは、また特別な方だと思いますけどね。さあ、ソーラさんも元気を出して、また、あの慎ましやかな女性に戻ってくださいよ』

『昇太郎さま…、わらわは嬉しゅうございます…。わらわは、わらわは…』

『ソーラさん、ぼくも嬉しいですよ。精神太子じゃなくて、ひさしぶりに、ぼくの名を呼んでくれたから…』

『昇太郎さま。わらわは、あなたさまのお側に仕えて本当に嬉しゅうございます。これからはわらわのことは、ソーラとお呼びください』

『え…、また何で……』

『確かに、昇太郎さまのいう通りではございますが、あなたまは精神太子さま。わらわなどよりずっと高いところにおわすお方。それゆえに、わらわごとき者のことを、「ソーラさん」などとお呼びになるのはお止めくださりませ』

『だけど、上下関係があるのなんて、人間界だけで十分だと思うんだけどなぁ…。まあ、いいか。それじゃ、きみのことをこれからはざっくばらんにソーラと呼ぶけど、それでいいんだね』

『はい、ありがとうございます。わらわも嬉しゅうございます』

『あ、それから、その「わらわ」とか「どの」って云うのも、止めてくれないかなぁ…。何だか、時代劇をみたいで堅苦しくていけないんだよ』

『はい、分りました。いかようにもいたしますゆえ、よろしゅうお願いいたします』

『それ、それ。それがいけないんだと思うよ。今度、ぼくが話し方を教えて上げるからさ。さて、そろそろ龍馬さんのところに戻らなきゃ、いけないんじゃないの…』

『まあ、そうでしたわ。わたくしとしたことが如何いたしましょう』

『そう、それでいいんだよ。ソーラ』

 それから、昇太郎は急に現代語風になったソーラを従えて、龍馬とソラシネが待つ宴の間へと出向いて行った。

 一方、宴の間では酒も入って上機嫌の龍馬は、ソラシネを相手に唄ったり踊ったりの、どんちゃん騒ぎの大はしゃぎの真っ最中だった。

『ほうか。ソラシネ、まっことおまんは、うまいことば云いよるきに、わしゃあ、たまらんぜよ。ウワッハハハハ…』

『ほんとうなんですってば、龍馬さま…』

『また、また、またぁ。ほんにおまんは、面白か女子じゃのう。クックックッ…』

『だいぶ賑やかで楽しそうですね。龍馬さん』

 宴の間に入ってきた、昇太郎が声をかけた。

『おお、昇太郎さんか。いやぁ、このソラシネが、あんまり面白かことば云うもんじゃき、わしゃ、腹が痛うなってきたぜよ』

『何の話をしていたんですか。一体…』

『いえ、何でもありません。何でも…』

 ソラシネは話題を変えようと、何故か必死になっているようだった。

『隠してもダメですよ、ソラシネ。わたくしにはすべて判るのですから。また、あのことを龍馬さまに話したのですね。あなたにも誠に困ったものですこと…』

『あのこととは、一体なんですか。ソーラ』

『昇太郎さまが、気になさるほどのことでもありませんから、どうぞ、ご心配なく…』

『ソーラさま。きょうのソーラさまのお話のしかた、いつものソーラさまと違いますけど、どうかなされたのですか…』

『いいえ、どうもしませんよ。昇太郎さまがこうしなさいと云われたので、そういたしたまでのことです。ソラシネには関係ありません』

『あ、ソーラどの。つかぬことを聞くようですまんが、このソラシネをわしの嫁にもらう訳にはいかんかいのう…』

『ええ…』

『まあ…』

『……』

 言われた本人はともかく、昇太郎とソーラは仰天の声を上げた。

『えー、だって、龍馬さんにはお龍さんという、奥さんがいたじゃないですか…』

『ほう、おまんも、よう知っとるのう。だけんど、わしはごらんのように、切られて死んでしもうたき、お龍にはわしの分まで、長生きしてもらわんといかんのじゃ。わしは死んで、精神体として生き続けにゃいかんのじゃが、ひとりじゃとても寂しゅうて、やっていられんき。ソラシネを嫁にもらいたいと思うたんじゃが、どうじゃろうかのう。ソーラ

さん…』

『龍馬さま。ここ神仙境では犯罪以外はすべて自由なのですが…』

 と、ソーラは思いつめた顔の龍馬を前に語りだした。

『ですから、わたくしにおふたりの結婚について、とやかく云う資格も権限もございません。大事なことはおふたりのご意思だけなのです。龍馬さまのお気持ちは、いまお聞きました通り明白です。

 ここで重要なのは、ソラシネの気持ちだけなのですが…。ソラシネ、あなたの気持ちはどうなのですか。龍馬さまと添い遂げる意思はおありなのですか…』

 すると、ソラシネは一瞬その頬を真っ赤に染めながら、ポツリポツリと話し始めた。

『あの…、その…、つまり、龍馬さまのお嫁になるということは、龍馬さまのお子を産むということでございますよね…。ソーラさま』

『そのとおりですよ。ソラシネ』

『わぁ…、恥ずかしい……』

 ソラシネは、思わず両手で顔を覆い隠すと、耳や首筋まで真っ赤になっていた。

『龍馬さま。ごらんのように、ソラシネはまだまだおぼこでございますが、そりでもよろしいのでしょうか』

『なんの、かまわん、かまわん。ほんによか女子じゃき、ソラシネは…』

 龍馬はソラシネの肩を、優しく包み込むように抱いた。

『ああ、それから龍馬さま。お伝えするのが遅くなりましたが…』

 と、何ごとかを話そうとして、ソーラが龍馬のもとへ寄ってきた。

『明日の件でございますが、神仙大師さまからの知らせによりますと、龍馬さまおひとりで来るようにとのとでございました』

『ほう、わしゃあ、何か神仙大師さんに怒られるようなことでもやったかのう…』

『さあ、そのようなことはないと思いますが、何しろ神仙大師さまは龍馬さまのことは、非常に高く評価されておられると聞き及んでおりますから…』

『ほなら、いいけんど…。さあて、明日のためにひと眠りするかのう。ソラシネも一緒にこいや…』 

 龍馬が立ち上がるとソラシネも黙って立ち上がり、龍馬の後を追うように宴の間にから立ち去って行った。

『ふう…、台風一過ってところだな。ありゃあ…』

 龍馬たちを見送りながら、昇太郎がつぶやいた。

『本当に坂本龍馬さまは、あのように賑やかなご人物だったのでしょうか…』

『さあ、ぼくにも判らないよ。生きている時の龍馬さんには逢ってないし…。

でも、これだけは云えるかも知れない…。幕末動乱期に生きていた龍馬さんは、その混沌とした状態から脱出することができた。だから、龍馬さんはその反動であそこまでハチャメチャなことを、やっているんじゃないのかなと、ぼくは思っているんだよ。

幕末という時代は本当に過酷な時代で、人が切ったり切られたりとか、日常茶飯事のように繰り返されていたというんだから、ぼくらの時代では、想像もつかないほど暗い時代だったんだろうな…』

 昇太郎は、幕末という時代を思いやりながら、しみじみとした口調で言った。

『昇太郎さま。あなたもお疲れでしょうから、そろそろお休みになられてはいかがでしょうか…』

『今日もいろいろあったけど、明日もあるからもう休もうか。ソーラもおいでよ』

 こうして、神仙境の夜も静かに深まって行った。

 翌朝になると、坂本龍馬は神仙大師に逢いに行く準備をしていた。そこへ昇太郎とソーラが見送りにやって来た。

『もう準備はできたのかい。龍馬さん』

『おう、いまできたところじゃき、ほな行ってくるぜよ。なるべく早く帰るきに、ソラシネもしっとう待っとうせ』

 龍馬の後ろ姿には微塵の翳(かげ)りも見れずら、ソラシネはその遠ざかって行く龍馬の姿を、慎ましやかな眼差しで静かに見送っていた。

『さあ、そソラシネ。龍馬さまのお帰りになられるまで、わたくしたちとともに過ごしなさいな』

『はい、そういたします…』

『どうだい。ソラシネ、龍馬さんは優しくしてくれるかい…』

 昇太郎が訊くと、

『ええ、とても…』

 と、いまにも消え入りそうに、ほほを赤らめながらポツリと答えた。

 それから、ソーラと昇太郎は昨日ふたりで話し合った、坂本龍馬という並み外れた大きな精神体について話して聞かせた。

『ですから、龍馬さまのことは精神大師さまも、すでに見抜かれておられたようで、今回の昇太郎さまに命じられて、龍馬さまを迎いに行かせられたという訳なのです』

『そうなんだよ。ソラシネ、ぼくも最初に見た時、自分が切られて倒れている姿、じっとを見下ろしている龍馬さんから、青白く光るオーラを見た時にはマジで驚いたんだよ。いまでは仙境にやって来たから、見えなくなってしまったけどね。

 だから、それだけでも龍馬さんという精神体は、ぼくなんか足元にも及ばない素晴らしい精神体なのさ』

『でも、そのような偉い精神体の龍馬さまが、どうして、わたくしのことをお嫁に欲しいなどと、おっしゃられたのでしょう…』

『さあ…、それだけきみが美しくて可愛いかったからじゃないのかい。ソラシネ』

『まあ、昇太郎さまったら……』

 ソラシネは、ますます消え入りそうに、衣の袖で顔を覆い隠してしまった。

 そうこうしているうちに時は移ろい、そろそろ夕刻の時間に差しかかろうとしていた。

 しかし、龍馬は帰る時刻を過ぎても。一向に戻ってくる様子も見えなかった。


     3


龍馬の帰りを待っている、ソラシネ・ソーラ・昇太郎の周りでは、時間だけが重苦しく時を刻んで行った。誰ひとりとして口を利く者はいなかった。

『どうしたのかしら、こんなに遅くなるなんて…、龍馬さまは…』

 ついに、居た堪れなくなったのか、ソーラが最初に口を開いた。

『なーに、心配することはないさ。きっと、神仙大師さまに引き留められているのじゃないのかな…。大師さまは龍馬さんのことを、偉く気に入ってみたいだから、きっとそうだよ』

『それにしては、あまりにも遅過ぎるとは思いませぬか…。昇太郎さま。いかに神仙大師さまとは云われましても、これではソラシネがあまりにも可哀そう過ぎます』

『いえ…、わたくしは何もそのような…』

 ソラシネは、また頬を薄っすらと赤らめていた。

『とにかく、もう少し待ってみよう。そのうち帰ってくるかも知れないから…』

『それにしても遅いですわね…。龍馬さまは』

『心配いらないって、龍馬さんはぼくなんかよりも、ずっと優れたりっぱな精神体なんだから』

すると、その時どこかで『ハァックション…」という、クシャミがしたかと思うとドタドタという足音が聞こえてきた。

『いま帰ったぜよ。ごめん、ごめん。待たせてしもうて、すっか遅くなっちしもうたきに。いま誰ぞ、わしの悪口ば云うとらんかったか…』

龍馬が大きな酒壺を抱えて現れた。

『どうしたんですか。龍馬さん、その酒壺は……』

『これか…、これはな。神仙大師さんが、おまんとふたりで飲めと呉れてよこしたもんじゃ』

『それはともかくとして、龍馬さんはいままで何をしていたんですか。こんなに遅くなるまで…』

『何もしとりゃせんよ。ただ神仙大師大先生さまから、いろいろと教えをば乞うていただけやき、それでこんなに遅くなってしもうたとよ。どれ、それじゃあ、せっかく頂いてきたんじゃき、さっそくご馳になろうかのう』

 龍馬は酒壺を燭台の上に置くと、懐から茶碗をふたつ取り出すと、ひとつを昇太郎に渡すと酒を注いでやった。ソラシネが龍馬の側に寄って行くと、黙って酒壺を受け取ると龍馬にも注いでやるとニッコリ微笑んだ。

『おお、すまんのう。ソラシネ、おまんのこともすっかり待たせてしも打て、まっことすまんのう』

『ところで、龍馬さま。精神大師さまとは、どのようなお話をなされてきたのでございますか…』

ソーラは一番気になっていたことを訊ねた。

『そうですよ、龍馬さん。ぼくも、そのことが気になっていたんですけど、一体どんなことを教わって来たんですか…』

『うむ…、そのことなんだがな。大先生はわしに孫悟空の「斉天大聖」に准ずる「斉天大将」の称号をやるというんじゃ…』

『まあ…』

『それで…、受けたんでしょう、龍馬さん…』

 ソーラも昇太郎も心配そうに訊いた。

『いんや、わしは龍じゃき、猿の称号をなんぞいらんと断ってやった』

『まあ、なんという恐れ多いことを…』

『そうですよ。せっかく呉れるというのにもったいない…』

 ふたりとも、ほとんど無欲に近い龍馬を見て、呆れたよ口調で言った。

『わしは、どうも肩書は好かんき、そんなもんはいらんと再三断ったんじゃが、大先生曰く、持っていても邪魔にはなるものでもあるまい。取っておくがよい。と云われれば断るわけにもいかなくなって、ついもろうて来てしまもうたき。が、そこからが大変だったんじゃ。わしは頼みもしないのに、あの大先生さまは次から次へと法力って云うのんか…。それこそ、聞いておってもさっぱり判らんきに、わしゃあ、黙って聞きいとったんだが最後に大先生はこう云われた。

「その方には、わしが話しておることは即座には解かるまいが、心して聞くがよいぞ。何れその方が窮地に経った折には、必ずやこれらの法力が、その方がを救うことになるであろう。龍馬よ。このことは努々(ゆめゆめ)忘れることなかれ…」

 と、いうわけでのう。ついつい遅くなっちしもうたのよ。みっちり扱(しご)かれたき、すっかりだれてしまったぜよ』

 そういいながら、龍馬は茶碗に注がれた酒をひと息に飲み干した。

『クー、これは旨か酒ぞね。昇太郎さんも早う飲んで見んしゃい』

 昇太郎も龍馬につられてひと口含んだ。すると、何ともいえない芳醇な香りが口いっぱいに広がって行った。

『なんて酒だ…。これは…、こんなにうまい酒は飲んだことがない…。それにしても、この深みのあるうまさは何だろう…』

 昇太郎はいくら考えても解からなかった。それは解からないのが当然だった。これは、後で知ったことなのだが、いま龍馬と昇太郎が飲んでいる酒こそ、天帝たちが祝宴の時にのみ飲む、特別な酒だということだった。

『ところで、龍馬さん。神仙大師さまからは他に何か云われなかったの…。

 ぼくの時は慶応三年の京に行って、坂本龍馬を連れてくるようにと云われたんだけど、龍馬さんは何も頼まれなかったのかい』

『いんや、頼まれたぜよ。わしの場合は、当面の間はゆっくり休養ばとって、昇太郎さんの手助けてもしてやれと云われての。気が向いたら、また来いと云われただけやき。ひとつよろしく頼むぜよ』

『え…、それだけ…。ほかには何も云われなかったの……』

『それがな……。実は、ド偉いことば頼まれて来てしもうたんじゃ…』

『どんなことですか。それは…、龍馬さん』

 何ごとにも動じず、数多くの修羅場を潜り抜けてきた龍馬に、「ド偉い」とまで言わしめたこととは、一体どんなことなのかと昇太郎は訝しく思いながら訊いた。

『それがの…、天正十年に翔(い)けというんじゃ…』

『て、天正十年といえば確か…、織田信長が明智光秀の謀反に遭って、自ら本能寺に火を放って切腹して果てたという…、あの…』

『おうよ。おまんも、よう知っとうとね』

『ぼくはこう見えても、学生時代には日本史は得意でしたからね』

『それで、そこに翔って信長公を連れてこいと云うのが、神仙大師大先生からの命なんじゃが、何でも信長公は荒ぶれる精神体らしいから。その方も、充分気を引き締めて掛るようにとも云われてきたんだが、なんぼ荒ぶる魂かなんかは知らんけんど、時代こそ違え同じ精神体じゃきに何も心配などせんでいいぜよ。と云ってやったら大先生も納得したらしくって、それ以上は何も云わなかったきに、さっそく用意ばして、わしは天正十年六月二日に往かにゃならんぜよ』

『あれ、いまゆっくり休んでから往くように云われたって聞いたけど、もう出かけるんですか…』

『いんや、こういうことはなるべく早く片ば付けんと、気ィが落ち着かんとよ』

『でも、ひとりで大丈夫なんですか…。龍馬さん、何ならぼくも一緒に行きましょうか…』

『いんや、昇太郎さん。今回だけは、わしひとりで往かせてくれや。そうしないと、わしを高く評価(か)ってくれた、精神大師大先生に面目が立たんきに、頼むぜよ。昇太郎さん』

『わかりました。龍馬さん、だけど、気をつけて行ってきてくださいよ。ソラシネはぼくたちでお預かりしますから、心配しないでください』

『ありがとう、恩に着るぜよ。昇太郎さん』

 こうして龍馬は、ソラシネともゆっくり別れを惜しんでいる暇もなく、龍馬は旅支度を始めていた。それが済むと三人のほうに向きなおり、

『それでは、行ってくるぜよ。ソラシネもみんなも達者での』

 と、言葉をかけるとすぐに、

『翔時解向』

 龍馬が叫ぶと、天正十年六月二日・明智光秀の謀反により、自ら火を放って自決したと言われている、京の本能寺に織田信長の精神体を迎えるべく、坂本龍馬は四百余年という時を隔てた天正年間に向けて、その姿はかき消すように見えなくなっていた。

 龍馬の姿が見えなくなって、静まり返った室内でソーラがつぶやくように言った。

『大丈夫なのでしょうか。龍馬さまは、たったおひとりでお出かけになられましたが、信長どのも相当の強者(つわもの)と聞き及んでおります。

 それ故に龍馬さまは無事に信長どのを、この仙境までお連れすることができるかと、わたくしはそのことばかりが心配でなりませぬ』

『大丈夫だと思うけどなぁ…。ぼくは、いくら生前は猛(たけ)き人であったとしても、精神体になってしまえば荒ぶる心だって、自然に静まって行くんじゃないのかな…。龍馬さんを見てみなよ。あのひとは近江屋に隠れているところを襲われて、死んでしまったんじゃないか。それなのに殺された悔しさや無念さなど、微塵も表に出さないじゃないんだよ。そういうものなんじゃないのかぁ…。精神体として再生されるということは…』

『さあ…。わたくしは、ここ仙境にて生まれ育ちしもの。人間のことはあまり詳しくは存じませぬ。昇太郎さまが、そのようにお考えなのであれば、そうなのでございましょう』

『でもさ、ぼくだって谷川岳の頂上から落ちて、体もグシャグシャになって死んだはずなのに、ソーラに助けられて、神仙境まで連れてきてもらったじゃないか。

あの時のことを思ったら、ぼくにとっても精神体として、生きている人のために何か役に立つことが、できるんじゃないかと考えたんだけど、結果的には龍馬さんとか織田信長公とか、死んだひとにしか力を貸してあげられなくて、ちょっぴり残念な気持ちもあるんだよ』

『いいえ、そのようなことはありませんわ。昇太郎さまさえ、その気があるのでしたら本当に困っている人たちを、時代を超えて助け支えてあげることもできるのですよ』

『え…、じゃあ、翔時解を使うのかい…。でも、ぼくの姿は普通のひとには見えないんだろう…』

『昇太郎さま。もうお忘れになられたのですか。あなたには万華変があるではございませんか。あれを用いればどんなものにでも、その姿を変えることができるのです。犬猫はもとより、その気になりさえすればミミズにでも…』

『え、ぼくがミミズになるのかい…』

『いえ、それは物の例えでございますけれど…』

『まあ、いいさ。ところで、ぼくはいつの時代に行けばいいんだろう…』

『それは昇太郎さまが、じっくりと時間かけてお決めになればよろしいこと、取り立ててお決めになることもありませぬ』

『うん、そうだね。諺にもあるけど、慌てる乞食は貰いが少ない。って云うからね』

『そのとおりでございますわ。昇太郎さま』

『よし、それじゃ、じっくりと考えてから行動するとするか…。あ、そう云えば、龍馬さんはどうしたんだろう…。ひとりで大丈夫だったんだろうか…』

 昇太郎は天正十年六月二日に翔んだ、龍馬のことが急に気になり始めていた。

 その頃、当の坂本龍馬は、明智光秀の謀反に遭い自らの手で火を放ち、自決したという織田信長が宿泊していた京の本能寺の焼け跡に立っていた。

 焼け跡は未だ完全に鎮火したわけでもなく、ところどころで火の粉が爆ぜたりあちこちで燻り続けていて、辺り一帯を覆い隠すように煙が立ち上っていた。

『こりゃ、また派手に燃えたもんじゃき、これではどこがどこやら丸っきり判らんぜよ』

 もうもうと立ち上る煙を透かして、周りを見回したが焼け落ちた柱や瓦などの瓦礫があるばかりで、人の焼死体も見当らないという有り様だった。龍馬はさらに目を凝らしてよく視ると、一番奥の方で何やらオレンジ色に輝くものが目についた。

 何だろうと思いながら、龍馬はさらに目を凝らし視ていると、それはいまにもメラメラと燃え上がるような、凄まじいばかりのオーラを放っている精神体だった。

『あれは、織田信長さま…』

 龍馬は急いで近寄って行くと、躊躇することもなく声をかけた。

『織田信長さまでございますのか…』

 オレンジのオーラを放つ精神体は、龍馬に気がつくと静かに振り向いた。

『そうじゃが、その方は何者じゃ…。わしは死んだのか…』

 信長の精神体は茫然自失したように、うつろな声で龍馬に訊ねてきた。

『はい、わしは信長さまより、四百年ほど後の世に生きておりました、坂本龍馬と申します。信長さまは、いまお果てになられまして、精神体として存在しておられます』

『むむ。して、その精神体とはいかなるものか…』

『は、精神体とは信長さまの精神、つまり「心」そのものなのでございます。わしは信長さまの精神体を神仙境へお連れするために、使わされた者とでもお覚え頂ければと存じます』

