第50話

「け‥圭ちゃんっ!」思わず大声を張り上げて倒れている圭ちゃんに駆け寄った。


 ほぼ大の字の形で圭ちゃんは目を閉じたまま動かないでいる。いや、実際は動いているのだ。手足が痙攣していて瞼もプルプルしている。


「圭ちゃん!大丈夫かっ!?」


 大声で叫んだが、動かしていいものかと私の手は途中で止まったままだ。完全に頭の中が真っ白な状態だった。


「き‥救急車!」


 ポケットに手を突っ込んで携帯を取り出すが、しっかり掴んでいなかったのか携帯は床に落ちた。慌ててそれを拾い上げボタンを押そうとする。


 番号はいくつだ。


 2‥4・・・。それは自宅の番号だ。番号が思い出せない。

 9‥9・・・。ダメだ落ち着けと自分で横っ面を叩いた。パシッとピットに音が響く。


「そうだ。119だ」


 押す指が震えている。ちゃんと押せたのかもわからず携帯を耳にあてた。すぐに繋がった。


「事故!あ~事故です!──」


 もしもしを言う余裕も無かった。救急車を待つ間もずっと圭ちゃんに声を掛け続けた。「遅い・・・まだか」十秒が一分のようにも思えた。キャビンの上に目をやる。


(あそこから・・・・)


 ピカピカに磨き上げられた塗装面が怖いような光を放っていた。耳を澄ませる。音は聞こえない。まだなのか。次第に苛立って来ているのが自分でもわかった。冷静になれと思った時、浅利の顔が浮かんですぐに電話を入れた。呼び出し音が数回鳴ったところで浅利の声がした。


「け・・・圭ちゃんが事故った」思わずそう叫んでいた。

「事故った?車でですか?」

「違う!キャビンから落ちたんだ!」


 救急車よりも浅利の方が早かった。全力疾走で飛び込んで来ると、私と全く同様に立ちすくんだ。


「救急車!島田さん救急車は!?」

「呼んだ!待ってるところだ」


 待っている時はなかなか来ない。それは救急車も一緒だ。実際はかなり早く到着したのだろうが、なかなか聞こえないサイレンがもどかしかった。


 やがて耳にサイレンの音が届く。浅利も気付いたようで二人で道路の方に顔を向けた。それから私は駆けだして救急車がいち早く見える位置に立った。


 サイレンの音がどんどん大きくなる。私の鼓動も一緒だった。手招くように救急車を敷地に入れさせると、すぐに出てきた隊員に事情を話した。隊員がピットに入って行き、圭ちゃんにわかりますかと声を掛けている。反応はない。


 ストレッチャーが降ろされ圭ちゃんが運び出される。近隣の会社の人達が何事かとこちらを伺っていた。けっこうな人数だった。


 浅利にあとは頼むと言ったような記憶がある。隊員に何か訊かれたような気もしたが、あまりよく覚えていない。とにかく私は一緒に救急車に乗った。


 無線で何かやり取りをしていただろうか。絶えず鳴り響くサイレンの音。何色とも表現できない圭ちゃんの顔。それらが私の魂でも抜き去って行くようだった。


 気が付くと病院に居た。まさにそんな感じだ。


 ICUに入れられた圭ちゃんは、いろんなチューブや電線に繋がれTVで見たかもしれない機械に囲まれていた。実際これもはっきり見たのか曖昧だった。


 ご家族の方に連絡は・・・。不意に私は隊員だったか医者だったかの言葉を思い出し、病院の外へと出て電話帳を表示させる。智ちゃんだ。


 何か用事の時にでもと番号を訊いていた。それがこんな時に使うことになるとは思ってもみなかった。なんて言えばいい。呼び出し音が鳴っている時は何も考えられなかったが、声を聴いた途端、割とスムーズにありのままを伝えることが出来た。もちろん智ちゃんの声は震えていた。お母さんには私から伝えるというのが最後の言葉だった。


 どのくらい経ってからだろうか。


「島さん!?」という声に顔を上げると、智ちゃんと圭ちゃんのお母さんが一緒に立っていた。


「おばさん!智ちゃん!」


 そう言って立ち上がると深々と頭を下げた。


「この度は申し訳ありませんでした」


 すると私の肩に手が触れた。


「智美さんから事情は聞いてるのよ。島田さんが謝る事なんてなにもない。むしろ謝らなきゃならないのは私の方よ。圭一の不注意で島田さんに迷惑を掛けちゃったんですから。ホントすみません」

「おばさん・・・・」 


 労う言葉には強さと弱さが入り混じっていた。私は首を振った。


「そうよぉ島さん。みんなぁ圭ちゃんが悪いのぉ!馬鹿なのよぉ~」

 私は首を振ることしか出来ず、再び力尽きたように腰を下ろした。


「それで状態ってぇ、島さん聞いたのぉ?」

「ちょっとだけ・・・。医者が言うには予断を許さない状態だって・・・・」


 その言葉に智ちゃんは顔を覆って声を押し殺した。私を労い毅然と振る舞っているようにも見えるおばさんも、その心中たるや私の比ではないのかもしれない。それから五分ほど経って水月が現れた。


「和也さん!」今にも泣きそうな顔だ。現れたことに驚いたが、智ちゃんの後に電話を入れたことを忘れていた。私の元に歩み寄ってから、すぐに智ちゃんを見つけ力を落とさないようにと抱きしめている。


「水月さん・・・・。忙しいのにぃ、すみませぇん・・・」


 必死に出している声に水月は何を言ってるのと首を振り、それから私の隣に座って頭を肩に寄せて来る。水月の鼓動が感じられるようだった。私はじっと磨かれた床に目を落としている。何をすればいいのか暑いのか寒いのか病院に漂う匂いすらもわからなかった。


 元に戻った喜びがたった数時間で奈落の底に落とされてしまうとは。こんなことなら悪態をついてる圭ちゃんでも良かったと思ったものの、それは後の祭りでしかない。私はただ無事に回復することを願うだけだ。


 肩に置かれた手にゆっくり顔を上げると、おばさんの顔があった。


「島田さん、今日のところは時間も時間ですからひとまずお戻りになってください。智美さんと一緒に先生の話を聞いて来たんですけど、経過を見る以外には何も出来ないってことらしいから──」


 私と同様に水月はおばさん、そして智ちゃんに顔を向ける。智ちゃんはこくりと頷いた。



──「このまま一緒に帰る?」


「そうだな・・・・いや、一旦店に戻らないと」


 水月のヴィッツで店に戻った時には空はすっかり暗くなっていた。


 車の音を聞きつけ中から浅利が出てきた。早く何か訊きたいといった表情で、車に駆け寄ってきた。


「島田さんっ、状況はどうなんですかっ?」気持ちが高ぶっていて普段の浅利の喋り方とは異なっていた。私はおばさんや先生から聞いた話をそのまま浅利に話して聞かせた。

「すっかり留守番させちゃって・・・・悪かったな」

「いや・・・・。そんなことは──」


 そう言ってから浅利は水月の方を向いて軽く頭を下げた。


「しばらくぶりです」

「元気そうね」


 二人の僅かな間に微笑みが浮かんだ。


「あ・・・そうだ。夕方トラックを引き取りに見えたんで、お客さんには適当な理由話して、それでまた改めてってことになりましたから。それから──」


 店は開けていたので当然客も来る。売れた商品と代金はメモしてあると浅利は続けた。


「フッ‥。すっかり商売までさせちゃったか」

 私は浅利に向かって頭を下げた。


「や、やめてくださいよ。そんな──」

「この礼はあとで必ず・・・・。落ち着いてからな・・・・」


「そんなことは別に・・・・。島田さん。栗原さん大丈夫ですよね?」

「ああ‥。大丈夫さ!」


 あるいは浅利ではなく自分に言い聞かせたのかもしれない。その後、浅利はとぼとぼとした足取りでロードスターの方へ歩いて行った。その後ろ姿をじっと水月と見ていた。


「悪いけど先に帰っててくれ。俺は店を閉めたりして帰るから。そんなに遅くはならないと思うけど」


 わかったと言って水月は車に乗り込み控え目に掌をあげた。シャッターを降ろしカウンター以外の照明を落とすと、人の温もりも消えた椅子に深く腰を降ろしタバコに火を点ける。たなびく煙がどこを見ているのかわからぬ目に沁みた。

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