『神仙境…、初めて耳にする名だが、それはどのようなところで何処に在るのだ…』

『はい、ここよりは遥かに遠い、天空高きところでございます』

『何、天空高きところとな。そのようなところにどうやって参るのじゃ…』

『は、空を舞い飛んで参りまする』

『その方はうつけ者か、たわけたことを申すな。このわしが天空など飛べるわけもなかろうが…』

 織田信長はすでに精神体になっていても、その荒々しい気性は衰えてはいないようだった。

『しかし、信長さま。精神体と申しますのは、すでに生身ものではござりませぬ故、いかなる高所でありましょうとも、舞い飛ぶことなど造作もないことのでございます』

『何、それは誠か…。坂本龍馬はとか申したな。その方は、わしより四百年も後の世に生きていたと申したが、どのような術を以ってこの時代まで来たのか…』

『はい、精神体になりますと「翔時解」と申します。法力が授かりますれば、それを用いましてまかりこしました』

『ほう、翔時解とな…。あまり聞かぬ名の術ではあるのう…』

 厳しい表情だった信長の精神体も、龍馬と話をしている中で次第に、その表情も和らいでいくようだった。

『ご納得して頂けたでしょうか…』

『うーむ…。して、われ亡き後の天下は如何いたした。四百年のちの世は如何いたしたのじゃ…』

『はい、申し上げてよいのやらどうかは、わしには判りませんが…』

 と、前置きをしてから龍馬は語りだした。

『信長さまが亡くなられた後は、秀吉さまが一時は天下を統一されて、関白にまでなられましたのですが…』

『何、猿めが天下人にだと…』

『はい、それがご子息の秀頼さまの代になりましてから、徳川さまと大きな戦が二度ほどございました。わしらの間ではこの戦いのことを、大坂「冬の陣」「夏の陣」と呼んでおります。

 この冬の陣では秀頼さまが優勢だったのでございますが、夏の陣では秀頼さまが大敗を喫して敗れてしまいます。その後、徳川家康さまが江戸に幕府を開きまして、戦国の世は終わりを告げもうしました。わしが精神体になった頃までじゃき、約三百年近く続いておりもうしたか…』

『ぬぬ…、徳川の小倅がか…。して、徳の川の世が二百年以上続いたと申すのだな…。それで、その後は誰が国を治めておるのじゃ…』

『はい、われらも徳川幕府を倒さんがために、長きに渡って戦ってきたのですが、どこの誰とも判らん奴らに切られてご覧のような有り様…。それでも、わしが切られる一ヵ月ほど前に徳川の十五代将軍徳川慶喜さまが、朝廷に大政奉還を申し出たと聞き及んでおりますれば、それより以降の世は天皇が治めておられるとか聞いております』

『天子が国を治める…か。神代の時代には聞いてはおるが、それもまたよろしかろう…。徳川ごときに任せておるより、そのほうがどれほどか増しじゃろうて……』

 信長は得心がいったのか、それまで燃え上がるように輝いていた、オレンジ色のオーラも次第に薄らいで行くようだった。

『それでは参りましょうか、信長さま。神仙境へは、わしがご案内ば致しますき、ついて来てきとうせよ』

『うむ、このわしに空を舞い飛ぶことなぞ出きるのかのう……』

 信長は多少不安げにつぶやいた。

『大丈夫じゃき、ほれ、こうやって飛ぶんじゃ…』

 龍馬はふわりと空中に浮かび上がって見せた。

『なるほどのう…。こうか…』

 信長も龍馬を真似て、空中に浮かんでみた。

『おお…、わしも浮いたぞ。坂本とやら…』

『それでは参りましょう。信長さま』

 ふたりの精神体は空高く舞い上がっていった。

『人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり……か…。ふふん…、さらばじゃ…』

 信長は誰にともなく言うと、龍馬とともに神仙境へ向けて飛び立って行った。

 さて、こちらは神仙境のソーラの館では、龍馬の帰りを待ち侘びるソラシネを、昇太郎とソーラが囲む形で鎮座していた。

『龍馬さまは、無事に織田信長どのの精神体に、廻り合うことが出来たのでありましょうか…』

 三人の間に流れている、重い沈黙を打ち破るようにソーラが言った。

『龍馬さんは、ぼくなんかよりも遥かに高い精神体だから、心配はないと思うけど織田信長という人も、ぼくが歴史の時間に習った限りでは、かなり気性の激しい人だったらしいから、龍馬さんも手こずっていなければいいんだけど……。何しろ、少しでも気にそぐわないことがあると、手当たり次第に当たり散らすし、自分の側近の者であっても情容赦もなしに、無礼討ちにしたというから相当のものだったんだろうな…』

『まあ、怖ろしい……。わたくして怖いわ…、ソーラさま』

 ソラシネは身震いをするようにして、ソーラのところににじり寄って行きしがみついた。

『大丈夫ですよ。ソラシネ、人間体の時にいくら残忍であろうと、猛き人であろうとも精神体になられた以上は、もはやそのようなことはありませぬゆえ、安心しなさい』

『そうだとも、ソラシネ。信長さんだって生きていた時は、確かに荒々しい気性の人だったかも知れないけど、いまとなって龍馬さんやぼくとあまり変わらないかも知れないよ。いや、精神大師さまがわざわざ迎いにやったくらいだから、もしかすると、龍馬さんを遥かに越えたようなすごい精神体かも知れないな……』

『まあ…、龍馬さまを遥かに越える精神体とは、一体どのような精神体なのでありましょう…』

 ソーラは、期待と不安の入り混じったような表情で昇太郎を見た。

『さあ…、これは、ぼくの単なる想像だし、歴史の時間に教わった内容から見ても、確かに気性なんかは相当激しいらしいけど、こればかりは実際に逢ってみるまでは、ぼくも何とも云えないけどね…』

 昇太郎も、ソーラやソラシネにあまり不安を与えまいとして、そこで言葉を濁したが彼自身の中にも、何やら得体の知れないものが蠢いているのを感じていた。

 何がそうさせるのか、昇太郎にもまったく解からなかったが、これからとんでもないことに巻き込まれるのではないかという、半ば「虫の知らせ」とでも言うべきものを感じていたことは確かだった。

『もう、そろそろ戻って来てもよろしい時間なのですが、本当にお遅うございますわね。龍馬さまも…』

『ああ…、龍馬さま…』

 ソラシネも龍馬の名を呼びながら、ソーラのもとに寄りかかった。

『そう云えば、遅すぎる気もするけど、大方その辺を見て周っているんじゃないの…。信長さまは珍しもの好きだそうだから…』

『それならば、よろしいのでございますが…』

 昇太郎とソーラが、そんな話をしていると、またドタドタという足音が聞こえてきた。

『いま帰ったぜよ。織田信長さまばお連れ申したき、みんな挨拶ばやっとうせよ』

 そういう龍馬の背後には、明智光秀の謀反に遭った時に着ていた、白い一重の着物姿の信長が立っていた。


     4


 坂本龍馬と織田信長はそろって室内に入ってきた。

『さ、信長さま、どうぞこちらにお座りくださりませ』

 ソーラが信長に椅子を勧めながらニッコリ笑って会釈した。

『む…、世話をかけて済まぬな…』

『信長さまも、だいぶお疲れになられたでしょう。まずは、この酒でも飲んでゆっくりとくつろいでくだされ』

 龍馬は用意してあった茶碗を手渡すと、先日神仙大師より頂いてきた酒壺から、信長の持つ茶碗に並々と酒を注いでやった。

『あ、それから、紹介ばするのが遅くなりもうしたが、こちらにはおられますのが、この家の主ソーラさまとその使い女頭のソラシネにございます。

 そして、こちらにおられるのが、わしの時代より更に百五十年も後の世から参られた、大山昇太郎さんと申す者にございます』

『大山昇太郎と云います。よろしくお願いします』

『何…。その方が坂本よりも、更に百五十年もの後の世から来たと申すのか…。うーむ…』

 信長は昇太郎の顔をまじまじと見詰めていた。

『人間。人生五十年と云うが、わしはその五十年すらも生きられなかった…。これも運命(さだめ)というものかのう…』

 信長はため息をつくように、深く息を吐き出すと龍馬が注いだ酒を飲み干した。

 すると、今度はソーラが龍馬から酒壺をとると、信長の傍に寄って行き隣の椅子に腰を下ろした。

『さあ、信長さま。もう一杯いかがでしょうか。わたくしでよかったらお注ぎいたしましょう』

『おお、すまんのう…。手数をかけてすまぬ…』

 ソーラが信長に酒を注いでやっていると、ふたりからは見えないように龍馬が、昇太郎においでおいでの手招きを送った。

 昇太郎も信長に気づかれないように、そっと席を外すとゆっくりと龍馬の後を追った。

『どうしたんですか。龍馬さん、いきなりおいでおいでって、何かあったんですか…』

『いやぁ、わしはいままで、あんなに驚いたことはなかったぜよ…』

『一体、どうしたんですか。何かあったんですか…。龍馬さん…』

『何かあったなんてもんじゃなかったぜよ…。おまんが京の近江屋で、わしが切られて死んだ時に、わしの身体から青白く光る…オーラちょうのか…、あれが出ているのを見たと云うちょったけんど、信長さんのは、ちぃっとばかりか全然違いよったき、わしゃあ、ほんに魂げてしもうたんじゃ…。わしゃ、いままでにも海援隊で外国を相手に、商売ばやっていたきに珍しい物とかいろなものを見てきたが、あんなとてつもなく変わったオーラは今回が初めてじゃった…』

『そ、それで…、信長さまのはどんなオーラだったんですか…』

に噴き出すように光り輝いておったのよ。あれには、まっこと驚いてしまったぜよ』

『橙色…、オレンジ色か…。それでもよく、ここまでおとなしくついて来てくれましたね』

『さすがに、信長さんは並外れた精神体じゃよ。自分が死んだことを無念に思う気持ちも、明智光秀に裏切られたことへの怒りとかも、一切顔にも口にも出さんかったんだから、大したもんぜよ。

あれは、まるで自分がそうなることを初めから分かっていたような、そんな気ィもしないでもなかったな。うーむ…』

『それで、それからどうしたんですか…。ソーラのところに来た時には、もうオーラは消えていたみたいだったけど…』

『それがな、わしと話をしているうちに、いまにも燃え上がりそうだったオーラも、自然と色が薄れていって終いには、すうっと消えて行きおったんじゃき…。あんなものを普通のひとが見たら腰を抜かしよるぜよ』

『でも、凄いと思いますよ。ぼくは…、龍馬さんの時だって普通とは思えなかったのに、信長さまのは龍馬さんに輪をかけたくらいすごいということですよ。これは少しでも早いうちに神仙大師さまに逢って貰わないといけないですね…』

『まっこと、そのとおりじゃき。そういう風にソーラさんにも昇太郎さんから、云っといたほうがいいぜよ。さて、そろそろ戻ってみないといかんな。信長さんも心配だし、ソーラさんもうまく相手をしていてくれればいいけんど…』

『そうだね。ソーラのことだから、うまくやってはくれてると思うけど…』

 ふたりが室内に戻ると、信長は上機嫌で酒を飲んでいたが、やがて、何を持ったのかゆっくりと舞いを舞い始めた。

『人間五十年……下天の内をくらぶれば………無碍の如くなり…………』

 やがて、舞いは静かに終わった。龍馬と昇太郎は一斉に拍手を送ると、信長の見事な舞いを称えた。

『お見事な舞いでございました。感服つかまつりました』

『信長さま、とても素晴らしかったです。映画やテレビでは観たことがありますが、やっぱり本物は違いますよ。実に素晴らしいです』

 龍馬も昇太郎も、そろって信長の舞いの素晴らしさを称えた。

『おう、その方たちか。何れに参っておったのだ…。まあ、ちとこっちに来て一緒に酒でも飲まぬか。さあ、ソーラどの。このふたりにも注いでやってくださらんか…』

『はい、かしこまりましてございます』

 ソーラが昇太郎と龍馬にも酒を注いでやった。

『時に、この神仙境とは誠に不思議なところよのう…。聞くところによれば、死にたる者が必ずしもすべて、こにに来られるわけでもないというが、わしは坂本に連れてこられたのも幸いだったが、それにしても何という穏やかなところか…。わしがこれまで生きてきた世界とはまるで違う、まさしく夢のようなところじゃ……』

これまで戦国という時代で、常に闘いの日々を送ってきた信長にも、ようやく人間が持っている、人間本来の穏やかな心が甦ってきたようだった。

『坂本にも、すっかり手数をかけてしまったが、ここで逢うたのもまさしく何かの縁(えにし)じゃ。それに神仙境においては坂本と昇太郎は、わしにとっては大先輩に当たる身じゃ。ひとつよしなに頼むぞ』

『滅相もございません。信長さま、あなたさまはわしらの時代におきましても、なお天下に名だたる大英雄のおひとり。わしらごとき者に、そのようなお言葉はあまりにも、もったいない限りにございます』

 龍馬のいた幕末・慶応年間においても、その名を馳せた戦国の大武将織田信長の精神体に、龍馬はうやうやしく言葉を返した。

『何を申す。坂本、ここ神仙境では身分とか上下関係も一切問わないと、ソーラどのより聞いておるぞ。まして、わしらはそれぞれ生きていた時代も違っておる。それ故、その方もわしに対して、そのように畏(かしこ)まる必要などないということだ。わしもここに来てから、初めて己が身の愚かさを知ったわ。誠にわしもとんだ大うつけ者だったわい…』

 信長は、これまでの数限りない残虐非道の行いを、回顧するように寂しげな笑みを浮かべた。

『信長さまも本日は、さぞお疲れになられたでありましょう。明日は神仙大師さまに、お目通りをして頂かなければなりませぬ。今宵はごゆるりとお休みくださいませ。これ、ソラシネ信長さまを寝室までご案内して差し上げなさい』

『はい、かしこまりました。信長さま、こちらでございます。どうぞ…』

『うむ、手数をかけるのう』

信長はソラシネに付き添われて、寝室のほうへと立ち去って行った。

『申し遅れましたが、明日はぜひとも龍馬さまに、信長さまのお供をするようにとの、神仙大師さまからの伝言ございました』

『何…、わしに…。わしゃあ、大先生から怒られるようなことは、なぁんもしちょらんとに、一体なんじゃろう…』

『大丈夫ですよ。龍馬さん、神仙大師さまは龍馬さん叱るために呼ぶんじゃないと思いますよ。反対にお褒めの言葉をもらえるかもしれませんよ』

『何で、わしが褒められるんじゃ…。わし、大先生に褒められるようなことなんて、何かやったかな……」

『ほら、あるじゃないですか。天正十年に往って、織田信長さまの精神体を、神仙境に連れて来たじゃありませんか。きっと、あれですよ』

『だけんど、あれは大先生に頼まれたから、仕方なしに往って…、まあ、よかと。こんどは、何を云われるか知らんけんど、とにかく行ってくるきに…』

 一応龍馬も何を頼まれようと、腹を決めたらしく快活に歌を唄いだした。

『土佐の高知の播磨屋橋で…坊ンさんかんざし買うを見た…よさこい、よさこい………』

唄い終えた龍馬は、少しは落ち着いたらしく、信長が飲み残していった酒壺から、自分で注いで飲み出し昇太郎にも勧めた。

『しっかし、判らんのう…』

 龍馬が独り言のようにつぶやくと、

『何がでございますか…』

 と、ソーラが問い質した。

『いまさら大先生が、このわしに信長さんと一緒に来いと云われたって、わしにはなぁんも心当たりがないき、いくら考えてもさっぱり判らん…』

『だからさぁ、龍馬さんが信長さまの精神体を迎いに行って、連れて帰ってきたから、ご褒美かなんかもらえるんじゃないの…』

『いんや、そんなことは絶対にない…。何かわしはいやーな予感がするきィ、もう寝るわ…』

 龍馬は飲んでいた酒を途中でやめると、自分の寝所へ下がって行った。

『何だい…、坂本龍馬ともあろう精神体が、情けないじゃないか…』

『いいえ、そうでもありませんわよ。あのように見えましても、龍馬さまは自分がおやりになったことは、きっと誇りに思っていらっしゃいますよ。なのにあのように、照れ隠しかなにか存じませぬが、飄々としていらっしゃる。あの方こそ、本当に素晴らしい精神体だと、わたくしは思いますわ』

『うん、それはぼくも認めるよ。確かに龍馬さんの青白く光るオーラは、並外れていると思うけどさ。信長さまのは、それに輪をかけたようなオーラだったって云うぜ。さっき龍馬さんから聞いたんだけど…』

『それは、わたくしも感じましたわ。信長さまも、龍馬さまに勝るとも劣らない、素晴らしい精神体であることは間違いありませぬ。

 ほんに、わたくしも明日の神仙大師さまにお目通りをして、どのようにおっしゃられるか楽しみでなりませぬ。さあ、昇太郎さまも遅うございますれば、そろそろお休みになりませんと…』

『いやぁ、ぼくも楽しみなんだよ。ふたりとも歴史上の人物で、超有名なひとたちだろう。神仙大師さまがどんなことを云われるのか、ぼくも実は楽しみにしているんだよ。さて、ぼくも寝るかな…。ソーラも来るかい…』

『あい……』

 と、いうようなわけで、神仙境の夜も更けてそれぞれ寝についた。

 翌朝、信長は眠りから醒めると、いつもの癖がでた。

『誰かある』

 信長は家臣を呼んだつもりだったが、

『お呼びでございましょうか。信長さま』

 と、ソラシネが入ってきた。

『おお、忘れておったわ…。わしは死んで、ここは神仙境だったな…』

 信長は起き上がると寝台から降りて、用意されてあった着物を着て身

 づくろいを終えた。

『信長さま、ご用意はでき申しましたか。本日は、急遽昇太郎も来るようにとのことで、三人で参りましょう』 

 昇太郎を伴って坂本龍馬も入ってきた。

『信長さま。昨夜はよくお休みになられましたか』

『うむ、ひさしぶりによく眠れたぞ。昇太郎』

『みなさま。しばらく、お待ちくださりませ…』

 そこへ、ソーラも姿を現した。

『何だい。急に…、ソーラ』

『今回は、わたくしもご同道させていただきますわ。神仙大師さまには、わたくしも、しばらくお目通りを致しておりませぬゆえ、ぜひともご同道させてください』

『よーし、決まった。今回は四人で出かけるき、わしこれから大急ぎで用意ばするけぇ、しばらく待っとうせよ』

 龍馬はあちこち動き回って、出かける準備をし始めた。

『さあ、出きたでよ。ほんな行こうか』

 ソーラを加えて四人で出るのは初めてだった。珍しい物好きの信長は、あちらこちらと眺め回っていたが、やがて神仙大師の館に到着すると、相変わらず天まで届くほどの壮大な屋敷に、信長は肝を冷やしたように言った。

『何という広い屋敷だ…。これでは、わしの城など到底足元にも及ばぬわ』

 ソーラが門番にひと言告げると、信長たちの元に急ぎ足で戻ってきた。

『信長さま。神仙大師さまは信長さまが来るのを、いまや遅しとまちかねているとこと、さあ、急いで参りましょう。龍馬さまも昇太郎さまもどうぞ』

 四人は、直ちに神仙大師のいる間へと通された。

大師の間にははいると、正面の椅子に神仙大師が座していた。

『おお、その方が織田信長か…。うむ、その方も過去の行いに対して、だいぶ悔い改めたようだのう。それは極めて喜ばしいことであるぞ』

『ははぁ…、有りがたきお言葉にございまする』

『時に、信長。その方も来た早々で気忙しいとは思うが、さっそくやって貰わねばならぬことがあるのだ』

『は、何なりと仰せのほどを…』

『時代がのう。その方よりも、多少後の時代であるから知ぬとは思うが、龍馬と昇太郎なら知っておろうが、通称天草四郎こと益田四郎時貞という者がおる。この者は自分を神の子と称し民衆を扇動して、一揆に加担したという罪で捕らえられ打ち首にされて、その首は原城の城門前に晒し首にされた。これが世にいう「島原の乱」と申すのだがな。

 しかし、その後が良くなかったのじゃ。精神体となった四郎時貞は、晒し首になった自分の首を目の当たりにして、自分をこんな目に合わせた人間たちを呪ったのじゃ。呪って呪って、呪い続けて人間どもを皆殺しにしてやろうと思ったのじゃろう。

 そして、四郎時貞はついに悪魔と手を結び、魂まで売り渡したかも知れぬが、こうして天草四郎は膨大な魔の力を手に入れた。いまでも天草地方を彷徨っているかも知れぬのだ…』

『それでは、大師さま。その天草四郎を、われわれに神仙境へ連れてこいと申されるのですか…』

 と、龍馬が神仙大師に訊ねた。

『いや、残念だが、龍馬よ。一度悪魔と手を結んだ者を、この仙境に迎い入れること出来ぬのだ。その方らの力を結集してでも、四郎時貞の精神体を抹殺してもらいたいのだ。今回は精神体を救い出すのではなく、抹殺するのだから並大抵のことではあるまい。ましてや、今回の相手は魔の力という強大な力が相手だけに、その方ら全員の力を以ってしても、相当手強い相手と見なくてはなるまい。そこで今回は特別に、わしの持ち得る限りのすべての法力を伝授いたそう。みなの者これより直ちに伝授場のほうへ集合するように…』

 そういうと神仙大師は四人を残して、その場から立ち去って行った。

『みんな聞いたかい。大使さまは、持ち得る限りのすべての法力を伝授するって云われたけど、そんなに一辺になんて覚えきないよ…』

『大丈夫ですよ。昇太郎さま、そんなに心配なさらなくても、大師さまは法力を以って、伝えくださるのだと思われますから…さあ、私たちも伝授場のほうに参りましょう』

 四人揃って伝授場に入ると、神仙大師は準備万端整えたように、ひっそりと立っていた。

『これは一瞬にして終わるから、準備はよいな』

『はい』

 四人が同時に応えた。

『カァ…』

 次の瞬間、昇太郎の頭の中には、煌びやかな音楽のような膨大なデータが、押し寄せる波のように湧き上がってきた。

『うわぁ…』

 昇太郎は仰け反るようにして、頭を抱え込んだがすぐに収まった。

『これでよろしい…。これでわしの持つすべての法力が、その方らの中に伝わったはずじゃ。だが、決して魔の力を侮るではないぞ。魔の力こそ底の知れないものはないのだからな。己の身が危うくなった時には、一旦身を引くことも忘れるでないぞ。いかが精神体と云えども、身を滅ぼしては元も子もなくなるのだからな。それでは、本日はここまでじゃ、その方らもしばらくは、ゆっくりと休養を取るがいい。最後にもう一度云っておくぞ。決して魔の力を甘く見るでないぞ。よいな。

 それから、信長に申し渡すのが遅れてしもうたが、その方には特別に斉天大将の称号をつかわそう。しかして、四郎時貞は魔の力を引き継ぐ者、くれぐれも気を引き締めて掛らねばならぬぞ』

『はは…、有りがたき幸せ……』

 信長が礼を述べると、神仙大師はそのまま伝授場から出て行った。

『凄いじゃないですか。信長さま、斉天大将だって…、いきなり大将ですよ。信長さま』

『これ、昇太郎とやら、その「さま」呼ばわりは止めてくれぬか。わしはここでは、もう武将でも何でもない。ただの精神体なのだからな…』

『はい、わかりました。それでは、これからは龍馬さんみたいに、信長さんと呼ばせていただきます』

『うむ…、それにしても、その天草四郎時貞とは何者なのだ…』

信長は誰にともなく聞いた。

『いや、確かに信長さんが知らんのも当然だと思いますが、だけんど、キリシタンなら知っとるでしょうが…。天草四郎は、そのキリシタンの主神でもある、イエス・キリストという神さんの申し子という、とんでもない妄想に憑りつかれて、わずか十四・五歳の若者で民衆を扇動し、一揆に加担したという廉(かど)で捕らえられ、討ち首にされたという曰く付きの輩で…』

 龍馬が説明するのを遮るように信長は言った。

『そうか、キリシタンであったか。キリシタンなら、わしも前に宣教師とか申す者に、一、二度逢ったことはあるが、わしは昔から神などは信ぜぬほうだったから、適当にあしらうって追い返してやったわ。しかして、何ゆえに神の子とまで公言しておきながら、悪魔に魂を売り渡すなどとは、誠に以って不埒千万なヤツじゃ…。むむむ』

神は信じぬという、信長は自らも精神体でありながら、生きた人間のように怒りを露わにしていた。

『しかし、ぼくは天草四郎と云えば、何かこう…、ひ弱なイメージしか浮かんでこないんだけど、そんなのが魔の力を持ったら、一体どんな風になるんだろう…。悪魔なんて本当に存在するのかなぁ…』

 すると、昇太郎の言葉をたしなめるようにソーラが言った。

『いいえ、昇太郎さま。悪魔族はどこにでも存在します。神と同じで、人間の眼には見えませんし、その存在さえも感じ取ることはできませぬ。魔というもは、わたくしたち神仙の一族とは、強いて云えば水と油の関係。決っして相(あい)見(まみ)えることはありませぬ。ですから、わたくしたちも天草四郎が、いかにひ弱に見えましょうとも、弱みを見せたり隙を与えてはなりませぬ。さもなければ、わたくしどもの身が危険にさらされないとも限りません。くれぐれもご注意召されますように…』

 神仙大師の命を受けて、神の子と称しながら魔と手を結び、いまや魔の力を手に入れ、人間に復讐を企てている天草四郎時貞を、この世界から完全に抹殺するべく。昇太郎とソーラ、それに龍馬と信長の四人の精神体は、いままさに戦いの火蓋(ぶた)を切って落とそうとしていた。


     5


天草四郎こと益田四郎時貞は、肥後国南半国のキリシタン大名で、関ヶ原の戦いに大敗し斬首された、小西行長の遺臣益田好次の子として生まれた。幼少の頃から持って生まれたカリスマ性があり、学問に親しみ優れた教養を備えていたと言われている。また、小西の旧臣やキリシタンの間では救世主として擁立し、次第に神格化された存在として崇められてい行った。

 寛永十四年、一六三七年に勃発した島原の乱では、そのカリスマ的な人気を背景に一揆軍の総大将に祭り上げられた。戦場では十字架を掲げて民衆を率いたとも伝えられている。

この時の天草四郎時貞は、十代の半ばで十四歳とも十五歳とも言われているが、諸説があって実際のところ定かで出はない。

これら四郎率いる一揆軍は、三ヵ月(四か月とも言われている)にわたり原城に籠城したものの、最終的には食料や弾薬が尽きて幕府軍の走行気によって、原城はついに陥落して一揆軍は全滅した。

天草四郎時貞も本丸に陣取っていたところを、細川藩士に討たれて四郎の首は原城大手門前と、長崎出島の入り口前に晒されたという。

以上が寛永十四年に起きた、世にいう「島原の乱」の大筋である。

さて、昇太郎たち四人の精神体は神仙大師の命を受け、悪魔に魂を売り渡し自らも魔の化身と化した、天草四郎時貞を抹殺して魔界へ追いやるべく、寛永十五年二月二十八日四郎時貞が討ち首になってから、まだ間もない二日後の三月二日に天草島原にある原城の近くまで来ていた。

『ここが有名な、天草四郎の首が晒し首にされたという、原城か……』

『む、まっこと鬼気迫るものを感じるのう…』

『うむ、まさしく妖気が漂っているようだわい…』

『お三方とも、わたくしたちは物見遊山に来たのではありまぬ。神仙大師さまも、魔と手を組みし者ゆえに気を引き締めて掛らねばならん。と、おっしゃっておられたではありませぬか。それなのに、そのような呑気なことを云っている場合ではございまぬ』

神の子と言われ、数々の奇跡をも示したと伝えられる、天草四郎が如何なる理由で魔と手を結んだのか、ソーラには知る由もなかったが龍馬や信長までが、のんびり構えている姿にいささか苛立ちを感じていた。

『しかし、ここで三千人もの民百姓が、皆殺しにされたというのも信じ難い話ですね。信長さん…』

『うむ…、わしも生きていた頃は、かなり無茶なこともやってきた方だが、三千人とまではいかなかったな……』

信長は龍馬の話も聞こえていないのか、まるで独り言のようにつぶやいた。

『し…、信長さま。みなさま、お静かに…、誰かまいります…』

その者は足音もなくちかづいて来た。その者の胸には銀色に光り輝く十字架(クルス)が架けられていた。

『むむ…アイツじゃき、アイツが天草四郎じゃき、胸に十字架が架かっておろうが…』

龍馬のいう通り、天草四郎と思しき若者の胸には、まさしく銀の十字架が架けられていた。そして、天草四郎は真っ直ぐ原城へと向かって行くところだった。

『みなさま、しばらくここでお待ちくださいませな』

『どこに行くんだい。ソーラ、ひとりで…』

『わたくしが先に行って、あの方がまことの天草四郎なのかどうか、確認してまいります』

『やめろよ。そんなの、危険だよ。相手は悪魔と手を結んでいる、魔の化身なんだぜ…』

『そうじゃ、止めたほうがいいぜよ。何なら、わしも付いて行ってやろうか…』

昇太郎は必死に引き止め、龍馬も同調するように言った。

『いいえ、わたくしも神仙大師さまより、全法力を授けられし身なれば、神仙一族のひとりとして、このまま彼を見過ごすわけにはまいりませぬ』

『よかろう…。ならば、行くがよい。いざとならば、わしらが駆けつければ、それで済むこと…』

『ありがとうございます。信長さま。それでは、わたくしはまいりますれば…』

ソーラは、自分に賛同してくれた信長に礼を述べると、いまや原城の大手門に差しかかろうとしている、天草四郎の後を追って行った。

天草四郎の後ろ姿には、さすがに魔の力が重なり合っているように、一部の隙も見えなかった。それでもソーラは、天草四郎の精神体に慎ましやかに声を掛けた。

『あの…、もしや…、あなたさまは、天草四郎さまの精神体ではございませぬか…』

『いかにも、わたしは神の子フランシス益田四郎時貞ですが、あなたはどなたなのですか』

『やはり、そうでありましたか…。それでは何故に、その神の子と申されるあなたさまが、魔の者と手を結んでまでして、人間に復讐をしようといるでありましょうや…』

『復讐…、ふふふふ…、当然でしょう。わたしは二日前、討ち首にされ晒し首なった、自分を見た時にわたしは誓った。例え悪魔に、この魂を売り渡そうとも、わたしをこんな目に合わせた人間どもを、根絶やしになるまで呪って苦しめてやろうと…。そして、わたしはついに魔の力を得ることに成功したのです。

わたしは、ただ単に悪政に苦しんでいる、民百姓に手を貸しただけなのに何故あって、このような無残な目に遭わなければならないのでしょうか…。さあ、そこをお退きください。わたしはまだ、この原城に成し遂げねばならなぬことが残っているのです。さあ、そこを早く退きなさい…』

天草四郎は鬼気迫る形相で、ソーラに詰め寄ってきた。

『待て…、やはり貴様が天草四郎時貞であったのか』

ソーラが危ないと見たのか、信長が真っ先に駆け寄ってきた。続いて龍馬と昇太郎も走り寄ってきて、天草四郎の周りをぐるりと取り囲んだ。

『何ですか。あなたたちは…、わたしがしようとしていることに、邪魔だてをしようとするのであれば、如何なる者とても容赦はいたしませんよ。早く、そこを退きなさい…』

細面(ほそおもて)のまだ少年らしさが抜けきらない、四郎時貞の顔がますます険しい表情に変わって行った。

『そうはいかんぜよ。神の子かなんか知らんけんど、なんでまた神ならいざ知らず、悪魔なんかに魂ば売り渡さなくちゃいかんのじゃ。悪いことは云わんから、おんしも早く魔界なりなんなり、おとなしく帰ったほうがいいぜよ』

『ふふふ…。もし、いやだと云ったらどうするおつもりですか。みなさん…』

『もし、どうしてもいやだと申すのなら、わしらの手で二度と復活のできよぬうにしてくれるまでのこと。それでも去らぬと申すのか…。このキリシタンバテレンめが…』

信長もいささか興奮気味に言った。

『嫌です。わたしには、まだやらねばならぬことが山ほど残されておりました。それを絶たれたわたしの悔しさが、あなた方にお判りになりますか…。

弱い者が泣きを見るのが人の世の常です。わたしは高い年貢に苦しめられている、民百姓のために少しだけ手を貸してあげた。ただ、それだけのことでわたしは討ち首にされ、一揆に加担したとされて三千人にも及ぶ民百姓が皆殺しにされました。このような理不尽なことが、許されるはずもありません。

だから、わたしは徳川幕府が憎い。いや、それを見て見ぬふりをして、何も手助けをしてくれなかった人間を憎みます。それ故に、徳川幕府も否、高みの見物を決め込んでいた人間すべてを、呪って呪って呪い殺してやろうと決めたのです。そのために、わたしは魔の大王と手を結びました。

だから、もう後には引けないのです。さあ、まず手始めとして、あなた方から先に血祭りにして差し上げましょう。いざ…』

と、言って、天草四郎は胸の前で両手を結んだ。

『待て…、きみは狂っている…。「神の子」なら、どうして神の子らしくもっと神聖な心を持てないんだ。何故、悪魔なんかと手を結ばなにくちゃいけないんだ…』

昇太郎も、いままで抑えていたものを、一気に吐き出すように叫んだ。

『いいえ、問答は無用です』

言ったかと思うと、四郎の身体(からだ)はふわりと空中高く舞い上がていた。

『待てぇ、天草四郎。逃げるのか…』

叫ぶと同時に昇太郎も空中に浮かび上がっていた。

『来ましたね。わたしは逃げはしませんよ。ふふふふ…、それでは、わたしの十字架風を受けてみなさい。えい…』

四郎の組んだ両手に力が加わったとみるや、どこからともなく無数の十字架が昇太郎をめがけて飛んで行った。

『あ、昇太郎が危ういぞ。わしらも応援に行こう』

信長の号令とともに、龍馬もソーラも一斉に空中に舞い上がっていた。

昇太郎は飛んでくる十字架に対し、

『万華変〝岩〟』

と、叫んだ。すると、昇太郎の体は一瞬にして大きな岩と化していた。

バキーン、バキーン、バキーン、バキーン………、凄まじい音を立てて十字架は昇太郎に当たって、弾き返されて次々と落下していった。十字架を弾き飛ばすと、すぐに昇太郎はもとの姿にもどると、

『さあ、今度はぼくの番だ。行くぞ。〝龍翔火〟』

昇太郎が叫ぶと、炎の尾を引く龍のような火炎球が、天草四郎めがけて飛んで行くと、四炉路ロ炉路ロ炉路ロ炉路ロ炉路ロ炉路ロ炉路ロ炉路ロ炉ろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろろ郎の周りを取り囲むように回転し始めた。最初はゆっくりと、そして徐々に速度を速め範囲も次第に狭まって行った。

すると、四郎は火炎を逃れるようにして空中高く舞い上がって行く。

『逃してはならん。追え…』

信長が先頭を切って、四郎を追いかけるように宙を舞った。

『信長さんに負けるな。わしらも追いかけろ…』

龍馬とソーラも、昇太郎とともに四郎を追ってさらに高く宙に舞い上がった。

『さぁて…、今度はわしが相手じゃ、行くぞ。キリシタンバテレンの若僧が〝戦国風神雷神の舞い〟見事受けてみよ。デャアァ…』

 信長が叫んだとみるや、何処からともなく風神と雷神が現れ、舞いながら稲妻と強風を起こして四郎を襲った。

 雷神は舞うように踊り太鼓を叩いた。雷鳴が轟きわたり電光が四郎に襲いかかる。風神は担いでいた風の袋を小開けにすると、突風よりもさらに強い風を四郎に吹きつけた。

『グワァ…、おのれ…。小癪(こしゃく)な…。魔の大王よ。われに力を…、もっと力を与えたまえ……』

 四郎が天に向かって叫んだ。すると、たちまち黒雲が湧き上り四郎の姿をすっぽりと包み込むと、何処へともなく飛び去って行ってしまった。

『ふん…、口ほどにもない奴めが…』

『信長さま。とにかく地上に一度戻りしょう。なかなか手強い相手、ここにいればまた襲って来るやも知りませぬ。みなさん、一度戻りましょう』

『くそ…。まったく、わしの出番がなかったき、なんと逃げ足の早か男じゃ…』

龍馬も悔しそうに、右腕を振りながら指を鳴らした。どこの誰とも判らない輩に暗殺され精神体と化した龍馬は、現在でも負けん気の強さだけ健在のようだった。

地上に舞い降りた四人は、天草四郎の晒し首にされている前に立っていた。

『こげなあどけん顔ばしていて、なんで悪魔なんかに魂をば、売り渡さねばならんかったのかのう…』

『まったくじゃ…。わしも、このくらいの頃は大うつけ者と云われながら、一般庶民のガキ共と一緒になっての山を駆け回っていたものだが、こやつ人生の歯車はどこかでまったく違う歯車と噛み合ってしまったらしいな…』

 信長は龍馬に同意するように自分の過去を振り返りながら、改めて四郎の晒し首を見ながら言った。

『でも、考えてみると何だか哀れな気もするなぁ…。この若さで、いくら歯車が噛み違ったか知れないけど、討ち首にされてこんなところに晒し首にされたんじゃ、人間を呪いたくなるのも分かるような気がするよなぁ…』

『昇太郎さま。同情するお気持ちは解からないでもありませぬが、天草四郎はもはや魔界の者と手を組みしもの、次はどのような手を打って来るやもしれませぬ。どうぞ、ご油断だけは召されませぬように…』

 ソーラは、昇太郎の優しさが分かり過ぎるほど分かってはいたが、やはり昇太郎の                                                                身の危険を案じての言葉だった。

『さて、これからどうするかだな…。いつまでもこんなところにいても始まるまい』

『それでは、こうしたら如何でしょう。一旦仙境に戻りまして、改めて計画を立て直したほうかよろしいかと、それに神仙大師さまにご報告を申さねばなりませぬし、大師さまよりご助言を頂けるやも知れませぬ。仙境におれば、いかに天草四郎であろうともよもや襲っては参りますまい…』

『そりゃ、いいぜよ。あの大先生なら、何かいい手段も持っているのじゃないかのう…』

 ソーラの提案に、龍馬が真っ先に賛成した。

『うむ、あの古びた街並みが、妙に懐かしさを感じさせてくれるわい…』

 と、信長も目を細めながら賛同した。きか

『うん、ぼくもひさしぶりにソーラの館で眠りたいな…。それにソラシネだって、龍馬さんのことを待っているんじゃないのかな…』

『おお、そうじゃった。ソラシネがわしの帰りを待っているんじゃった』

 龍馬は、恥も外聞も忘れたように、ほこほこと笑みを浮かべた。

『さて、それでは参りましょうか。みなさま』

ソーラを先頭して一行は空高く舞い上がり、一路神仙境を目指して飛び立って行った。

しばらくぶりの仙境だった。古びたままの街並みもそのままに、ひっそりと静まり返っていた。

『いや、まっこと久しぶりに帰ったような気がするが、ソラシネはどげんしとるとじゃろう…』

 龍馬は、さっそくソラシネの待っている部屋へと向かった。

『いま帰ったき、ソラシネは元気にしとったとか…』

『お帰りなさいませ。龍馬さま…』

ソラシネは三つ指をついて龍馬を迎い入れた。

『元気にしとったとか…。ソラシネ、ほうか、ほうか…』

 明日は精神大師のところに、報告をしに行くことになっていたが、ソラシネが怖がるといけないので、天草四郎の話はしないでおこうと思った。

 翌日、龍馬はソーラ昇太郎信長とともに、精神大師の館へと向かっていた。

『大先生は、どんな顔をするじゃろうかのう。どうせ、大先生のことだから、とっくにご存じだとは思うが…』

『それはそうでしょうとも、あのお方はすべてお見通しの千里眼をお持ちですもの…』

『うむ、わしを初めてみた時も、何から何まで見抜いておられた。大したお方じゃ』

 信長も龍馬とソーラの言葉に納得したように頷いた。

神仙大師の屋敷に着いて門番に声を掛けると、神仙大師はすでに待ち兼ねているとのことであった。すぐに大師の間に通されると、神仙大師はソーラたちの来るのを、いまや遅しと待っていた様子で、ソーラが挨拶をする前に大師のほうから訊いてきた。

『その方たちもご苦労であった…。天草四郎時貞と申す者、わしが考えておった以上になかなかの強者ぞ。まして魔の大王と手を結びおったからには、並大抵の手段ではそうそう討ち取ることも出来ぬやも知れん…。

 その方たち四人がかりで、相対しても取り逃がすとはな……。実に手強いと見なくてはなるまい。して、天草四郎には勝てる見込みはまったくなかったのか…。ソーラ』

『はい、実際に戦ったのは、昇太郎さまと信長さまのみで、そのうちに黒雲を呼んで逃げられましてございます』

『何…。その方たちは、ひとりひとり個別に戦いを挑んだと申すのか…。たわけ者めが…』

 神仙大師は珍しく怒りを露わにした。

『何という愚かしいことをしてくれたのじゃ。

 よいか、天草四郎には魔の一族が加担しておるのだぞ。計り知れない力を有しておるのに、個別に挑むなどという愚かなことはやってはならぬ。その方たちも知らぬはずがあるまい。一本の矢はたやすく折れても、三本四本とまとまれば簡単には折れぬということを。

 それと同じことじゃ、その方たちは四人揃っておる。法力を使う時は個別に使ってはならん。使う時はみな同じ法力を一斉に使うがよい。しかし、四郎時貞はいまや魔の化身となった者。くれぐれも油断をしてはならぬぞ。

これはな。わしからの助言じゃが、魔の者には〝電光の矢〟を用うるがよい。魔とは闇に潜み入しもの、故に彼らは光を極度に嫌っておるのじゃ。もし、それでも梃子摺(てこず)るようなことがあらば遠慮することはない。わしを呼びなさい。わしが的確な法力を用いて対処してやるほどにな…』

神仙大師は、そこで一旦口を閉ざした。

『あのう…、大師さま。ひとつお尋ねしてもよろしいでしょうか…』

 と、昇太郎。

『何じゃ、昇太郎。申してみよ』

『はい、その〝電光の矢〟というものは、どんなものでどうやって使うのか、ぼくはまだ知らないのですが…』

『それならば、ソーラが分かっていよう。ソーラに教えてもらえばよいぞ』

『あの…、神仙大師さま。恐れ入りますが〝電光の矢〟につきましては、わらわも未だかつて使用した経験がございませぬ。果たしてうまく使いこなせるかどうか…』

『うむむ…、ソーラまでが何を申すか。その方、それでも神仙一族の者か。たわけ者めが、もうその方たちは任せておけぬわ。誰か斉天大聖を呼べ…』

『せ、斉天大聖…って、孫悟空を呼ぶのですか……』

 昇太郎がびっくり仰天して訊ねた。

『そうじゃ、このまま魔の化身などという者を、野放しにしておいたのでは、神仙境の沽券に関わることじゃからな』

『ちょっと待ってくださいよ。神仙大師さま、いくら何でも孫悟空を呼ぶなんて、あまりにも無茶ですよ。それではまるで、ぼくらがまるっきり役立たずの木偶坊と、云われているのと一緒じゃないですか。もう少し、ぼくらにやらせてください。それでもダメな時は孫悟空でも何でも呼んでください』

『孫悟空でも何でもとは、ずいぶんと云ってくれるじゃないか…』

 その時、後ろのほうで誰かの声がした。

『おお、悟空か、だいぶ早かったのう…』

 神仙大師はいつになく相好を崩すと、にこやかに孫悟空を迎い入れた。

『ええ…、このひとが孫悟空……』

 昇太郎は思わず絶句してしまった。神仙大師から悟空と呼ばれた男は、年齢は五十歳半ばに見え割と小柄な体躯の持ち主だった。

『神仙大師さま。何か、おいらにご用でもありましたか』

『うむ、実はな。お前から見たら、そう大したことではないかも知れぬが、日本という国の寛永十五年という時代に、魔のものに魂を売り渡した、ちと面倒な者が徘徊しておるのじゃ。ここにおる、大山昇太郎を始め坂本龍馬・織田信長、そしてソーラに抹殺してくるように依頼したんじゃが、これがなかなか手強いらしくてな。相手も魔のものと手を結んでおるからの、見事に逃げ仰せられたというわけなんじゃ』

『それで、大師さまはおいらに、何をしろというんですかい』

『うむ、その者はな。お前は知らんとは思うが、通称天草四郎というてキリシタンバテレンの、怪しげな妖術を使うらしいんじゃ』

『ほう、ほう、妖術ですかい。どうせ、そんなものは子供だましの似非物に決まってまさぁ。しかし、おいらも近頃はとんと暇をこいてまして、退屈しのぎにはちょうどいいや。お手伝いいたしましょう。こいつは重しくなってきましたよ。何百年ぶりになるかなぁ…。こんなに面白いこと……』

 悟空はひとりではしゃいでいた。

『あのう…、悟空さん。つかぬことをお聞きしますけど……』

 正太郎は恐る恐る孫悟空に訊ねた。

『何だね。昇太郎くんとか云ったね。おいらに聞きたいことというのは…』

『孫悟空さんと云えば、確か…、石の中から生まれた石猿さんでしたよね。それが何で、いまは人間の姿をしているんですか…』

『何だ、そんなことか。お前さん、そんなことも知らなかったのかい。お師匠さま…、三蔵法師さまのお供をして天竺まで、経文を取りに行ったのは知っているよな。それでな、無事に経文を取って帰ってきたらお前を人間にしてやろう。と、お釈迦さまに云われたんだ。だから、いまはこうして人間の姿になったのさ。分かったかい…』

『ふーん、そうだったっけ…。何しろ、子供の頃に読んだ本だから、そこまで覚えてないや…』

『これ、そこで無駄話などしている時ではないぞ…』

昇太郎と悟空が話していると、神仙大師がもとの厳格な表情に戻って言った。

『とにもかくにも、悟空も乗り気になってくれたのじゃから、いま一度(ひとたび)寛永十五年の天草島原に翔んでもらいたい。そして、今度こそは四郎時貞を葬り去らねばならん。よいか、くれぐれも抜かるのではないぞ。いよいよ危うい時になれば、ソーラにも云うておいたが、その時はわしを呼ぶがよい。いつでも翔んで行ってくれるわ』

『よし。そうと決まったら、こうしてはおれぬわい。おいらも一旦もとの姿に戻らなくっちゃ…』

悟空が体を一回転させると、昇太郎のよく知っている孫悟空の姿に変わっていた。

ただひとつ違っていたのは、いつも悟空の頭に填まっていた、金箍呪という金色の輪がついていないことだけだった。

『あれ…、どうしたんですか。悟空さん、トレードマークの金色の輪は…』

『ああ、金箍呪のことかい。あれはお釈迦さまに人間にしてもらう時、天帝の許しを得て外してもらったんだよ。おいらも、若い頃は悪いことばかりやっていたから、仕方がないんだけどさ…』

『さあ、みなさま。そろそろ参りましょう。それでは神仙大師さま。往って参ります』

『うむ、健闘を祈っておるぞ…』

 こうして、孫悟空を加えて五人となった精神体は、再び魔人と化して人間を呪い殺さんとしている、天草四郎時貞を討ち果たすべく寛永十五年の世界へと旅立って行った。


     6


坂本龍馬、天保六年十一月十五日(一八三六年)土佐藩郷士(下級武士)坂本八平の次男として生まれる。五人兄妹で、上に長男の権平・長女千鶴・次女栄・三女乙女がいる。

坂本家は、質屋・酒造業・呉服商を営む、豪商才谷屋の分家で六代目直益の時に、長男直海が藩から郷士御用人として召し出され坂本家を興した。土佐藩の武士階級には上士と下士があったのだが、特に下士は同じ階級でも細分化されており、下級藩士・白札・郷士・従士・従士格・下席組外・古足軽・足軽・下足軽etcと、いうように細かく分けられていた。

他の藩と比べても、土佐藩は上士と下士の差別化が徹底して行われていた。

NHKの大河ドラマ「龍馬伝」でも、放映していたので記憶に新しいと思うが、一本道をふたりの下士が歩いて行くと、向こう側からは上士がやってくる。道の両側は田んぼで雨のせいか泥濘るんでいる。すると、下士のふたりは慌てて田んぼに入り、土下座をして上士が通り過ぎるのを待っている。上士のほうは土下座をしている下士を一瞥すると、せせら笑いをしながら通り過ぎるのである。こうして、土佐藩の下級武士差別は徹底して明治維新まで続くのである。

さて、龍馬は幼い頃に母親の幸に死別していて、三才年上の姉乙女が母親代わりになって育てられるのだが、この姉の乙女が父親に似たのか文武両道の才女で、女性ながら身長が五尺八寸(約一七四センチ)という、現代女性でもそうざらにいない堂々たる体躯の持ち主だった。その乙女に、幼い頃の龍馬は周りの子供たちに泣かされて帰ってくると、「それでも男か、泣くな」と叱りながらも、強い男になるようにと剣術を教えてくれたのも乙女だった。

やがて、龍馬は江戸に出ると北辰一刀流千葉周作の実弟、千葉定吉の桶町千葉道場に師事して、見事北辰一刀流免許皆伝を取得することなる。

 そんな龍馬が、京都近江屋でどこの誰とも判らない輩に、中岡慎太郎とともに抵抗する暇もなく、一刀のもとに額を横一文字に切られて、暗殺されたことは龍馬にとってもさぞかし無念この上もないことだったに違いない。

 その龍馬も精神体となって、ソーラと昇太郎に連れられて神仙境に来てからは、そんなことは噯(おくび)にも出さずに、「過ぎてしまったことは、どうしようもなかとじゃき…」と、言うのみだった。

 悟空も加わって総勢五人となった神仙境の精神体は、再び寛永十五年の天草島原へとやって来ていた。

『うーむ、どこを見ても貧しそうな村ばかりじゃき、まっこと飢饉が酷かったんじゃろうのう……』

 龍馬の言葉に信長も頷きながら言った。

『何だぁ…。だけど、神仙大師の御大が云っておったような、怪しげな妖気も感じないし臭いもしないな…。何故だぁ…。ソーラさんよ。ここは本当に、その寛永十五年とかいう時代なのかよ…』

 と、悟空が訊いた。

『まあ…、悟空さまには、そのような臭いまで嗅ぎ分けることが、できるのでございまするか…』

『ああ、おいらの鼻は特別に出来てるんだ。自慢じゃないが、譬(たと)え千里先の臭いでもちゃーんと嗅ぎ分けることができるんだぜ』

『ええ…、千里も先まで…。ええと、一里が四キロだから…。ええと…、四千キロも…、そんなに遠くの臭いまで嗅いじゃうの…』

昇太郎が驚いているのを余所、悟空がきっぱりと言い切った。

『なあ、ソーラさんよ。この時代には、もういないと思うぜ。もし、いるんだったら、おいらの鼻が感じないわけがないんだからさ。きっと、どこかに逃げちまったんじゃないの』

『では、悟空さまは天草四郎も「翔時解」を使えるとでも、おっしゃるのでしょうか』

『それはおいらにも判らんが、悪魔と手を組んだのなら、それくらい使えると見ていいんじゃないかな…。大体だよ。悪魔なんてヤツは、意地汚いヤツらばかりだからよ。他人のものでも何でも取っちゃう癖があるから、油断も隙もあったもんじゃないんだぜ。ホントに…』

『でも、この世界にいないとしたら、どこに行ってしまったんだろう…。

 ねえ、ソーラ、天草四郎が行きそうなところって、何か心当たりはないの…』

『さあ…、それは、わたくしには何とも……』

『確か…、天草四郎は人間を根絶やしにしてやる。とかって云ってたよね。

 だとしたら……、もっと人間の数の少ない時代があるぞ。例えば、いまから数百万年前に猿から枝分かれをして、人間としてとの独立を果たした時代だ。きっと、そこに行ったのに違いない…』

『ですけれども、昇太さま。あなたは、その場所を確実に把握できるのでございますか』

『把握ったってね…。場所はアフリカ大陸だと思うけど、学校で習っただけだから、そこまで詳しくは知らないよ…』

『冗談じゃないぜよ。アメリカだって、とてつもなく大きか広い国だって、ジョン万二郎さんから聞いたことがあるけんど、アフリカちゅうたらアメリカの何倍もあると云っとったき。そんなだだ広かところば、どうやって探す気なんじゃ…。昇太郎さん』

『龍馬さまのおっしゃる通りです。もはや悪戯に時間を無駄にしている訳には参りませぬ。一刻も早いうちに天草四郎を探し出して、魔界へと送り返してしまわなければ、神仙大師さまには顔向けも出来ませぬ』

 ソーラは切々と説いた。

『しかしのう、敵の姿が見えぬのでは、こちらとしては手も足も出せぬというもの…。これからわしらは如何いたせばいいのだ。ソーラどの』

 信長も万策尽きたような面持ちでソーラにたずねた。

『致しかたござませぬ。かくなる上は、神仙大師さまにお願いして、「永遠(とわ)の鏡」をお借りしてくるほかに手立てはございませぬ』

『ほう…。初めて聞く名じゃが…、如何なる物なのだ。その「永遠の鏡」と申す物は…』

『はい、永遠の鏡と申しますのは、万物を映し出して視ることのできる、云わば魔法の鏡のような物にございます』

『何…、万物すべてを映し出すことのできる鏡とな……』

『はい、その永遠の鏡を用いますれば、夜空に輝く星々まで見極めることが出来るとか伺っておりまするが…』

『何という……、夜空の星まで見ることが出来るとな……』

『それに、如何なる時代でも時を越えて窺い知ることもできるとか、わたくしも大師さまより伺っただけですので、実際には未だ見たこともございませぬが…』

『むむ…、何とも摩訶不思議なものがあるものよ。神仙境というところは…』

珍しいもの好きの信長は、興味津々といった面持ちで頷いた。

『それではわたくしは、これより取り急ぎ往って参りますゆえ。みなさま方は、どうぞこちらでお休みになっていてくださりませ』

 ソーラは、そう言うよりも早く姿が見えなくなっていた。

『やれ、やれ。まっこと忙しいひとじゃき、残されたわしらの気持ちも少しは考えてほしかとよ…』

 龍馬はブツブツ言いなならも、遥か遠い空の彼方を見上げていた。

『まあ、そう申すでない。あの女子も神仙大師の命を受けて必死なんだろろうから…』

 信長は龍馬をなだめるように言うと、昇太郎のほうに向き直ると小声でボソボソと訊いた。

『のう、昇太郎。その方は、わしよりも五百年以上も後の世に生きていたと云っていたが、やりお前の時代にもソーラどのが云っていたような、何でも見透せる永遠の鏡の如きものがあるんじゃろうのう…』

『はい、望遠鏡ならありますけど…、あ…、信長さまの時代にもあるじゃないですか。遠眼鏡ですよ、遠眼鏡ならわかるでしょう。信長さまも』

『うむ、遠眼鏡ならわしも持っておったぞ』

『ですが…、時代を越えて物を見るとなると、これはまた別問題でしてほとんど夢物語のようなものです』

『そうか…、やはり神仙の一族の者以外には無理か…。しかしのう、昇太郎。わしは満足しておるぞ。神仙境には戦も揉め事も何もない。みなが平等で上も下も関係なく過ごしていられる。わしの生きておった時代には、そんな穏やかな日々はまったくなかった。闘いに次ぐ闘いの日々の明け暮れだった。如何にすれば敵を打ち倒すことが出来るのかと、そんなことばかり考えて生きておった、あの日々は一体何であったのかと思うようになった。そう感じられるようになれたのも、すべて神仙境に連れてきてもらったお陰じゃ。改めて礼を申すぞ。この通りじゃ…』

信長は龍馬と昇太郎に深々と頭を下げた。 

『そんなぁ…。やめてくださいよ。信長さま…』

『そうじゃきに、信長さんほどの歴史上に名を残すような大武将が、ほがいなことで軽々しく頭を下げてもらっては、わしらの立つ瀬がないぜよ。どうかやめとうせ…』

龍馬の眼から見ても、歴史に名を轟かせた大武将である信長が、いま目の前で自分の生きてきた過去を顧みて己が行いを悔いている。そんな姿を見ているのが未だに信じ難い気持ちであった。

『うむ…、わしも昔を振り返るのはやめにしよう。ここは上も下もない、みなが平等に暮らせる世界だからのう。これからは、わしがこれまでに失ってきたものを、ひとつひとつ探し求めて生きてみようと思うておる…』

『そうじゃき、その意気込みが大事なんぜよ。さすがは天下の大武将信長さんぜよ』

龍馬は世辞や方便ではなく、信長が心からそう思っているのを見て、自分でも信じられないほどの感動が湧き上ってくるのを禁じ得なかった。

昇太郎は考えていた。孫悟空は別としても自分や龍馬、そして信長のような神仙の一族として選ばれた者で、歴史的に名前の通っている人が、外にもいるのではないかとふと思った。機会があったらソーラにでも、いつか訊いてみようと思った時だった。

『みなさま、大変長らくお待たせいたしました』

 と、ソーラが紫色の布に包まれた物を、大事そうに抱えて姿を現した。

『早かったじゃないか。それが永遠の鏡なのかい…』

昇太郎がまず真っ先に駆け寄り、重そうに持っている荷物を受け取った。

『遅くなれば、それだけ天草四郎を取り逃がしますゆえ、取り急ぎ戻ってまいりました。しかし、この永遠の鏡は門外不出の物とのことで、本来ならば持ち出しは厳禁とのことでございましたが、ことは急を要すると判断された神仙大師さまが、特別に持ち出しを許可してくださりました。これが、その永遠の鏡でございまする』

ソーラは包み物を昇太郎から受け取ると、急いで包みをほどくと中から銅鏡のような物を取り出した。

『何だ。ただの鏡ではないか…。こんな物で誠に天草四郎の足取りを掴めると申すのか…』

『とんでもございませぬ。信長さま、これこそは時を越え処を越えて、万物を映し視ることのできる永遠の鏡でございまするぞ。そのように軽々しく申されては困りまする…』

『これは、わしが悪かった。許せ…、ソーラよ』

 信長も自分の非を認め素直に詫びた。

『それでは参りまする。天草四郎時貞が何処に潜んでいるのか、これよりすぐに調べまするゆえ、いましばらくお待ちくださりませ』

 ソーラは、何やら呪文めいた言葉を唱えると、即座に踊りだして着衣を次々と脱ぎ始めた。

『おい…、そこまでしないとわからないの…』

 昇太郎が龍馬たちの眼を憚るように言うと、

『しばらくお静かにお願いいたします。昇太郎さま』

 と、窘めるように言いながらも、ひたすら踊り続けて行った。

『まっこと美しか踊りじゃき、まさに天女の踊りだぜよ…』

『うむ、まさしく天女の舞いそのものじゃ…』

 龍馬も信長も、ソーラの華麗なる裸の舞いに見とれていた。

 ソーラが、しばらく踊り続けていると、永遠の鏡の鏡面が音もなく光り始めた。

『あ…、何か鏡が光り始めたぞ…』

 最初に気がついたのは昇太郎だった。

 それを聞いたソーラが、急いで着衣を身につけて戻ってきた。

鏡面には、初めのうちボヤケていた画像が、次第に輪郭のくっきりとしたものに変わって行った。

『こ、これは、何というところに逃げ遂せたのでありましょうか…』

ソーラはひどく驚いた様子で、昇太郎にしがみついてきた。

『ここがどこだか判るのかい…。ソーラ』

『はい、これはいまから一万年ほど昔の、昇太郎さまたちの言葉にて申しますところの、縄文時代というところにございまする』

『じ、縄文時代…。何でまた、アイツはそんなところにいるんだぁ…』

『何じゃ…、その縄文時代と申すのは…』

 信長がオウム返しのように訊いた。

『信長さまが知らないのも無理はありませんね…。縄文時代と云うのは、いまソーラが云ったように約一万年前から三千年くらい前頃に、日本に棲んでいた現日本人と云われている、縄文人が生きていた時代のことです…』

と、昇太郎が説明を始めた。

『…で、この縄文人たちは初めは木の実や貝などを採取したり、狩猟をしてイノシシやシカなどを捕らえて生活していたんですが、そのうち朝鮮から大陸を経由して九州辺りに稲作が入って来たんです』

昇太郎は順を追って説明を続けて行った。

『…と、いうわけで、稲作の水耕栽培は徐々に日本中に広がって行ったんです。もっとも、その頃は、まだ日本なんて国はどこにも存在しなかっんですけどね…』

『うーむ…。昇太郎、その方はなかなかの物知りじゃのう…』

昇太郎の話を、信長は感心しながら聞き入っていた。

『しかし、何ゆえに天草四郎は縄文時代などという、とんでもない時代に行ったのでしょうか…』

 ソーラならずとも、その不可思議な行動には何かしらの不振を抱いていた。

『うーん…、それが解れば苦労はしないよ……。いや、待てよ…。アイツは人間をひとり残らず根絶やしにしてやるとか云ってたな…。もしかしたら、現日本人とも云われている縄文人に狙いを絞ったとしたら…、大変だぁ…』

 昇太郎は急に慌てだした。

『どうした。如何いたした、昇太郎』

『大変ですよ…。信長さま、龍馬さんに悟空さん。もし、天草四郎が縄文時代に行って、縄文人を皆殺しにでもしたら、その時点でぼくたちはこの神仙境からも消え失せてしまうかも知れないんですよ…。どうしたらいいんですか…』

『どういうことなんじゃ、もう少し詳しく話してみろ。しっかりいたせ、昇太郎。焦るでない…』

昇太郎を落ち着かせようとして、信長は昇太郎の両肩を押さえながら言った。

『だ、大丈夫です…。信長さま、実はいま大変なことに気がついたんです…。天言った。

『そのようなことを仰せられましても、わたくしは此度初めて永遠の鏡を使いますゆえ、草四郎が、何故縄文時代に行ったのかというと、いまから一万年前の縄文人と云えば、信長さまや龍馬さんやぼくたちみんなの大先祖に当たるわけですよ。特に一万年前の縄文人なら、それほど数も限られているでしょうから、もし、その大先祖が根絶やしにされたら、どうなると思いますか……。その時点で、いま生きている人間界の人たちはもちろん、神仙境にいるぼくたちもすべて、一瞬にして消えてなくなることを意味ているんです…』

『何と…、精神体のわしらまでもが消えてなくなると申すのか…。昇太郎』

『そりゃ、偉いことになったぜよ。こりゃあ、もう勤皇佐幕なんて云ってる時じゃないぜよ。わしひとりが斬られて死ぬのとはわけが違うき…、早いうちに何とかしないと、ほんに取り返しのつかんことになってしまうとよ…』

 信長ならずとも龍馬までが、まだ信じられないという様子でわめいていた。

『とにかく、こうしちゃおれないよ。ソーラ、ぼくたちもこれからすぐに縄文時代に翔ぼう…』

『わかりました。昇太郎さま…』

 ソーラは急いで永遠の鏡を片付け始めた。

『へへへへ…、やっとおいらの出番がまたようだぜ。どうせ、時を越えるんだろう…。ここは、ひとつおいらに任せてくんな…』

 孫悟空はひと声、

『筋斗雲…』

 と、叫んだかと思うと、どこからともなく筋斗雲が現れた。

『これが、有名な筋斗雲か…』

 昇太郎は物珍しさもあって、筋斗雲に触れてみたが何の感触もない、ただの雲だった。 

『さあ、みなさん。ぐずぐずしていたら手遅れになってしまいますぜ。大急ぎで乗ったり乗ったり…』

 孫悟空はみんなが乗り込むのを待って、

『筋斗雲。翔時解向、縄文時代…』

 悟空が叫ぶが早いか筋斗雲は空高く舞い上がると、いつしか雲の随(まにま)に見えなくなって行った。

『空を飛ぶというものは、誠に気持ちの良いものじゃのう…。坂本』

信長は、まるで観光にでも来たように、龍馬に話しかけた。

『まっこと気持ちよかとですね。わしも空ば飛ぶのは初めてじ

ゃき、ほんに気持ちよかとですよ』

『何を、そんなに呑気なこと云ってるんですか…。おふたりとも、ぼくたちは遊びに来たわけじゃないんですよ。ちゃんと見張っててくださいよ。天草四郎はどこにいるか判らないんですから、お願いしますよ。龍馬さも信長さまも…』

『分かった、分かった…。案ずるでない。わしもしかと見張っておるから、心配いたすな。昇太郎』

 信長は物見遊山気分が抜けないのか、相変わらず方々を見渡していたが、あの妖気漂う天草四郎の気配すら感じ取ることはできなかった。

『ねえ、ソーラ。ここは縄文時代のいつ頃の区分に入るんだい…』

『はい、わたくしもはっきりとは分かりませぬが、たぶん縄文時代の後期か晩期かと思われますが…』

『後期か晩期じゃ駄目だな…。いいかい、考えてもごらんよ。縄文時代というのは、少なく見積もっても一万三千年も続いているんだ。この時代は後期になればなるほど、どんどん人数も増えて多様化しているんだよ。そんなところをアイツが狙うはずがない…。狙うとしたらもっと先だ。旧石器時代から枝分かれをして、縄文文化が始まったばかりの頃を狙うに違いないんだ…。そこを探そう』

『おのれ…、如何に魔の化身となりさらばえようと、なんと悪辣(あくらつ)な奴めが…』

 信長は怒りに身を震わせて、自らの周りにオレンジ色のオーラを噴き出させた。

『それにしたって、縄文時代は一万三千年もあるんですよ…。いちいち探し回っていたら、時間と手間暇がかかってどうしようもないや。何とか手立てを考えなくちゃ…、何かいい方法がないのかな…。確実にアイツのいる年代を割り出せる方法が…、何かないのかなぁ…。うーん……』

 昇太郎はしばらく考え込んでしまった。

『でも、昇太郎さま…。一万三千年もともなりますれば、相当の期間になりまする。それをどのようにして、割り出すおつもりなのでございまするか…』

『だから、それをいま考えているんじゃないか。頼むから、もう少し静かにしていてくれないか…』

『申しわけございませんぬ…』

 ソーラは素直に詫びた。

『よし、分かった。それならば、おいらは独自に各時代ごとに周ってみるか…。ここで何もしないでいるよりは増しだろう。筋斗雲…』

 悟空は取り急ぎ筋斗雲を呼ぶと、

『少しでも何かわかったら、すぐ知らせるからな。じゃ、あばよ…。おいら、行くぜ…』

悟空は、瞬くうちに筋斗雲に乗り込むと、空の彼方へと飛び去って行ってしまった。

『ソーラさん。わしらも、こんなところでいつまでも愚図愚図してはおられんとよ。まっこと、何かいい手はないのんかのう…』

『そうは申されましても…、わたくしといたしましても、もはや何も打つべき手段(てだて)は何も浮かんではまいりませぬ…』

 と、その時、

『そうか…。その手があったか!』

 昇太郎が大きな声で叫んだ。

『何ごとじゃ、如何いたした。昇太郎…』

『判りましたよ。信長さま、龍馬さん。もう一度、この永遠の鏡を使って調べれはいいんですよ。ねえ、ソーラ。この鏡に映った映像の年代とかも判るんじゃないのかい…』

『はい、判るのではないかと存じまする。この鏡には、わたくしども神仙一族にだけ判読することができる、文字を映し出すことができますゆえ、詳しい年代もしかと確かめられまする…』

『だったら、どうしてもう少し早く云ってくれないんだよ。ソーラは…』

 ゆったりと構えている神仙女のソーラに、いささか苛立ちを覚えながら昇太郎は何かと不慣れなものでありまして、まことに申しわけありませぬ…』

『わかった、わかった。もういいから、早く映してみてくれ』

ソーラは、また鏡の前で踊り始めた。昇太郎たちは鏡の前で、天草四郎が潜んでいるであろう、縄文時代のその年代が映し出されるのを、いまや遅しと待ち構えていた。


     7


 いまから数万年前の日本は氷河期で、地球全体の陸地はほぼ氷に覆われていた。その頃の陸地は凍った土地が多くあり、いまよりも海水面が低く日本列島は、まだ大陸と陸続きだった。そのためにナウマンゾウやマンモス・オオツノジカといった、大型の哺乳類も更新世後期にシベリアを経由して北海道に渡来していた。

 人間(新人)は約三万年前に渡って来ていたが、まだ石器時代であり打製石器を使っていた旧石器時代であった。その頃の人間は一定の場所に定住せず、住居は簡単なつくりの小屋や洞窟などで暮らしていて、動物を狩り木の実などを採取して生活していた。

 いまから約二万年前頃になると気候も安定してきて寒冷化が収まりだした。そして、一万年前にはついに氷河期が終わりを告げた。それに伴い極地や氷河の氷が溶けだして、海水面の上昇によって日本列島は大陸から切り離されて、ほぼ現在の形になったと考えられている。

 このようにして、気候も暖かくなってくると農作物も育ちやすくなって、縄文人の始祖たちも定住した生活を送るようになった。それまで過酷な環境の中で生活を強いられてきた人間は、この年代になると西アジアを中心として農業が始められていた。気候が温暖化してきたために、農作物が育ちやすくなったためと考えられている。しかし、この時代の農業はまだ黎明期のもので、本格的に農業が始まるのは弥生時代に入ってからである。

 この時代の住居は竪穴式住居といい、浅く土を掘り起こして柱を立て、木の枝や草などで簡単な屋根を作っただけのものであった。定住化が進むにつれ、次第に農業や土器の生産が始められていった。この時代の土器はドングリなどの煮炊きや保存のために使われていて、土器の表面に縄の文様がついていたために縄文土器と言われ、この時代のことを日本では縄文時代と呼んでいる。


 さて、こちらは天草四郎が人間を根絶やしにしようと企んで、やって来たと思われる縄文時代初期の日本のとある場所。

 荒涼とした草原には和らかな風が吹き渡り、空には眩いばかりの太陽が光り輝いていた。小高い丘の岩の上に立つ、陽炎のように揺らいで見えるひとつの影があった。

 その影は、不気味な含み笑いを浮かべながら呟くように言った。

『ふふふ…、ここなら、この時代なら人間を根絶やしにすることなぞ、赤子の手を捻るより容易いわ。ふふふ、はははははは』

 影の正体は、昇太郎たちの前から姿を晦(くら)ました天草四郎だったのだ。昇太郎の読み通り、やはり天草四郎は日本人の祖先である、縄文人を根絶やしにするために縄文時代にやって来たのだろうか。

『さて、どうしてくれようか…。大洪水を起こして溺れ死させてくれようか…。それとも大地震を起こし、地割れに飲み込ませてやろうか…。ふふふ、いまに見ておるがよいわ。わたしをこんな目に合わせてくれた奴らめが、その子々孫々に至るまでみんな根絶やしにしてくれるわ。ふふふ、はははは……』

 天草四郎時貞は自らを神の子と称しながらも、まるで魔人のような形相でいつまでも笑い続けていた。

『さて、そろそろ始めるとしましょう。まずは、一番人数の多く住んでいそうなところを探しましょう…。ひとりやふたりではお話になれませんからね。獲物は少しでも多いほうがいいと云いますから、そのほうが、こちらとしても手間が省けますから、それにわたしもやらねばならないことが、山ほど残っている身ですからね…。まず、あっちのほうから行ってみましょうか…』

 天草四郎は、ふわっと空に舞い上がると空の一角を旋回し始めた」

『よろしい、あちらのほうから始めましょう…』

 何やら目星をつけたのか,天草四郎は一定の方向を目指して飛び去って行った。

 縄文時代の草創期だけあって、まとまった形で縄文人たちが棲んでいそうな場所は見つからなかった。それでもしばらく飛んでいると、草や木を集めて覆っただけの見るからにみすぼらしい小屋が立ち並ぶ、集落とまではいかないが竪穴式住居の集まりが見えてきた。

『ふふふ…、見えてきましたよ。それにしても、わたしの時代に比べたら何とちっぽけな小屋だこと…。まず、手始めにあそこから餌食にいたしましょう…。ふふふ、ははは…』

天草四郎は、縄文初頭の小さな部落の近くを流れる川のほとりに降り立った。四郎は自ら川の中まで歩いて行くと、体の向きを変え両手を高々と上げて叫んだ。

『水よ。立ち昇るがいい、そして、あの醜く薄汚い人間どもを吞み尽くすのだ…』

 すると、川の水はザザザザーっという音とともに、大きな噴水のように四郎の何倍もの高さまで盛り上がっていった。

『さあ、水よ。地に溢れて、あの醜い獣どもを押し流してしまうがいい…。ふふふ、ははは』

 だが、盛り上がった水は、四郎の意に逆らうように流れ出ようとはしなかった。

『こ、これは、どうしたことだ……』

『おおッと、そんなことは、この斉天大聖孫悟空さまがさせるもんかい』

 声のするほうを見ると、筋斗雲に乗った孫悟空の姿があった。

『そうだとも。ぼくたちだって、そんなことは絶対にさせないぞ。天草四郎、ぼくの読み通り、やはりこんなところにいたのか』

 昇太郎たち四人の精神体も、天草四郎を取り囲むように姿を現していた。

『おのれ…、しつこい方々ですね。あなた方も、いいでしょう。わたしも面倒なことはあまり好みませから、この辺でまとめて血祭りにして差しあげましょう…』

『おっと、待った。ここはおいらに任せてくんな。こんなヤツは、おいらひとりでチョイとひねり潰してやるから、みんなはそこで見ていてくんな』

『ほざいてくれましたね。お猿さん、いいでしょう。まず、あなたから血祭りにしてあげましょう。えい…』

 天草四郎は、一気に悟空のいる中空まで舞い上がって行った。

『ふふふ…、ひねり潰せるものなら、ひねり潰して頂きましょうか。こちらも黙って指を咥えているわけにはまいりません。バンドーラ妖法「無限地獄」受けてみるがいい…。えーい』

 悟空は、咄嗟に自分の髪の毛を数本むしり取ると、天草四郎を目がけて吹きつけた。それは暗黒の闇が悟空を覆い包むのと同時に、数十人にも及ぶ孫悟空が天草四郎に襲いかかっていた。

『お、何か危なかことになったき。またしても、黒雲が悟空さんを包み込んでしもうたぞ…』

『む、いかん…。わしらも行ってみよう。それ…』

 信長のひと声で、みなが一斉に黒雲の中に飛び込んだ時、天草四郎は大勢の孫悟空を相手に戦っている最中だった。

『こしゃくな猿め…。無限火焔地獄を喰らえ…』

 大きな火焔の輪が高速で回転しながら、孫悟空の群れを次々と焼き払って行く。悟空の群れは無残に燃えて焼け崩れて行く。と、見ると、どこからともなく巨大な如意棒が飛び出してきて、一撃のもとに天草四郎を打ち倒していった。

『ぐわぁ……』

 不意を突かれた天草四郎は、如意棒の衝撃に耐え切れずに、黒雲の中から弾き飛ばされてしまった。四郎を失った黒雲はたちまち消え失せて、そこには元の空間が広がっていた。

『いかん…、ここで逃がしてしまったら、あとあと面倒なことになる。みんな手分けしてアイツを探し出してくれ』

 悟空はいつもの飄々とした表情ではなく、敵である天草四郎に対して幾分甘く見ていたことへの、自分なりの戒めを含めた厳しい表情で言った。

『しかし、ヤツも大したこともないな。神の子だか、悪魔の申し子だか知らんが、尻尾を巻いて逃げ出すなんざ、そんじょそこらにいる、ただの悪ガキと一緒じゃないか…。おいら少しばかり買い被っていたようだぜ。フフン…』

 悟空は聞こえよがしに言うと、収まりがつかないのか如意棒をブンブン振り回した。

『悟空さん。そんなに大きな声で言ったら聞こえますよ…』

『うむ、聞こえているだろうな。たぶん…、しかしな、昇太郎。彼奴(あやつ)も当分は襲っては来るまいて…、強がりは云っていても所詮は悟空の云う通り、まだ子供なのだろうよ…』

信長も一万年もの時を隔てた、縄文の地まで来て悪魔の化身になり下がった、天草四郎を取り逃がした呵責の念は、みながそれぞれ抱いてるのだが、悟空を除けば最年長の自分が何の力にもなってやれないのが、この上もなく不満であり最大の苛立ちでもあった。

『だけんどよ…、信長さん。わしもあんたも、いまはこうして動き廻ってはおるが、わしはどこの誰とも判らん奴らに斬られて死んだ…。あんたはあんたで明智光秀の裏切りで、自ら腹を切って死んだ…。だがよ、そんなことに恨みつらみなんか、なぁんも持っとらんとでしょうが…。そこへいくと、天草四郎は貧しい農民のために、一揆の総大将として幕府軍と戦った。そして、その結果として一揆軍は皆殺しに遭い、天草四郎時貞は原城に立て籠っていたところを、幕府軍によって討ち首にされ原城前に晒し首にされた。

 人のために全力を尽くして死んだのなら、それはそれで立派なことじゃき、わしゃ何も云うことはなかとじゃが、どこに人間を根絶やしにしようとかいう、邪悪な気持ちが出てくるのか、わしにはさっぱり判らんのじゃがのう…』

 龍馬は、そういう天草四郎が魔の化身となって人間に復讐しようとする心に、自分とはどうしても相容れないものを感じながら言った。

『だがな。坂本、浅草四郎とやらも人間を根絶やしにしようなどとは、一時の気の迷いであればよいのだが、今回はそうもいきそうもないだろうな…。普通の場合なら「気の迷いでした」でも済まされるが、今回に限ってはその裏に魔の力が蠢(うごめ)いておる。これには迂闊(うかつ)に手が出せんからな。まずは相手の出方を見てからでないと、こちらのほうも痛手を被る可能性が高いぞ』

信長は信長なりに、天草四郎とその背後にある魔の勢力について、真摯に捉えようとしているのが犇々(ひしひし)と伝わってきた。

『いや、そうも云ってられんぜよ。信長さん、神仙大師の大先生からは一刻も早く天草四郎を討ち取るなり、魔界へ追い返すなりしろと云われて来てるんだきに、グズグズしとったら神仙境まで影響を及ぼすかも知れんとよ…』

『ならば、どういたせというのだ…。坂本』

『そいつが判れば、誰も苦労はしせんぜよ。だから、どうすればいいか相談ばしとるのに、まっこと話の分からんひとじゃのう。あんたも…』

『何…』

『おふたりとも、お止めくださりませ。いまはそのようことで、揉めている時ではございませぬ。ここは、いましばらくご自重くださりませ。わたくしに妙案もございますれば…』

ふたりのやり取りをに業を煮やしたのか、ソーラが中に割って入った。

『何、妙案とな…』

『それはどんなことですかいのう…』

『はい、おふたりとも「毒を以て毒を制す」という、言の葉はご存じかと思われますが、わたくしたちも、一度その毒になりきってみては如何かと考えましてございます』

『毒になりきるとな……』

『どういうことですかいのう…』

 ふたりは怪訝そうに訊いた。昇太郎にも、ソーラが何を言わんとしているのか分からなかった。

『毒には、毒を以って制す。つまり、悪にはこちらも悪で挑まなければ、ならないと云うことでございます』

『あんたも、まっこと理解に苦しむようことばかり云うきに、もっと具体的に云うてもらわんと判らんぜよ』

 いつも、ソーラの話法に難渋している龍馬は堪りかねて言った。

『これは失礼いたしました。つまり、向こうが魔の力を用いるのなら、わたくしたちも魔の力を用いて相対しましょう。もちろん、こちらは魔の力と申しましても、あくまで       も見せかけだけのものにございます』

『見せかけじゃと…。して、どのようにいたすのじゃ』

 信長もソーラの言葉に耳を傾けてきた。

『はい、この縄文の村に災いを齎すのでございます』

『その災いとは、どのようなことじゃ…』

『洪水がよろしいのではないかと…、大洪水を引き起こして村を丸ごと押し流してしまうのでございます。さすれば、天草四郎も自分にもできなかったことが起これば、何ごとかと自ずと姿を現すのではないかと思われるのですが、いかがでありましょうか』

『じゃけんど、そうやすやすと掛かるかのう…。あいつも、あれでなかなか用心深いきに、そう簡単にはいかんと思うぜよ。わしは…』

 龍馬は、また取り逃がすのを考えたのか、反対意見を唱えた。

『いや、そうでもあるまい。何より、このまま何もせずに手を拱いているよりは増しじゃろうと、わしは思うのだがどうじゃ、昇太郎』

『はい、ぼくも龍馬さんには悪いんですが、信長さまの意見に賛成します。失敗した時はした時で、また一からやり直せばいいと想います』

『それでは、よろしいですね。みなさま…』

『ちょいと待ちんしゃい、ソーラさん。まんだ悟空さんに意見ば聞いとらんきに…』

『あ、おいらならどっちでもいいぜ。失敗を恐れていては何も生まれてこないからな。どうせ、最後はおいらの出番に決まっとるからな。だから、そんなに心配するなよ』

 龍馬の言葉を押さえるように、悟空は勝算があるのか飄々と言った。

『しかしな、いくら見せかけとは申せ洪水を起こすのだ。わしらが始祖の縄文人とやらを、そのままにしておいても良いのか…』

 と、信長。

『その点でしたら、ご心配には及びませぬ。彼らには気づかれないように、別の空間に移動してもらいますゆえ、いささかの手抜かりもございませぬ』

『さようか。それならば良いが、事情も何も知らない連中じゃ。下手に騒がれても困ると思うて訊いたまで、それならばそれで良いのだ』

 ソーラの返答に信長も安堵したようだった。

『それでは、わたくしどもは中空の高いところまでまいりましょう』

ソーラがいうと、悟空は心得たとばかりに筋斗雲を呼び寄せて、空中に舞い上がって行った。

『この辺まで来ればいいのかい。ソーラさんよ』

『はい、ここなら下界のことも一望でき間ますゆえ、大丈夫かと…。それでは始めたいと思いまする』

『それにしても、天草四郎め。どこへ消え失せおったのか…』

 信長が、独り言のようにつぶやいているのを余所に、ソーラはまやかしの洪水を起こすべく儀式めいたことを始めた。すると、一転にわかに掻き曇り雨雲が湧き上り、滝のような豪雨が地上に降り注いだ。これには、さすがに信長も龍馬も驚いたようだった。

『こ、これが誠にまやかしなのか…』

雨はたちまち地上を覆いつくして、あらゆる物を押し流して行った。

『うひゃ…、これがまっことまやかしなのかい。ソーラさんよ…』

龍馬はド肝を抜かれたらしく、素っ頓狂な声を張り上げた。

『ふん、果たして天草四郎は出てくるのかな…』

信長も冷ややかながらも、自分自信を奮い立たせるように言った。

『天草四郎かぁ…、年貢や悪政で苦しんでいる百姓たちに手を貸しただけなのに、それを討首にされて人前に晒し首にされた。その悔しさは解かるけど、何も悪魔に魂を売り渡してまで人間に復讐しようなんて思うかな…。普通…』

 昇太郎も、また谷川岳の頂上から転落して、骨も内臓もグシャグシャになり死んだところを、ソーラに助けられ神仙境に連れて来られた時のことを思い出していた。ただ昇太郎の場合は、自分で選んだ道なのだから誰も恨んだりしなかったし、たまたま運が悪かったと思えばそれだけの話だった。

『シィー…、みなさま、お静かに…。何やら怪しげな影がひとつ現れました。あれは、もしや……』

 ソーラのいうと通り、その影は次第に輪郭をハッキリとさせ、最終的には天草四郎時貞となって復元して行った。

『むむ、やはり現れおったか…』

昇太郎には、天草四郎がどんな思いで現世の人間に対し、復讐を誓ったのかは判らなかったが、天草四郎をひどく哀れな人間に見えて仕方がなかった。

『あんな奴のひとりやふたりは、おいらひとりでもお釣りが来るくらいだけど、ここは神仙大師の御大の顔を立てて、みんな一気に攻めようと思うんだがどうだい。今度こそ失敗したら取り返しのつかいことになるから、気を引きしめて行かなくちゃね』

 悟空は神仙境対魔界の、この一戦に闘志を剥き出しにしていた。

『それでは参りましょう。みなさまも、天草四郎を取り囲むようにして一斉に降りてくださいませ』

悟空を先頭にして、まだ黎明期の縄文時代の高空から、天草四郎の浮かんでいる地点まで一気に舞い降りて行った。

四郎を取り囲むよう降りてきた五人を見て、

『ふふふ…、やはりあなた方でしたか、よくぞ、ここを嗅ぎつけましたね。犬より少しは増しな鼻をお持ちのようで、褒めて差し上げましょう…。ふふふふ』

『ええい、黙れ、黙れ…。先ほどはうまく逃げ遂せたが、今度こそ容赦はしないぞ。みなの者、掛かれ…』

信長は号令をかけると、真っ先に挑みかかって行った。

『ふふふ…、あなたは、確かに戦国の英雄かも知れませんが、明智光秀の裏切りによって自らの命を絶たれた。つまりは負け犬なのです。その負け犬がいくら吠えたところで、どうなるものでもありませんよ…。ふふふふ』

『黙れと申すに黙らぬかー。ならば〝戦国群狼〟受けてみるがよいわ。それー』

信長が叫ぶと、全身の毛を逆立てた黒い狼の群れが天草四郎に襲いかかった。

『ならば、こちらは〝魔界の十字架〟受けてみなさい』

天草四郎が放ったものは、これもまた黒光りする大きな十字架だった。しかも、その穂先は鋭く研ぎ澄まされた刃がついていて、それが回転しながら群狼を次々となぎ倒し、回転を増しながら信長に迫って行った。

『あ、危ない。信長さま…』

危険を感じた昇太郎が叫んだ。

『なんのこれしき…』

刀で弾き飛ばそうとした信長だったが、十字架の回転のほうが勝っていた。刀は鈍い音とともに空中に舞い上がり、十字架の切っ先が信長の胸元に深々と突き刺さった。

『ぐわぁ…』

『ああ…、信長さま…』

昇太郎は急いで信長に駆け寄ったが、その時はすでに黒い十字架は跡形もなく消え失せていて、突き刺さった傷跡からは白い煙が立ち上っていた。

『しっかりしてください。信長さま…』

『おのれ、天草四郎。神の子かなんかは知らんけんど、ようも信長さんをひどい目に合わせてくれたな。かくなる上は、このわし相手になってやるぜよ。さあ、こい…』

『お待ちください。龍馬さま』

『何で、そこで止めるんじゃ…。ソーラさん、こんなヤツはわしひとりで沢山じゃき、任せてくれんしゃい』

『そうではございませぬ…。いま昇太郎さまが看ておいででございますが、信長さまの様子がどうも尋常ではなさそうなのでございます』

 ソーラは、天草四郎には聞こえないように、龍馬にだけ伝わるように言った。

『何…、信長さんが……』

龍馬はさらに小さな声で訊いた。

『何をぐずグズしているのですか。そちらが来なければ、わたしのほうから参りますよ。ふふふふ、それでは界の十字架を、もう一度喰らうが良い…』

『いいとも、受けてやるぜよ。わしも江戸は桶町千葉道場で、千葉定吉先生に師事し北辰一刀流の免許皆伝を取得した、不服はあるまい。こい…』

『ふふふ、能書きは、わたしの魔界の十字架を、見事受けてからにしてください。行きますよ。ええい…』

またしても、黒い十字架が回転しながら龍馬に襲いかかる。龍馬は手にしていた太刀の刀身を返すと、逆手に取って飛んでくる十字架を回避しようと、真っ向から振り下ろした。次の瞬間、バキーンという音がして十字架が弾き飛んだ。しかし、龍馬の刀もあまりに大きな衝撃に耐え切れず真っ二つに折れてしまった。十字架のほうはバランスを崩したものの、体勢を立て直すとすぐさま龍馬を狙って飛んできた。

『あ、危ない。龍馬さん」

昇太郎が叫んだ。龍馬は何とか体を交わして防いだが、十字架は向きを変えると執拗に龍馬を襲ってきた。

と、その時だった。昇太郎に抱かれて瀕死の状態の信長の体から、オレンジ色のオーラが射してきた。昇太郎は驚いて身を反らすと、オーラの中からオレンジ色に光り輝く、ふたつの球体が飛び出して十字架と天草四郎のほうに飛んで行った。

ひとつ目の球体は十字架に当たると、サイレント映画のように音もなく砕けて散った。ふたつ目は天草四郎の肩口をかすめ、ジュワっという嫌な音を立てて地に落ちて消えた。

『う…』

と、うめき声をあげると、何処ともなく消え去ってしまった。

熾烈な戦いを終えて、龍馬は取り急ぎ昇太郎のところへ行った。

『昇太郎さん、信長さんの様子はどうじゃ…』

昇太郎は黙って首を横に振った。すると、信長が微かに眼を開いて龍馬を見つめた。

『おお…、坂本か…、わしは…死ぬ…のか……』

信長は途切れ途切れの言葉で龍馬に訊いた。悟空もソーラも黙ったまま見守っていた。

『何を云うんじゃ、信長さん。天下の大武将、織田信長さんがそんな弱気でどうするんじゃ。もっと気持ちばしっかりと持たなくちゃいかんぜよ…』

『坂本よ…、そんな…気休め…は…云うな……。わしには…解かる…、あの十字架が…消えた時…わしの中から…白い煙が…抜けて行くのを…わしは視た…。あれは…わしの…精神体の気だ…。あれが抜けると…わしらはもう…神仙境には…いられなくなる…そうだ…。神仙大師さまに…聞いたことが…ある…だから…その方たちとも…別れねばならん…。

 そして…、別の次元に移らねばならん…。さらばじゃ…みなの者さらばじゃ……」

 そう言い残して信長は静かに眼を閉じた。昇太郎に抱かれたまま信長の全体像は、次第に薄れて行き最後には完全に消えてしまった。

『あ……、信長さま…』

昇太郎がひと言だけ言ったが、他の者たちは誰ひとり言葉にするものなく、縄文初頭の荒野にはただ風だけが吹き過ぎて行くばかりだった。


     8


 神仙境。中空の高きに在りて人間界からは、視ることも触れることもできない場所にあるとされる。神仙とは、もっとも神に近い存在であり、これをそのまた上にある天界に棲む天帝によって差配されているという。なお、この神仙境については、中国の古書にもあまり詳しくは記述されていない。従って、これらの事柄が真実なのか、まるっきり絵空事であるのかは判然とはしていない。※(天帝:天にあって宇宙を司る神。造物主)


さて、天草四郎の魔界の十字架によって、気を抜かれて他界し別の次元に行ってしまった、信長の悲しみを胸に昇太郎たちは一旦仙境に戻っていた。

戻るとすぐに、ソーラは昇太郎と龍馬とともに神仙大師のもとに報告に来ていた。

『……と、いうわけでございまして、信長さまはまことに残念でございまするが、他界されましてございまする』

『うーむ…、魔の力を甘く見過ぎたか…。魔を相手に戦う時には、決して一対一で戦ってはならぬと申したのに、誠に惜しい精神体を失くしたか…。

だが、安心致すが良い。あれほどの神体じゃ、このままにして置くのは実に惜しい。わしから天帝にお願いして何とか致そうほどに…』

『え…、じゃあ、信長さまは復活できるのですか…。神仙大師さま』

昇太郎は即座に神仙大師に聞き返した。

『うむ、信長を失ったのでは、その方たちも寂しいだろうからのう…。それにつけても天草四郎時貞という者。なかなか手強いと見なくてはなるまいの…。意外と容易ならぬ相手かも知れんて…』

『でも、大師さま。信長さまは、最後の力を振り絞ってオーラの球体を飛ばして、魔の十字架を打ち砕き、天草四郎にも何かしらの傷害を与えたと思われます。その証拠に、うめいたと思ったら急に姿を消してしまったんですから…』

『そうじゃ、わしも見たぜよ。大先生、信長さんのオーラ球でアイツもどこぞを、痛めているのに違いないきに…。わしも信長さんのお陰で命拾いしたんじゃが、それにしても

クソ忌々しい…』

龍馬も思い出したように舌打ちをした。

『神仙大師の御大よ…』

何を

思ったのか、悟空が大師に話しかけた。

『いま考えたんだが、おいらよりはまるで頼りはないが、八戒と悟浄も連れてっていいかい。あんな奴らでもいないよりは増しだろうからさ』

『何…、八戒と悟浄とな…。これは、まさに西遊記の再来じゃのう。それじゃ、さしずめ昇太郎は三蔵法師というところかな。ホホホ、面白いやってみなさい』

神仙大師も遊び心があると見えて、ひとりで悦に入っていた。

『しかし、これだけは申しておくぞ。此度は天竺に経文を取りに行くわけでもない。天草四郎を追って、もしかしたら、宇宙の果てまででも行かねばならんやも知れんのだ。

そして、的確な手段で四郎時貞を抹殺するなり、魔界へ送り返すなりをしなければならぬ。魔の者は、凶悪かつ何の躊躇(ためら)いもなく襲ってくるであろう。油断だけはしてはならぬぞ。さすがに今回のようなことは、もう二度とあってはならん。よいか、どうしても手におえぬような時は、わしを呼ぶが良い。必ずや助けに行って進ぜよう』

『しかし、アイツがいま頃どこにいるのかも判らんきに、どうやって探し出したらいいんですかいのう…』

『うむ、四郎時貞は自分を討ち首にした人間を、つまりは日本人を根絶やしすると云っておったのだな。だとすると、やはり数の少ない時代を狙おうとするのが必然。と、なると昇太郎の読みは、やはり正しかったと見るべきだろう。だからこそ、縄文時代の草創期を襲おうとしたのも納得がゆく。何しろ、あの時代は日本という島国は氷河期じゃったから、まだ大陸とは陸続きだったのじゃ。そして、北と南から獲物を追って渡ってきた新人たちが、そのまま居つき棲みついてしまったのが、現日本人と云われている縄文人なんじゃ』

『いや、しっかし、大先生は何でもよう知っとうとね。まっこと大したもんぜよ』

縄文時代のことなど、ほとんど知らない龍馬は、神仙大師の話を聞いて感心していた。

『そんなことより、龍馬さん。ぼくは悟空さんでも驚いたのに、八戒さんや悟浄さんにも逢えるなんて感激だなぁ』

『何じゃきに、その八戒と悟浄ってのは…』

『ああ、龍馬さんが知らないのは無理もないけど、ふたりとも悟空さんの仲間で、八戒というのは豚で悟浄さんは河童なんですよ。もともとは妖怪だったんだけど、三蔵法師さまのお供で天竺にお経を取りに行って、最後には人間にしてもらったんでしたよね。悟空さん…』

『うむ、その通りた。しかし、昇太郎さんよ。お前さんもなかなかの物知りだな』

『だって、西遊記と云ったら、世界中の九十パーセントのひとが知っている、有名物語なんですよ。知らないほうがおかしいですよ』

昇太郎は照れくさそうに笑った。

『で…、いつ来るんですか。そのおふたりさんは…』

『うん、さっきから読んでいるんだが、なかなか来ないんだよ。まったく、相変わらずグズな奴らだな…。おいら何だかイライラしてきたぜ』

そう言いながら、悟空はそこいら中を歩き回りだした。

『ちょいとお待たせしましたかね。悟空の兄貴、へへへへ』

『はい、ごめんなさいよ。沙悟浄でやすよ』

いつの間にか、猪八戒と沙悟浄が現れた。

『やっと来たか。お前らは、どうしていつもそうやってグズグズしてんだよ。もっとシッキとできないのかよ。まったく…』

『それがね。兄貴、わしはもう少し早く来ようとしたら、悟浄のヤツがちょっと待ってくれなんて云うもんだから、つい…』

『ほら、ほら。また八戒の兄貴はそうやって、何でもわたしのせいにするんだから、いやになっちゃう…』

『そんなこたぁ、どうでもいから、早くこっちに集まってくれ』

悟空に呼ばれて八戒と悟浄が、昇太郎たちのところにやってきたが、ふたりとも昇太郎の知っている八戒と悟浄ではなく、小肥りの男と頭のてっぺんがハゲた細身の中年男だった。

『あれ、でも、悟空さんの時もそうだったけど、人間になるとイメージが全然違っちゃうんですね。やっぱり…』

『おお、猪八戒と沙悟浄か。ふたりとも久しいのう』

『これは、神仙大師さま。ご機嫌麗しゅうて何よりです』

『いつもはご無沙汰ばかりで、申しわけありませんねぇ。へへへへ…』

ふたりが挨拶をするよりも早く、神仙大師は八戒と悟浄にこう言い渡した。

『ふたりとも来た早々で済まぬがのう。その方たちは知らぬとは思うが、実はいま魔の者どもと手を組んで、人間を根絶やしにしようとしている怖ろしい輩がおるのじゃ。その者はキリシタンバテレンの、怪しげな術を使う天草四郎時貞という男でな。年のころは十六・七才というから、まだまだ子供の部類じゃな。もっとも、わしらの歳と比べればの話じゃがな。

さて、ここにおるのが大山昇太郎と申してな。天草四郎に織田信長の精神体を他界させられて、その仇討ちに執念を燃やしておる者なのじゃが、その方らもひとつ手を貸してやっては貰えんじゃろうかのう…』

『へへへ、待ってましたよ。ようがすとも、わたしらもちょうど暇を持て余していたところなんですよ。喜んでお手伝いいたしましょう。ねえ、八戒の兄貴』

『おおともよ。悟空の兄貴もああやって頑張っているのに、どうしてわしだけが知らんぷりをしなくちゃいけないんだよ』

『みんな、よく来てくれたな。おいらも、いい仲間を持ってうれしいぜ。本当によくは来てくれたな』

悟空は八戒と悟浄に近づくと、ふたりの手をガッチリと握りしめた。

『よろしい、これで役者も出揃ったようだのう。よし、よし。さて、問題は彼奴がいまはどの時代をうろついておるかだが、早急に探さねばなるまいて…』

『わしは思うんじゃがのう…。大先生』

『何じゃ、申してみよ。龍馬よ』

『アイツの狙いはあくまでも人間を、特に日本人を根絶やしにすることじゃき、やっぱり元祖日本人と云われている、縄文時代っちゅうところの初期の時代を、うろついているのと違うやろかのう…。ほいでもヤツは前に信長さんから、オーラ球を浴びせられてどこかしら痛めておるんと違いますやろか…。たけんど、精神体が生身の人間と同じように怪我をするのかどうかは、わしにはまったくわからんとですが…』

龍馬は、いま自分が考えていたことを話した。

『いや、それならぼくも考えたんですけど、龍馬さんの云う通りだと思いますよ。ぼくは信長さまの介抱をしていて、間近で見ていたからよくわかるんですが、信長さまのオーラ球は本当に凄まじい物でした。あれを掠ったとは云え天草四郎は受けたんですから、無事でいられるはずがないと思うんです』緒に行ってやろうか…』

『いいえ、それには及びませぬ。それでは往って参りますゆえ、お二人はここにてお待ちくださりませ』

ソーラは、そう言うなり瞬時にして姿を消していた。

『ふう…、あのひともあのひとなりにひっしなんじゃろう…るきっと』

『でも、ああいうところが可愛いんですよ。龍馬さん』

『こいつめ、のろ気追ってからに…』

龍馬は昇太郎のわき腹を肘で小突いた。

『それにしても、天草四郎め。どこに雲隠れしおったのかいのう…。信長さんのオーラが意外と効いているのかも知れんな、軽く掠っただけにしか見えんかったけんど…』

『そうかも知れませんね。ぼくも間近で見ていたけど、ホントに軽くかすめただけに見えたけども、それにしては異様なほどのうめき声だったな…。信長さまも最後の力を振り絞ってのオーラ球攻撃だっだけに、見た目は軽く見えても案外深手を負っているのかも知れませんね』

『うーむ、確かにそうかも知れんな。あの魔界の十字架を一瞬にして粉々に砕いてしまったのだから、いかに魔界の精神体と云えどもよほどの衝撃を受けたと見ていいだろう…』

 昇太郎の話を訊いていた、神仙大師は頷きながら言った。

『龍馬のいうことにも、昇太郎のいうことにも一理あると思うのじゃ。確かに天草四郎は信長の必死のオーラ球を受けて、力も弱まっていると見ていいだろう。精神体でも人間でも最後に発揮する力ほど強いものじゃ。それが必死というものだからのう…』

『ほいじゃ、アイツはどこかを痛めていることは間違いないか…。だけん度、一体どんなこヘ雲隠れしてしまったんじゃろかのう…』

龍馬は腕組みをして考え込んでしまった。

『御大よ。おいらは、いま考えていたんだが、せっかく八戒と悟浄を呼んだことだし、おいらたちはおいらたちで手分けしてでも、各時代を年代ごとに探し回ったほうが手っ取り早くていいと思うぜ。それで見つけられれば、それに越したことはないしさ。どうだい…』

悟空の提案に、何やら考えていた大師もおもむろに口を開いた。

『いいじゃろう。やって見てくれ。但し、充分にして注意は怠らぬようにな…』

『よし、決まったねさっそく。出かけようぜ。おい、お前らもいつまでそんな格好してるんだい。さっさと元の姿に戻っちまいな』

『ヘーイ』

悟空に言われて、八戒と悟浄はくるりと体を一回した。すると、そこには昇太郎の知っている猪八戒と沙悟浄のもとの姿があった。

『わしはやっぱり、こっちのほうがシックリきすねぇ』

『わたしもでよ。へへへへ』

ふたりともしばらくぶりに、元の姿に戻ったらしくウキウキと浮かれていた。

『いつまで浮かれているんだ。お前ら、さっさと準備したら出かけるぞ』

悟空の号令一下、八戒と悟浄はそそくさと準備をすると、どこにいるかさえ判らない天草四郎を探すべく、果てしもない旅へと出かけて行った。

一方、残された昇太郎と龍馬。それにソーラの三人もまた、神仙大師の虱潰し・草の根を分けてでも、抹殺ないし魔界へ送り返すようにとの厳命を受けて、縄文初期の時代へと再びやって来ていた。草原とうっそうとした森林が連なる大地には、縄文人の人影すら見当たらず風だけが飄々と吹き抜けて行った。

『本当に、まだこんなところにいるのかなぁ。天草四郎は…―』

『いると思うぜよ。わしは、なんにしても魔のものを味方に付ければ、怖いものなしだろうからのう。だけん度、こっちだって負けてばかりはいられんきに、ここはひとつ褌を締め直して掛からんねばいけんとよ』

『だけど、天草四郎はだって負傷しているんでしょう。それなのに、どこに隠れているのかさえも判んないんじゃ、捜しようもないし一体どうすれいいんですか。ねえ、龍馬さん…』

『うーん…、どうすればいいかって云われても、わしにもまったく判らんきに、ソーラさん、何とかならんのかい。永遠の鏡を使うとか…』

『ええ、は永遠の鏡はたいへん希少なものらしくて、神仙大師さまもあまり外には出したがらないらしいんですの』

『大先生も、意外とケチくさいところがあるんかい』

『いいえ、決してそのようことではございませぬ。永遠の鏡をというものは、もともと門外不出のものとかで、外部の者の目には触れさせてはならぬ。というような言い伝えがあるそうなのでございまいます』

『ふーん、それじゃ、何だか人間の世界とあんまり変わりゅしないじゃないか。わしゃ、また神仙境というくらいだから、神さんみたいにもっと優雅に暮らしてると思っとったのによ。そんなもんじゃ、あんまり人間の世界と変わらんきに、つまらんぜよ』

『まあ、まあ、いいじゃないですか。龍馬さん、そんなことはどうでも。それより、天草四郎がどこに潜んでいるか判らないんですよ。何とかして調べなくちゃ、どうしようもないですよ。いまのこの状況じゃ…』

『それはわしも判ってはおるが…、しっかし、このだだ広い野山しかないところで、どげにすれいいのかさっぱり判らんとじゃ…』

『それもそうだね…』

 昇太郎も、あまりにも殺伐とした風景を見て、うんざり気に頷いた。

『しかし、昇太郎さま。このままでは人間を抹殺しようとしている、天草四郎にますます時間を与えてしまうことにもなりかねませぬ。一刻も早く手を打たねばなりませぬ』

『そんなと云われたって、何の手掛かりもないんだよ。どうやって探せばいいんだよ…。ソーラに何かいい方法があれば話は別だけどさ…』

『そうは云われましても、わたくしにもこれと云った方法は浮かびませぬが…』

『ほーら、見てごらん。やっぱり何もないじゃないか。だいたいソーラはだね。いつもぼくに…』

『おい、おい。ふたりとも止めときんしゃい。いまここで揉めておっても仕方なかろうが…』

龍馬はふたりのやり取りを見るに見かねて止めに入った。

『まっこと何も思いつかんとか。ソーラさん』

龍馬は再びソーラに訊いた。

『はい、申しわけございませぬ。わたくしは、これより神仙郷に戻りまして、神仙大師さまに伺いを立ててきとうござますれば、おふたりはここでお待ちくださりませ』

『うむ、何もせんでいるよりは、そのほうがええじゃろう。そうと決まれば早く行ってきんしゃい。わしらはここで待っているきに、のう昇太郎さん』

『ああ、それがいいよ。何ならぼくらも一緒に行ってやってもいいよ。ソーラ』

『いいえ、それには及びませぬ。そのようなことをされましては、神仙女としてのわたくしのプライドにも拘わりますれば、どうぞご容赦のほどをお願いいたします』

『じゃ、いいよ。ひとりで往ってくればいいさ。龍馬さんもたまにはソラシネの顔を見たいだろうな。って思って云っただけなのにさ…』

『し、昇太郎さん。おいは何ももそんなことは云ってないきに、気にせんでくださいよ。ソーラさん…』

 急にソラシネの名を言われた龍馬は、しどろもどろになりながらその場を取り繕った。

『さようでございましたか。それでは、そのようにソラシネのにも申しておきますゆえ、わたくしは、これよりすぐに往ってまいりますれば、おふたりともご機嫌よろしゅうに…』

ソーラは、そういうと翔時解は使わず、ひさしぶりに自分で出舞い上がると空の彼方へと消えて行った。

『ふー、やれやれ。どこの時代でも、女子っちゅうもんは扱いが難しいものぜよ…。そうは思わんか、昇太郎さんは』

『龍馬さんが云うほど、ぼくは取立ててそうは思いませんね。少しぼくたちのような人間とは、かなり違うところもありますが、きつい性格に見えるかも知れませんが、あれでなかなか素直な面もあるんですよ。龍馬さんには判らないかも知れないけど…』

『おお、またまたのろけ話かいな。昇太郎さんは…』

『そんなんじゃないですってば、いやだなぁ…。龍馬さんは』

『そんなことより、悟空さんたちはどうしたんじゃろう…。虱潰しに当たるって云っていたけんど、いま以って戻らないところを見ると、あちらさんたちも相当手こずっているのかも知れんな…』

『うん、確かに何の連絡もないし、やっぱりぼくたちと同じように、無駄骨を折っているのかも知れないですね』

『うーむ…、それにつけても天草四郎のヤツめ、一対どこに雲隠れしおったんじゃい』

『まあ、もうしばらく待てば分かると思いますよ。ソーラが戻ってくるまで待ちましょう。

ところで話しは変わりますが、龍馬さんには五人も兄妹がいたそうじゃないですか』

『おお、相変わらず、ようなんでも知っとるな。昇太郎さんは』

『自慢じゃないですが、ぼくは学生時代歴史が好きで、特に幕末から明治にかけての歴史が好きで本を読んだりとか、いろいろと勉強をしたものですから…。あ…、あの黒船が来航してから明治維新にかけての十五年間のことを、ぼくたちの時代では幕末と呼んでいるんですよ』

『ふーむ…、幕末か…。歴史とはそう云うものかのう…』

龍馬は時の流れを見つめるように、しみじみとつぶやくように言った。

『ところで、さっきわしの兄妹がどうとかい云うとったけんど、それがどうかしたとか…』

『あ、いや…、ぼくは弟とふたり兄なんで、兄妹の多いひとは羨ましいなと思ったんです』

『兄妹と云っても、上の三人は親子ぐらい離れているき、兄妹とかいう実感はあんまり湧かんかったしな…』

『あれ、でも、すぐ上の乙女さんは違うでしょう…』

『ああ、乙女姉やんか…、あんひとはえらかひとじやった…。わしが子供の頃に友だちに泣かされて帰っ行くと、「それでも男か、泣くな」って、よくどやされたもんじゃき、まっこと強か女子だったとよ。ほんで弱かったわしに、「男はもっと強くならなきゃいかんきに」と、云って剣術を教えてくれたのも乙女姉やんじゃった。

最初いつも、わしがコテンパンにやられてばかりおったき、初めて勝った時はわしも鬼の首でも取ったように、嬉しかったのをいまでん覚えとるよ…』

龍馬は昔を回想するように、縄文の遥かに遠い空の彼方を見上げていた。

『あ、そう云えば、龍馬さんのお姉さんって当時の女性としてはかなり大柄で、五尺八寸もあったって書いてあったけど、ぼくの時代でもそうざらにはいないのに、龍馬さんのお姉さんは本当にそんなに大きな女性だったんですか…』

『デカかったぜよ。下手すりゃ、わしよりもデカいくらいだったきに…』

 そんな龍馬を見ていると、昇太郎は谷川岳で転落死した自分のことを、現世の人々は気づいてくれただろうかと気になりだしていた。令和元年十二月三十一日に、谷川岳に登る前には所轄の警察署担当課に、登山計画書(登山届)も提出してきたし今回はひとりだから、万一遭難した時のために捜索にかかる費用の保険にも加入してきた。家族には離れているかは離れているから、何も伝えていなかっただけであった。

 しかし、自分が谷川岳で転落死してから、どれくらいの日数が経っているのか、昇太郎にはまったく見当もつかなかったし、下山予定日はとっくに過ぎているだろうから、もしかしたら、捜索が始まっているかも知れないと思った。

『何を、そんなに深刻な顔をして考えごとをしとるんじゃ、昇太郎さんは…』

『うん…、いまね。ぼくが谷川岳の頂上から転落した時ことを思い出してたんです…。あれから、どれぐらい経ったのかなぁ…。きっと、母さんや弟たちが哀しんでいるだろうな…。ぼくの遺体が見つかればの話しですけど……』

 あんなところでは、見つかるはずもないことは、昇太郎も十分分かってはいたが、やりきれない気持ちでいっぱいだった。

『そげなことは、なぁんもクヨクヨせんでもよか、たまたまわしもおまんも運が悪かったと思えば、それだけで済むことじゃき、あんまり気にせんことぜよ』

『ぼくは自分でやろうとして、こうなったまでだから別に悔やんでなんかいませんが、母さんや弟には悪いことをしたかなって……』

『けんど、後ろを見てばかりいては何にも解決しよらん。ここまで来たら前進するしかなかとよ…』

龍馬らしい合理的な意見だったが、昇太郎の中には自分の現状に後悔はなかったが、それでも割り切れないものが残っていた。

『おふたりとも、お待たせをいたしました。ただいま、戻りましてございます』

待ち兼ねていた、ソーラが神仙境より帰ってきたようだった。

『思っていたより早かったみたいだけど、それ天草四郎の足取りは掴めたのかい…』

 昇太郎が不安そうに訊くと、

『はい、やうやくに…、神仙大師さまには手を尽くして調べていただきました。その結果、天草四郎はもう少し時を遡った時代に潜伏している様子でございました』

『もう少し遡った時代って…、ここは縄文時代の草創期だろう…。ここより先の時代って云ったら旧石器時代じゃないか。なんで、そんなところにアイツは行ったんだろう…』

『神仙大師さまの申しますのには、そこのほうが四郎時貞にとって、もっとも都合が良いのだろうと申されておりましたが…』

『何だい…。その都合がいいってのは…』

『さあ…、それはわたくしにも判りかねまするが、とにかく一刻の猶予もなさそうでございますれば、わたくしどもも急いで、そちらのほうに移動せねばなりませぬ。さあ、参りましょう。わたくしたちもこれからすぐに』

 ソーラのただならぬ様子を感じたふたりも、黙って頷き合って縄文草創期の世界から姿を消していた。昇太郎たちのいなくなった草創期縄文時代の大地には、音もなく軽やかな風だけが静かに吹き抜けて行った。


     9


 孫悟空。言わずと知れた中国四大奇書のひとつ、西遊記の主人公の名である。さて、孫悟空が生まれた遥かなる昔、世界にはまだ四つの州しか存在していなかった。その中の東勝神州の中に傲来国という国があり、傲来国の周りは海に囲まれていて、その海には花果山という山が聳え立っていた。

 花果山の天辺には、この世が始まった時から天を指すように、大きな石が立っていたという。

永い間にわたり、太陽光と月光を浴び風雨に晒されて、そのうちに石の中にひとつの生命が宿り、しばらくすると石の表面に亀裂が走った。ある日大石は突然真っぷたつに割れて、中からは大きな石の卵が転がり出てきた。それから数日経つと、石の卵はひとりでに亀裂が入り、中から一匹の石猿が生まれ出てきた。数日が過ぎて、石猿はハイハイをするようにもなり、まもなく立って歩けるようになった。

石猿が辺りを見渡すと、その眼光極めて鋭く目からは金色に輝く光りを発し、空を見上げると二筋の眼光鋭く空間をも引き裂かんばかりに、その光は遥か天界にまで行き届いたという。

こうして、好き放題勝手放題をしながらも、須菩提祖師という仙人に弟子入りし筋斗雲を始めとした、仙術や数々の法力を伝授され、この時に石猿は孫悟空という法名も授けられ、自らを斉天大聖孫悟空と名乗り、勝手気ままな生活を送っていた。

ある時、悟空は天界から呼び出され「弼(ひっ)馬(ぱ)温(おん)」という役職を与えると言われて、喜んで勤めに励むが後で仲間に聞くと、「弼馬温」とは天馬の世話をする係だと聞かされて、悟空は怒り心頭に発しひと暴れして地上に舞い戻ってくる。そんなことが何回かあって、天官たちは大弱りに弱り果てて、西方に棲んでおられる釈迦如来に、使いを出して悟空封じの願いを頼んだ。

悟空が如意棒を振り回して暴れていると、釈迦如来はにっこりと微笑みながら現れて、

『これ、悟空とやら、どうしてそのように暴れておるのだ。訳を話してみなさい。もし、叶うものなら叶えてやらぬものでもない。話しなさい』

 釈迦如来に言われて、悟空はいま思っていること、腹に据えかねていることなどを洗いざらい話した。

 すると、釈迦如来はこう言われた。

『よろしい、もし、お前がわたしの掌に乗って見事に抜け出せたら、どのような願いであろうとも叶えてあげましょう…。そして、もしそれが出来なかったら、お前は地上に下りて罰を受けなければなりません』

 その話しを訊いた、悟空は待ってましたとばかりに、釈迦の掌に飛び乗ると筋斗雲を呼んで飛び出して行った。時間にして、どれくらい飛んだのかは定かではなかったが、もうここまで来れば大丈夫だろうと前方を見ると、大きな柱が五本立っているのが見えてきた。

『あ、あそこがきっと宇宙の果てに違いない…』

 悟空は筋斗雲から降りると真ん中の柱に、

 斉天大聖ここに到りて一遊す

 と、書き込んで意気揚々と釈迦如来の元に帰ってきた。

『どうだい、行ってきたぜ。これでいいんだろう…』

『この愚か者め。わたしの指を見てみるがいい』

 悟空が釈迦如来の指を見ると、中指にいま書いてきたばかりの〝斉天大聖ここに到りて一遊す〟の文字が、まだ墨が乾ききらないままの状態で書かれていた。

『愚か者めが…』

 釈迦如来は、悟空を門外まで弾き飛ばすと、五本の指で押さえ込むと、そのまま大きな山になった。この山のことを五行山と言い、それから五百年経って玄奘三蔵(三蔵法師)に助け出されるまで、悟空はここに封じ込められていた。以上が、西遊記の冒頭部分である。以降は、ご存知の猪八戒と沙悟浄も加わり、天竺まで取経の旅に出て数々の冒険譚を繰り広げることになる。


一方、こちらは縄文草創期の世界から旧石器時代に移動してきた、昇太郎と龍馬それにソーラの三人は、そのあまりにも殺伐とした光景に目を見張っていた。旧石器人たちの住居は、単なる洞穴だったり木の枝を環状に組んで、周りを草や土などを塗り付けただけのものだった。また、そこに棲む住人たちの服装も粗末な動物の毛皮を身に着け、足にはこれも動物の毛皮で作った靴のようなものを履いていた。

『何だぁ…。これは、これじゃまるで原始人と一緒じゃないか…』

 と、いうのが昇太郎の第一声だった。

『まあ、そんなこと云うもんじゃないぜよ。昇太郎さん、初めはみんなこんなものだろうと思っていたき。わしゃ、そんなことでは全然驚かんとよ』

『そのようなことよりも、龍馬さま。天草四郎時貞は、誠にこのようなところを彷徨っているのでありましょうか…』

『いるかどうかは、わしにも判らんきに、後は出くわしてからの楽しみじゃろうが、そうは思わんかい。昇太郎さん』

『またぁ…、そんな呑気なことを云ってる場合じゃないですよ。龍馬さん』

いかに坂本龍馬か北辰一刀流の免許皆伝とは言えども、相手は魔界の力を自由に使いこなす天草四郎であってみれば、いかにものんびり構えている龍馬を見ていると、昇太郎は気が気ではないくらいヤキモキしていた。

『しかし、なぁ。昇太郎さんよ。もし、山の中を歩いていたとして、いつ出くわすかも知れない熊に、ビクビクしながら歩いている人と、鼻唄でも歌いながら歩いている人とじゃ、どっちのほうが危険が少ないと思うと…。熊は人間が怖いんじゃ、怖いから急に出逢うと反射的に襲ってしまう。だから、ひとの声がすると熊は逃げて行くというわけなんじゃきに』

『しかし…、龍馬さん。それとこれとじゃ話が全然違いますよ。天草四郎は熊とはわけが違うんですから…』

『ふふ…、ははは…。そりゃ、熊よりはちぃとばかり始末が悪いか…』

と、言いながらも、龍馬は昇太郎が考えているほど、大して気にもしている様子はなかった。

『龍馬さま。差し出たことを申すようですが、いま少し気を引き締めて掛りませんと、信長さまの二の舞いにもなりかねませぬ。天草四郎時貞は何処に潜んでいるやも分かりませぬ。すでに凶行に及んでいるやも知れませぬのに、龍馬さまは如何にして、そのように落ち着いておられるのでございますか』

『そげなことを云われてもなぁ…、ソーラさん。持って生まれた性分じゃき、こればかりはどうしようもなか。だがのう、わしは信長さんの分まで頑張るきに。天草四郎…、いつでも出てくるがいいぜよ…』

龍馬の意気込みとは裏腹に、縄文時代草創期の世界は何ごともなく、時間だけがゆっくりとした足取りで過ぎて行った。

 と、その時だった。

『ああ、ソーラさんかい。おいら、悟空た。いましがた天草四郎を発見して、八戒と悟浄が戦っている。合図を送るから、みんなも急いでこっちに来てくれないか…』

『はい、わかりました。ただちに向かいます』

『ついに見つけたか…、さすがは悟空さんじゃ。これで信長さんの仇が討ってやれるぞ…』

 信長の無念を晴らそうと、龍馬は昇太郎に発見されて時に見せた、青白く光り輝くオーラを放っていた。

『よし、行きましょう。龍馬さん』

 昇太郎も勢いよく前に進み出た。

 悟空の合図を頼りに、戦いの現場に行って見ると、悟空たちと天草四郎の四巴の戦いが繰り広げられていた。

『ふふふふ、お猿さんの次は、豚と河童の化け物ですか。面白い…、それでは、まず手始めに河童のお皿でも割って差しあげましょうか…』

『ふん、わたしを侮辱すると容赦しませんよ』

『ふふふふ、容赦しなかったどうするのですか。河童さん』

『ええい、黙れ、黙れ。それ以上侮辱すると、本当に許しませんよ…』

『問答は、これくらいで止めにしませんか。まずは、わたしから参りますよ。あなたの頭のお皿を割って差しあげましょう。河童はお皿が割れると生きていけないと云いますかね。「魔界の地獄独楽(こま)」受けてみなさい。それ…、ふふふ、はははは』

四郎は、言うよりも早く黒い羽根のついた独楽を、悟浄目がけて投げつけ回転を増しながら飛んで行った。

『あ、悟浄危ないぞ…。気をつけろ』

悟空は自分の体毛をむしり取ると、息を吹きつけ一本の綱を作ると独楽に向かって投げつけた。独楽が悟浄に迫りつつあった。悟浄はひらりと体を交わしたが、独楽は執拗に回転して方向を変えた。そこへ悟空の投げた綱が絡みついた。素早く綱を引き寄せ、悟空はそれを天草四郎に投げ返した。すると、独楽は前にも増してスピードを上げ四郎に襲いかかる。

『ふふふ、こしゃくな猿め。それはわたしの独楽だ。わたしを襲うはずがない。あ…、どうしたというのだ。これは…』

天草四郎は、自分の左の肩口に独楽が当たり顔を歪めた。

『ふふん、おいらのほうがお前さんより、役者が一枚上手だってことさ』

まだ状況が掴めないでいる四郎に対し、

『さあ、今度はおいらの番だ。行くぜ』

 悟空は如意棒を取り出すと、ブンブン振り回し出した。如意棒の回転が増すごとに如意棒は、その太さも増して天草四郎の顔面を直撃した。

『ぐわぁぁ……』

悟空は情け容赦なく、二度三度と四郎の顔面を打ち据えた。紅顔可憐な美少年の天草四郎も、いまや夜叉ような形相で悟空と相対していた。普段は不敵な笑みを浮かべて立ち向かっていた四郎も、いまはもはやその余裕すら見られなかった。

『さあ、覚悟はできたかい。とっとと魔界へ帰んな…』

悟空は、止めの一発を振り下ろした。が、如意棒は空を切り地面に当たり、四郎の姿は忽然と消え失せていた。

『しまった…。またしても逃げられたか…』

悟空が地団駄を踏んで悔しがっているところに、

『いや、まっこと一筋縄ではいかん男ぜよ。あの天草四郎ちゅう男も…、それにしても、相変わらず逃げ足の速い男じゃき、まさに神出鬼没とはあんなヤツのことを云うんぜよ。まったく…』

『悟浄、大丈夫でだったかい。どこも何ともなかったかい…』

 悟空が心配して訊くと、

『へへへへ…、大丈夫ですよ。悟空の兄貴、あんもなのは、あたしにしてみれば、ホントにヘのカッパみたいなものですよ。どうぞ。ご心配なく…、へへへへ』

 悟浄はいつのように、へらへらとお愛想を振りまいていた。

『うーむ…。またしても、わしの出番がなかったか。いつもいいところで、悟空の兄貴や悟浄が出てくるから、出番の少ない脇役ばかりじゃ、わしゃ適わんよ…』

『へへへ…、八戒の兄貴は少しばかりあたしらよりも、動きが鈍いだけですよ。でも、そんなことは心配いりません。その分、あたしと悟空兄貴で頑張りますから、ご安心ください。へへへへ』

『そうともよ。もともとお前は食い気と女気が専門だったからな。おいらも悟浄も当てにしてないから、安心して女の尻でも追っていな』

 悟空と悟浄にさんざん言われて、さすがの八戒も抑えていたものが弾き飛んだらしかった。

『へ…、兄貴も悟浄も、そこまで云うのかい。ふたりともわしの本当の強さを知らないらしいな…。よーし、今度天草四郎に出逢ったら目にもの見せてあげましょう。楽しみにしていてくださいよ。ふん…』

『ちょっと待ってよ。三人とも、こんなとこで仲間割れすることもないじゃないですか』

 昇太郎が、険悪なムードになりかけているのを、見かねて割って入った。

『昇太郎さん。別においらたちは、仲間割れをしているんじゃないんです。これが、おいらたち流のやり方なんで、昔からこうしてやってきましたから心配には及びません。それに八戒は、普段は食い意地が張っていて、女には目がなくてどうしようもない奴ですが、本当はめっぽう強いこともおいらは知っています。まあ、見ていてください。

 八戒のヤツは食いしん坊で女好きなんですが、根はとても優しいヤツなんです。優しいから女にもモテる。この辺のところは、おいらたちも見習わなくては、ならないところかも知れませんがね』

『まあ、まあ。そんなことより天草四郎は、どこへ姿を隠してしまったんじゃろうかのう』

龍馬も、辺りを見回しながら、話に加わってきた。

『見たところ、逃げ隠れするような場所も見当らんし、やはりヤツは一旦魔界に身を隠したのかも知れんな…』

『そんなことはないと思うけどなぁ…。いくら天草四郎と云えども、そう簡単に魔界に出入りできるでしょうか。悟空さんの攻撃が激しかったから、アイツだって相当ダメージが大きかったと思うんです。もしかしたら、前よりも強い打撃を受けているかも知れませんよ…』

『うーむ…。何れにしても、いまが正念場だろう。いよいよ最終段階に差し掛かっているようだぜ。おいらたちも気を引き締めて行こうぜ。八戒もひさしぶりに燃えているようだし、期待しているぜ。猪八戒よ』

『おう、任せておいてくれ。今度こそは逃がしやしないから…』

『まあ、頼もしいですわ。八戒さま』

こんな凛々しく見える八戒は、久々なのかソーラもしきりに拍手を送っていた。


     10


天草四郎時貞、幼い頃より周りの人々から〝神の子〟として崇められ、自らもそう信じて疑うことすらも知らなかった男。

その天草四郎が、如何にして悪魔に魂を売り渡してまで、何故人間を根絶やしにしようと思い立ったのかは、本人以外は誰ひとりとして知る由もなかったが、高い年貢に苦しめられ喘いでいる農民を見て、何かしらの力添えになってやりたいと思ったとしても、これもまた至極当然のことのように思える。

しかし、その結果、三千人もの農民を死に至らしめたことについた、その罪を償おうともしないで、己れが斬首にされた怨みだけを前面に押し出して、日本人の大本まで遡っても絶滅させようとは、いくら四郎の精神体が未熟なものであって、若気の至りであったとしても途方もない企てであった。

その天草四郎が日本人の絶滅計画を、後回しにしてまで昇太郎たち六人に復讐しようとしていることは、悟空の推察通り天草四郎の精神体そのものが、どこかに異常を来たしいずれは自分にも、終末が来ることを知ったからではなかったのか…。


『なあ、昇太郎さんに龍馬さんよ…』

 次の日の朝、昇太郎と龍馬のところに悟空がやって来た。

『おいら考えてみたんだけど、どうも夕べの使い魔コウモリたち、妙にあっさりやられ過ぎたとは思わないかい…』

『そうじゃろう。わしらもいま話とったところじゃき、悟空さんもやっぱりそう思っとったとね』

 龍馬がいち早く反応を示した。

『これもふと思ったんだが、もしかすると天草四郎の状態はおいらたちが考えている以上に、悪化しているんじゃないかと思ったんだよ。そうじゃなかったら、魔界の使い魔であるコウモリたちが、あんなにいとも簡単に殺られるはずがないだろう。と、いうことは、奴も今度こそ必死になって襲ってくるに違いない…』

『それじゃ、こっちも厳重に防護を固める必要がありますよね。悟空さん』

『うん、そこなんだがね…。奴も相当ダメージを受けているとして、こっちは六人だ。一対六の戦いに、まともな方法じゃ襲ってはこないだろう。何か極端に卑劣な手を使ってくるだろうよ』

『む…、確かにアイツは卑劣極まりない男じゃき、どんな手を使ってく。か判らんぞ…』

龍馬は腕組みをすると、しきりに考え込んでしまった。

『それじゃ、それを逆手に取って、こっちから反対に罠を仕掛ければいいじゃないですか。悟空さん』

今度は何を思ったのか、昇太郎が話し出した。

『何…、罠だって…、何かいい手でもあると云うのかい。昇太郎さんよ』

『いい手かどうかは分かりませんが、だれかひとりが「万華変」を使って天草四郎になりきるんです。それで、これも偽装なんですけど、この辺の部落に嵐や洪水を起こして、壊滅したように見せかけるんですよ。

 それに気づいたら、天草四郎も何ごとが起きたかと姿を現すんじゃないでしょうか…』

『しかしな、昇太郎さんよ。相手は海千山千の天草四郎だぜよ。そんな子供騙しの手に乗ってくるとは思わんが…』

 珍しく龍馬が昇太郎の意見に難色を示した。

『だったら、龍馬さん。他に何かいい作戦でもあると云うんですか…』

『いんや、何もないから困っているんだけんど…、だがのう。昇太郎さん、そんな見え見えの手に引っかかるとは思えんのじゃ…』

『よし、わしが行こう…』

 と、後からやって来た八戒が言った。

『何だ。八戒、お前にいい策でもあるのかよ』

『いいや、何もないけど、何もしないでいるよりは増しだろう。それに、モクさん相手もひとりだと思って油断が生じないとも限らない。ここはひとつ、ただでさえ出番の少ない、このわしに任せてくれ。但し、兄貴たちは絶対に姿を見せないでくれよ。天草四郎が現れるまでは…、頼んだよ』

 そう言い残すと、猪八戒は大食漢で女好きの普段の八戒とは、思えないほどの勇猛さで、旧石器時代の荒野に姿を消していった。

『どれ、それじゃ、おいらたちも姿を消して八戒の後を追うか…』

さて、さっそうとたったひとりで飛び出しては来たものの、八戒の内心では後悔の念が頭を擡(もた)げ始めていた。

「ああ…、あんなこと云うんじゃなかったな…。いつもカッコいい役は兄貴に持っていかれるし、たまには主役になってみたかったけど、段々心細くなって来ちゃって、やっぱりダメだな。わしは…」

そんなことを考えながら歩いて行くと、前方の上空に黒雲がムクムクと湧き上ってきた。

『やや、何だ。あれは…、もしや、天草四郎が…』

八戒が身構えていると黒雲は一気に近づいて来て、やがて黒雲は掻き消えてそこに現れたのは、紅顔の美少年と謳われた天草四郎だったが、もはやその容貌に往年の面影すらなく、醜く引き攣った阿修羅のような形相をしていた。

『ふふふふ…、待っていましたよ。豚の化け物さん。まず、あなたから先に始末して差し上げましょう』

『黙れ、どっちが化け物かは知らんが、ここで逢ったのが百年目と思いな。さあ、行くぞ…』

八戒は肩に担いでいた馬鍬(まぐわ)を構えると、天草四郎を目掛けて一目散に突進して行った。

『おっと…、その手は喰いませんよ。ええい…』

天草四郎は、突進してくる八戒をヒラリと躱すと、そのまま空中高く舞い上がって行った。

『こら、逃げるのか。待てぇ、絶体に逃がしはしないぞ。それ…』

猪八戒も見た目とは、打って変わったような速さで、天草四郎を追って空中に舞い上がっていた。

『おや、おや、豚さんも空を飛ぶことができるんですね…。これは非常に面白い…』

『ふふん…、何が面白いってんだよ。飛べない豚は、ただの豚なんだよ。分かったかい』

『ふふふ…、何を小賢(こざか)しいことを…、それでは今度こそ遠慮会釈なしに行きますよ。覚悟はいいですか…。えーい』

八戒と天草四郎の戦いが始まった頃、悟空や昇太郎たちもそれを眺めていた。

『悟空さん。そんなにのんびり見ていていいんですか。早く行って一緒に戦わないと、八戒さんが…』

『なーに、心配はいらないよ、昇太郎さん。八戒のヤツだって、たまには主役になりたいと思っているんだから、ここはしばらく静観してやりしょう』

『へへへへ、昇太郎さん。ご心配なく、八戒の兄貴だって見かけは頼りなさそうに見えますけど、いざとなればどうしてどうして、相当なものなんですよ。あれでも…』

悟浄も悟空に同調すると、ふたりの戦いぶりに見入っていた。

『昇太郎さま。八戒さまはなかなかお強い方ですので、ご心配には及びませぬ』

ソーラまでもが、八戒の強さを確信しているように、きっぱりと言い切った。

『まあ、見ていてくださいよ。昇太郎さん、八戒兄貴の戦いぶりを…。へへへへ』

みんながそう言うので、昇太郎もひとりで心配していても始まらないと、八戒と天草四郎の戦いをしばらく観戦することにした。

ふたりは互角に渡り合いね当な時間が経過して行った。

『もう、だいぶ時間が経っていますよ…。悟空さん、大丈夫なんですか。応援に行かなくても…』

『いや、まっこと凄い戦いじゃきに、果たして時間の経過がどっちに味方するかじゃのう。これは…』

龍馬も、これだけの時間を費やした戦いは経験がなかった。だから、この長い時間の経過がどのように作用して、どれだけのダメージが双方に加わるのか、推測することさえ不可能と思われた。

ふたりの戦いは熾烈を極めていた。ふたりとも時空間を超越しての戦いだった。従って、現空間で視ている者の目には、ふたりの姿が消滅したり現れたりという、目まぐるしい展開が繰り返されていた。

『うわぁ…。これじゃ、助けたくても手の出しようがないじゃないですか…。どうするんですか。悟空さん…』

『どうすると云われても、いまのままじゃ手の出しようもない。八戒にもう少し頑張って貰って、ふたりの形成が安定するのを待つしか手はないだろうな…。八戒だって、そうみすみす殺られることもないだろうから、しばらくはこの状態が続くだろうな』

『そんな…、のんびり構えていていいんですか、本当に…。ねえ、悟空さん…』

『大丈夫だよ。昇太郎さん、おいら八戒のことを信じてるから、アイツだってバカじゃない。そうやすやすと負けはしないよ。まあ、見ててごらんよ』

猪八戒も天草四郎も丁々発止と渡り合い、時空間の中を見えたり隠れたりして、一向にその勝敗の行方さえ見えてはこなかった。そのうちふたりとも現空間から姿を消して、しばらく静まり返ったまま見えなくなっていた。

『あれ、今度は消えたまま姿が現れませんよ。悟空さん…、どうしたんですかね…』

『まだ違う次元の別の世界ででも、戦っているんだろうよ。それにしても長過ぎるな…、もうだいぶ経つから八戒のヤツも、そろそろ限界かも知れんな…。今度現れたら、おいらも少し加勢してやるか…』

『そのほうがいいぜよ。わしも一緒に行くきに』

龍馬も一歩前に出ると、青く澄み渡った空を見上げた。

『よし、それなら僕も行くよ。龍馬さん』

と、昇太郎も前に出てきた。

しばらく静まり返っていた空間が、にわかに掻き曇ったかと見るや、いきなり雷鳴が鳴り響き稲妻が走った。

『よし、そろそろ来るぞ。みんな注意してくれ』

『ボワーン…』

と、いう音とともに、八戒と天草四郎が姿を現した。

『行くぞ。みんな』

『おー…』

五人は一斉に舞い上がると、いま八戒と天草四郎が現れた空間を目指して飛んで行った。

『いいかい。みんな、今度こそはヤツを取り逃がすようことがあっちゃまずいぜ。今度という今度は何としても、アイツを完全に抹消する魔界に送り返さなければ、神仙大師の御大に顔向けができねえんだ。これが最後の修羅場になるかも知れねえが、みんなも充分気を引き締めて掛ってくれ。まずは、八戒を少しでもいいから休ませてやりたい。まずはおいらから行こう。あとは、おいらに続いて来ればいいや。さあ、行くぜ…』

悟空は、八戒と天草四郎が戦っているさなかに入って行くと、八戒に声を掛けた。

『おい、八戒。おいらが代わってやるから、お前は少し休んどきな』

『いや、ダメす。こればっかりは、いくら兄貴の頼みでも聞けませんね。この天草四郎との決着だけは、誰にも譲れませんよ。この天草四郎とは人間界の時間で、もう十日間も戦っているんですから、いまさら引けと云われても、「はい、そうですか」と、引き下がるわけにはいきません。

 兄貴たちは、そこいらで見ててください。わしはどんな結果になろうと悔いは残したくないんです。さあ、行くぞ。天草四郎…』

『おい、八戒。お前いつからそんなに強情になったんだ。ちょっと待てったら…』

 悟空が止めるのも聞かず、八戒は再び天草四郎と渡り合い始めた。ふたりの戦いは激戦を極め、両者の凌ぎ合いはいつ果てるともなく続いた。

 その頃、神仙郷では神仙大師が自らの居室で、この光景を永遠の鏡を使ってひとり静かに視ていた。

「聞きしに勝る輩よのう…。八戒を以てしても引けを取らぬとは…」

 神仙大師は、ある予測を立ててみた。あの西遊記で名高い、悟空・八戒・悟浄を相手に、ここまで互角に戦っている。いまでは魔の化身となり下がった、天草四郎時貞という精神体の強かさ。それをこのままにして置いては、後々のためにはなるまいと考えていた。

『これ、ソラシネはおらぬか…』

『お呼びでございましょう。大師さま』

ソラシネは即座に現れると、神仙大師の前で恭しく傅いた。

『わしは、これより下界に参るぞ。その方もついてくるが良い』

『わたくしもでございますか…』

『すぐに参る。良いな』

『畏まりまして、ごさいます』

 こうして、神仙大師とソラシネも、旧石器時代後期の日本へ向かったのだった。

 一方、その旧石器時代の世界では、延々として八戒対天草四郎との戦いが続いていた。

『おのれ、しぶとい奴め。これでも喰らえ…』

『なんのそれしき、それでは〝魔の十字架〟受けてみなさい』

 またしても信長を襲った、黒い十字架が八戒を狙って飛んできた。『なんのこれしき…』

 八戒は体を交わして切っ先を避けたが、十字架の片一方の先端が八戒の肩口に当たった。

『ぐわぁ……』

 バランスを崩した八戒は、地上へと真っ逆さまに落ちて行った。

『あ…、八戒…』

 悟空が叫んだ。

『ソーラ、早く下に行って八戒さんを見てきてくれ…』

 昇太郎が声をかけると、ソーラは一瞬にして、その場から姿を消していた。

『おのれ…、よくも八戒をやってくれたな。もう容赦はしないぞ。覚悟しやがれ…』

 もともと気の短い悟空は、八戒がやられたことで自我を忘れたように、すっかり逆上していた。

『ふふふふ、容赦しないのなら、どうするのですか…。あなたもついでに地獄へ送って差しあげましょうか…』

『ふん、送れるものなら、送ってやがれ。行くぞ…』

 悟空が如意棒を振りかざした時だった。

『みなの者、それまでじゃ。もう止めなさい…』

『何者ですか。あなたは…』

『神仙大師さま…』

 昇太郎が小さく叫んだ。

『神仙大師だと…、何者ですか…』

『わしか…、わしは天帝より任命された、神仙郷の総帥じゃ。見知りおくがよい。さて、その方が益田四郎時貞じゃな。何ゆえに人間の絶滅などという、愚かしいことを申すのじゃ、早々に魔界なり何なりと消え失せるがよい。それが、その方のためでもある』

『ふふふふ、笑わせちゃいけませんよ。どこに行こうと、あなたに指図されるいわれはありません。特に、あなたのような年寄りにはね。ふふふふ』

『どうしても、魔界に去らぬと申すのなら、わしにも考えがあるぞ。それでもよいのだな』

『くどいですね。あなたも…、わたしは日本人を根絶やしになるまで、呪って呪って呪い殺してやるのです。ふふふ、ははははは…』

『左様か…、このようなことはしたくなかったが、致しかたあるまい…。えーい…』

 神仙大師の掛け声もろとも、金色に光る輪が大師の中から飛び出し、天草四郎の頭上で回りだした。四郎は避けようとして体を動かそうとしたが、四郎は金縛り遭ったように身動きひとつできなかった。

 光る輪は、まるで生き物のように回転しながら、天草四郎の頭にピタリと填まって止まった。

『あ、あれはおいらの…』

 悟空が驚くのも無理はなかった。それはかつて悟空が頭に填められていた、緊(きん)箍児(こじ)そのものだったからである。

『よいか、益田四郎時貞、よく聞くがよい。このまま魔界に帰るがいい。さもなくば、こうなるのだぞ…』

 そう言うと、神仙大師は何やら呪文のようなものを唱え始めた。すると、天草四郎は急に頭を抱えて苦しみ出し、バンスも失ったのか地上に向けて落下し始めて、途中から全体の輪郭が薄れて行ったかと思うと、地上に届く寸前にスウーっと消滅して行った。

『これで終わったのう。悟空よ』

『御大』

『大師さま』

『やったぜよ。大先生』

 みんなが神仙大師のもとに駆け寄っていっった。

『うむ、これで益田四郎時貞も、魔界へ戻って行ったようじゃ。二度とわれわれの前に現れることもなかろう。さあ、みなの者神仙境へ帰ろう。龍馬よ、ソラシネも心配して迎えに来ておるぞ』

『それはないぜよ。大先生…』

神仙大師たちの帰って行った、旧石器時代の荒野には真っ赤な夕日が沈もうとしていた。


     エピローグ


 神仙境に戻ってからの日々は、昇太郎にとっても穏やかな日常が待っていた。坂本龍馬も昇太郎と同じで、ソラシネとの毎日の生活を楽しんでいるようだった。悟空・八戒・悟浄の三人も、それぞれの部署に戻り元の仕事に精を出していた。

 仙境の町には、相変わらず古びた街並みが立ち並び、空には天女の羽衣を身にまとった、神仙女たちが優雅に舞い飛ぶ姿が見て取れた。

 昇太郎は神仙境に戻ってからしばらく経っても、あの悪夢のような天草四郎との闘いの日々を思い出さずはいられなかった。そして、あの織田信長が天草四郎の魔の十字架にやられて、他界して別次元に往くことを余儀なくされた日のことを、思い出すたびに胸が張り裂けるような思いに駆られるのだった。まして信長は昇太郎のことを、息子のように可愛がってくれたのだからなおさらであった。

 そんな想いは龍馬も一緒で、昇太郎と似たようなことを感じていることは確かで、時折り昇太郎を訪ねて来ては話に花を咲かせていた。

『いや、まっこと信長さんちゅうひとは凄かお人じゃった。自分が死ぬか生きるかの瀬戸際だちゅうのに、最後の力を振り絞って命のオーラ球を天草四郎に投げつけたんだから、まっこと大したもんぜよ。並みのわれわれみたいな精神体には到底太刀打ちがでけん…』

『そうですよね…。それに天草四郎の肩口を掠めただけなのに、最終的にはあのダメージが致命傷になって身を滅ぼしたんですから、龍馬さんの云う通り信長さまはもの凄く偉大な精神体だったんですね…。もっと長く神仙境にいてほしかったなぁ…』

『そんなことを云ったって、さまさらどうにもならんぜよ…。それにしても天草四郎ちゅう男は、何ともしぶといか男じゃったきに、わしゃ、考えただけでも身震いがするき、もう二度とあんな奴とは逢いたくないぜよ』

 龍馬はそういうと、両手を振って顔をしかめた。

『でもね、龍馬さん。ぼくは思うんだけど、考えてみるとアイツもちょっと可哀そうな気もするんだ…。だって、小さい頃から神の子として崇められていたんでしょう。それが、わずか十五・六歳で百姓一揆の総大将に祀り上げられたんだもの、まだ善悪の判断もつかない子供ですよ。いくら頭が良かったかも知れないけど、まだまだ考えが成熟しきってない子供を相手に、大の大人が寄って集って討ち首にしたり、時代が時代だからと云ってもこれじゃあんまり酷すぎるとは思いませんか…』

『うーむ…、云われてみれば確かにその通りだが、しかし、わしらの時代だって同じようなものぜよ。わしらは天子さまを立てて新しい政府を樹立しようとした。そして、それを壊そうとする輩がいた。それでもって、わしらは殺されてしまった。どこがいかんと云うんじゃ、昇太郎さん。わしらに何もするなと云うことなのかのう…』

 龍馬は自分の中を、生前のことが過ぎって行ったらしかった。

『いや、ぼくはそうは思いませんよ。龍馬さん、龍馬さんたちの働きがあったからこそ、現在の日本があるんだと思いますよ。ぼくは、だから、龍馬さんが夢にまでみたカンパニーだって、いまの日本には掃いて捨てるほどありますし、それこそ、世界を股にかけて働いているひとたちだってたくさんいるんです』

『百五十年という時の流れというか、時代の移り変わりというものは、まっこと激しいものじゃのう…』

 ふたりで、そんな話をしているところにソーラがやっきた。

『昇太郎さま。龍馬さまもいらしておられましたら、ちょうどよろしゅうございました。神仙大師さまからのお呼びだそうにございます』

『何じゃろう。いま頃…、わしは何も大先生から怒られるようなことはしとらんき、何ごとじゃろうか…』

『それから、わたくしにも一緒に来るようにとも申されておりました』

『まっこと、わけがわからんき、昇太郎さん。おまん、何か心当たりでもあるんかい』

『いや、ぼくも別にこれと云ったことは…。とにかく、ここでとやかく云っていても始まりません。神仙大師さまのところへ行って見ましょうよ。龍馬さん』

 龍馬は自分では気づかないうちに、何か失敗でも仕出かしたのではないかと、神仙大師の館に着くまで気が気ではなかった。それでも館に着いて太子のいる広間に通され、にこやかな顔で迎えてくれた、大師の姿をみてホッと胸を撫で下ろしたのだった。

みんなの前に数限りない料理が運ばれ、神仙女たちによって酒が注がれた杯が運ばれて来た。

『オホン…』

 と、ひとつ咳払いをして神仙大師は静かに口を開いた。

『みなの者、此度の働きについては大儀であった。此度は益田四郎時貞という、魔界の者どもと手を結び自らの恨みを晴らさんと、人類を特に日本人の絶滅を企てし罪、断じて許し難きものがありて、これを阻止するべく織田信長坂本龍馬大山昇太郎、それにソーラ・マラダーニアの四名に命じ下界に下りてもらった。その結果、紆余曲折はあったものの益田四郎時貞を、見事魔界に落とし返すことができたのだが、ただ残念なことに織田信長は四郎時貞の手にかかり、われわれとは違う別次元に他界してしまったことだ…』

 そこに集まった者たちは、神仙大師の話を静かに聞き入っていた。

『ですが、大先生…』

 突然、龍馬が話しかけたので、みなが一斉に龍馬のほうを振り向いた。

『何じゃ、龍馬よ。申してみよ』

『大先生は、いかにもわしらの功績のように云っておらますが、わしらは何ひとつとして、これと云ったことはやっておらんぜよ。いつもアイツに一方的にやられっ放しで、いいところなんてこれっばかしもないきに。まっこと立役者といえば、あの悟空さん八戒さん悟浄さんのお三方じゃろうが、それに彼奴に致命傷を与えた信長さんに尽きるぜよ。そして、さらには、たったの一撃で天草四郎を魔界に送り返した、大先生がいたればこその話しじゃきに。それをそんなに褒められたりしたら、わしゃ穴があったら入りたいくらいじゃ』

 龍馬の話を訊いていた者たちは、どっと沸いたので龍馬は頭を掻きながら引き下がった。

『じゃがのう。龍馬もみなの者もよく聞いてほしいのだ…。もし、益田四郎時貞をあのまま放置しておいたなら人間界はおろか行く行くは、この神仙境にまで影響を及ぼしたやも知れぬのだ。それを未然に防いだ功績は、この地球はおろか大宇宙にまで匹敵するかも知れぬ。それだけ、その方たちは大いなる仕事をし遂げてくれたのだ。天帝も大変満足のご様子でおられた。よって、その方たちにも特別の任務を与えよとの仰せであった』

『その特別な任務とは、一体どのようなことでしょうか。大師さま』

 昇太郎が訊ねた。

『うむ、それは追って知らせるとのことであったが、何も心配することはない。大宇宙の果てまで行けとは云わんであろうからのう…』

『はい、ぼくは心配などしていません。行けと云われたら、どんな時代にでも行く覚悟はできています。ただ、ひとつ気になっているのは信長さまのことです。前に大師さまは、天帝さまにお願いして、信長さまを別の次元から復活させてやろうと、おっしゃっておられたではありませんか。それなのに、いつまで経っても信長さまの姿さえ、見られないじゃないですか。その辺のところはどうなっているんでしょうか…』

 昇太郎に言われて、神仙大師はポンと膝を叩いた。

『おお、そうであった。天草四郎のことに感けていて、すっかり忘れておったわい。いくら神仙の一族とは云えども、やはり歳は取りたくないものじゃのう…。しばらく待っておれ。これ、そろそろ出てまいれ』

 神仙大師が声をかけた。すると、辺り一帯に赤い閃光がひらめき渡った。

『しばらくだったな。昇太郎、坂本』

 昇太郎と龍馬の前に現れたのは、真っ赤に燃え上がる焔のような、オーラに包まれた織田信長だった。

『の、信長さま。そのオーラは…』

『信長さん……』

 昇太郎も龍馬も、それ以上声が出なかった。

『何をそのように、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしておるのだ。ふたりとも』

『信長さま。そのオーラ…』

『信長さん…』

 昇太郎も龍馬も驚きのあまり、同じ言葉を繰り返すばかりだった。

『おお、このオーラか…、このオーラはな。別の次元に行って、再びこの世界に復活した者が、一段階高い位の精神体になった証だとか訊いたぞ』

『でも、信長さま。天草四郎にやられてから神仙境から姿を消されましたが、一体どこからどうやって、ここに戻ってこられたんですか…』

『それが、どうにも判らんのだ…。たぶん神仙大師さまが天帝にお願いして、復活させて返してよこしたんじゃないかと、わしは睨んでおるのだが…』

 信長が神仙大師のほうを、チラッと盗み見をするような仕草で言った。

『わしは知らぬぞ。信長…、わしは知らぬ…。わしは何もしとらんし、何も知らぬぞ…』

 神仙大師は知らぬふりをして、とぼけていたが昇太郎には分かっていた。信長が別次元に他界した時、「わしが天帝にお願いして復活させてもらうから、何も心配など致すではないぞ。昇太郎」と、言ってくれた言葉を昇太郎は一刻も忘れることはなかった。

 その日の神仙境での宴は、信長の復活を祝って盛大に繰り広げられ、昇太郎も龍馬も天草四郎との闘いを、余すところなく信長に語り聞かせた。

『と、いう訳なんじゃよ。信長さん。それにしても、うちの大先生は歳は喰っていても、あれでなかなかのもんぜよ…。まっこと』

 龍馬は神仙大師に聞こえぬように、信長の耳元で小さな声でつぶやいた。

『んむ…。何か申したかの…、龍馬』

 神仙大師は聞き耳を立てたように龍馬に訊いた。

『何でもありません…、大先生。別に何も気にせんでいいぜよ。こっちのことじゃきに』

 こうして、信長の復活を祝った宴は夜遅くまで続けられた。

 宴があった日から数日が経った頃、ソーラの舘に神仙大師から呼び出しが掛った。

『いよいよ来たかな…』

 信長がニヤリと笑いながら言うと、龍馬も頷いて昇太郎と顔を見合わせた。

『天帝の沙汰が下りたようぜよ…。昇太郎さん…』

『さっそく行って見ましょうよ。ソーラも行こう…』

取り急ぎ神仙大師の舘に向かうと、大師は極めて厳粛な姿勢で四人を待っていた。

『天帝が申されるには、此度の天草四郎のような忌まわしき事象は、これから先の世にもそれ以降の世のにも、二度とあってはならなぬとの見解であった。

 よって、その方たちに天帝より特命が下りた。まず、織田信長には戦国の世から飛鳥時代までの世を、坂本龍馬には江戸幕府開府より明治に到るまでの時代を。そして、大山昇太郎には明治以降より令和を含む未来全般を、此度のような忌まわしき事柄が起こらぬように、要所要所を厳重に固めて警護しなければならぬとの仰せであった。これにより、その方たちは、これから直ちに各時代へと出向いてもらわねばならぬ』

『じゃぁ、ぼくはまた令和の時代に戻れるんですね…』

 昇太郎は目を輝かせるように言った。

『よろしいでござりますぞ。大師さま、わしたちはこれよりすぐにでも出立致します故、どうぞ、ご案心くだされ。それでは、これにて御免被ります…』

 信長は素早く立ち上がりかけた。

『待ちなさい。信長、それからその方たちも、その姿のままでは人間界には行けぬぞ。天帝はその方たちに仮の姿を与えよと申された。然るに、ここにてまったくの別人になり替わって人間界に降りるがよかろう。そーれ…』

 神仙大師がひと声かけると、三人の姿は各時代にマッチした、年相応の姿に変貌を遂げていた。

『さあ、往くがよい。これでわしの仕事は終わった…。後は、その方たちの裁量で各時代ごとに、その時々に応じた人間の治安と平和を守ってやるのだぞ』

『それでは、わしも行きますきに、大先生も達者でのう…』

 龍馬も信長に次いで神仙境から立ち去って行った。最後に取り残された昇太郎は、無言のままソーラと顔を見合わせた。

『これ、昇太郎。その方も早く行くがよい。それから、ソーラも昇太郎と一緒に往ってやりなさい…。どうやら昇太郎は、その方と離れたくないと思っておるようじゃからのう…。ホウッホホホホ…。これでよいのじゃ、これでのう…』

 それから間なく、昇太郎とソーラも神仙大師に別れを告げて舘を後にした。昇太郎は期待に胸が高鳴っていた。これから始まる新しい生活と、懐かしい令和の世界に帰れる喜びで、数日前に谷川岳で転落死したことさえ、悪い夢でも見たような気になっていた。

                                   完

                 2/12/2022 PM1:34

                             以上、完結です。


    あとがき


 大迷界に引き続き、またしても「神仙境」なる仮想空間をでっち上げてしまった。

 この物語は、一体何なんだ。と、言われたらそれまでの話だが、大迷界も神仙境も私の空想の産物で、どちらも死後の世界を想定したものであった。人間いつかは死ぬものであるから太古の昔から人間は、自分たちが死んだらどうなるのだろうという、疑問符めいたものを持っていたに違いない。

 人間、長い間生きていると様々な死と遭遇する。親や親族・友人知人たちの死がもっとも身近な死との遭遇である。私が初めて人の死というものに遭遇したのは、私がまだ四・五歳の頃で、上の姉が十九で死んだ時だった。その次が私の母親で、私が二十歳の時に他界した。このようにして、人はこの世に生まれてきたからには、いつかは必ず死ぬということを身をもって知ったわけである。

 さて、本題に戻ろう。この令和神仙記という物語の発想は、昔テレビドラマでやっていた、「大江戸神仙伝」というドラマから得たものである。が、これもまた然りで「令和神仙記」のほうは、またしても似ても似つかない作品に仕上がってしまった。

 主人公の大山昇太郎は、令和になってから最初の初日を見ようと、前日から谷川岳の登頂に挑んでいた。地形の関係から、気候が目まぐるしく変わりやすいと言われている谷川岳も、気温は低かったものの穏やかに晴れた、絶好の登山日和だった。ようやく山頂に到達して、令和二年の初日が昇るのを待っていると、やがて周りの山々を明々と染めながら太陽は昇ってきた。

 昇太郎は初日を拝し、いざ下山しようとして足場の岩に足を掛け一歩踏み込んだ時、岩はもろくも崩れ落ち昇太郎は真っ逆さまに転落して行った。自分が死んだことを悟った昇太郎のところに、白いオーラに包まれたソーラが現れて、精神体となった昇太郎を神仙境へと案内して行く。神仙境に着くと神仙大師に目通りが許されて、神仙大師から法力を授けられ坂本龍馬の精神体を連れてくるようにと命を受ける。

 こうして、昇太郎は慶応四年に行って龍馬を連れてくると、今度は精神大師が龍馬に織田信長を連れてこいと命じるのだった。

さて、この物語には西遊記でお馴染みの孫悟空や猪八戒・沙悟浄なども登場するのだが、何といっても極めつけは悪役で登場する天草四郎時貞だろう。幼い頃より神の子として人々から崇められ、百姓一揆に加担したという罪で、打ち首にされたことを根に持って魔界のものに魂を売り渡して、人間を根絶やしにしようと画策するが、ことごとく打ち破られ時間を遡って、縄文時代はおろか旧石器時代まで行って、原始日本人を絶滅させようとしたのだ。

 昇太郎たちが危機一髪と危機一髪という時に、雲に乗った神仙大師が現れて天草四郎を見事魔界へと落とし帰す。と、いうのが、この物語の主だったストーリーなのだが、書いていて自分でも何故か物足りなさを感じた。これは取りも直さず私の力量のなさを如実に物語っているのだから、仕方がないと言ってしまえば、これまた仕方がないことなのかも知れない。とにかく、そんなことで悩んでばかりはいられないので、新たな作品に取り掛かりたいと思っている。

 私が初めて書いた作品がタイムマシンをテーマにしたものだっただけに、また時間テーマのものを書きたいという欲求は強い。いま現在構想にあるものは異次元テーマなのだが、こちらのほうはもう少し時間をかけてじっくりと考えてみたい。

 そんなわけで、令和神仙記も何とか無事完成することができた。

 全国の天草四郎を崇拝している方々に謝罪ししなければならない。私は別に悪意を持って天草四郎を悪役にしたわけではない。歴史的に見ても、天草四郎ほどの人物はいなかったからに他ならない。ましてや、自他ともに神の子として認めていたからだ。

 さらには、四郎自らも数々の奇跡を起こしたとの記録も残っていると聞く。このような逸材は、どこを探しても見当らなかったからに過ぎない。だから、天草四郎を悪役に仕立てたことに、いささか悔いが残らないでもないが、この辺で一応終わりということにしたい。


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令和神仙記 佐藤万象 @furusatoha

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