第46話

──ピンポーン♪


 ボタンを押す指がいつにも増して慎重だ。とてもただいまといった感じではない。


「は~い」と声がして鍵と扉が開く。水月と目が合った。

「ただ‥いま」


 間の抜けた挨拶になってしまった。私は全神経を集中させ水月の表情を伺う。まるでこの人は誰と言わんばかりに。


 足を一歩踏み入れると、水月は私の唇を塞いでから、


「一番こうするのがわかりやすいかなって」

 と、言った後でフフッと笑った。確かにその通りだと私は目を細めた。どうやら水月も変わっていないらしい。その後、他愛も無い話を交えながら圭ちゃんのことを話した。


「そう・・・なの。でもまた戻ったら変わるってこともあるわけでしょ?」

「その可能性はあるけど、絶対じゃないし、このまま終わるってことだって──」


「このまま・・・・。つまりは今のままってこと?」

「フッ‥。それが今の俺の一番の悩みのタネってとこかな」


 水月は黙って俯いた。水月も圭ちゃんや智ちゃんとは親しくしていたのだから言葉を無くすのも当然だろう。こんな状況だ。とても水月を抱く気分にはなれないし、水月も理解してくれているはずだ。


 カレンダーに目をやる。気のせいかまた薄くなったようにも見えるが、些細な問題過ぎてそのことには触れようとしなかった。


 ベッドに横になってもあれこれ考えてなかなか眠れなかった。




 翌日、浅利は店に一度も顔を出さなかった。そして、その翌日も・・・・。


 店内に溢れていた会話や笑いは閉ざされ、あるのは黙々と作業する音だけだ。それでも接客している間は多少なり気が紛れた。ただ、それも大した時間ではなく客が姿を消してしまえば、また沈黙という重い空気が店内を被う。


 かつての阿吽の呼吸はすっかり影を潜めて、今は出口のないトンネルの中を彷徨っているかのようだ。それが私には何よりも辛く感じた。


 もし・・・本当にこのままだったら。


 何度となく起こった不可解な現象が一週間も途絶えると、更なる不安が私に押し寄せてくる。コーポに帰りさえすれば、確かに安らぎはあるものの、差し引きゼロではなく明らかにマイナスだ。もう終わりなのかと過去への旅を呪ったりもした。


「──何かあったんですか?」


 私と圭ちゃんのやり取りを知る者であれば、そう言いたくなるのは当然かもしれない。その都度、言い訳するのも大変だったが、とても本当の話などは聞かせられない。日に日に食事の量も減って行く。それを水月も心配した。



「和也さん。ちょっとやつれたみたい」自分でも薄々感じてはいた。だけど、打開策といえるものは見出せなかった。


 ぼんやりとカレンダーを眺めている。恵理香の命日はもうすぐそこだ。墓前で泣き言の一つも呟いてみようかと、虚ろな視線を下げた時、額に薄っすらと汗が滲み始めた。


「恵理香・・・・頼む」


 と隣で寝ている水月にも聞こえないような声を出し、力強い歩調でトイレへと向かった。



 便座に腰を下ろす。便意は無い。目を閉じると床が傾き始めた。実際はそう感じているだけで、あくまで感覚なのだろう。


 アトラクションの乗り物のひとつのように、右に左に大きく揺れ、それがやがて回転を始める。この時が一番朦朧とする。目が回り出したと思うと今度は様々な声が聞こえる。何倍速もあってか聞き取れない。そして、日めくりカレンダーが変わって行く映像が高速で流れる。捲っているのではなくて破られた紙が戻って行くのだ。



────目を開けると家族という生活の匂いがした。


 どんな状況下だろうかと恐る恐る足を踏み出すと、何枚も重ねられたダンボールに目が留まる。廊下や玄関に無造作に置かれていて、箱には可愛らしいゴリラの画がプリントされている。


(引っ越し・・・か)


 頭にそんな文字を浮かべながら子供達も喜びそうだと私はひと時だけ表情を緩ませた。


 真由美が待っているのではと思ったが、その姿は無くテーブルの上には紙が置かれてあった。近寄って見るとすでにすべてが埋められていて押印されていた。鮮やか過ぎて眩しくも見える朱色を隠さんと折りたたんでいると、背後から声がした。


「二十日で良かったのよね?」


 真由美だった。ああと頷いて私は一つだけ提案した。その提案に真由美は優しい笑みを浮かべて、


「皮肉なものね。こんな時に長年連れ添った夫婦を感じるなんて」と同じようなことを話そうか迷っていたのだと言う。それは親子四人での買い物だった。


「最後くらいはな・・・・」


「そうね。じゃお互い名演でもしましょうね!」それだけ会話を交わすと、用紙を握りしめて二階へと上がった。引っ越しの話はしなかった。それからしばらくして手ぶらで降りてきた私に再び真由美が声を掛けた。


「出掛けるの?」和やかな会話の後だったからか、それ以降のチクリとする言葉は無かった。



『リベルテ』のチャイムを押したのはそれから四十五分後くらいだった。表情も何一つ変わってなく、嬉しそうに髪を揺らした。


「また、目玉焼きが食べたくなってさ」綺麗に片付けられた部屋を見ながら言うと、

「今日はお買い物して来てるから、明日の朝は御味噌汁よ」恵理香は得意そうに返した。


「味噌汁!具は何?」


「アサリ!島さん好きでしょ?いつもボンゴレばかりだったから」キラキラする目に楽しみだと伝え、私は言葉を選ぶように離婚に纏わる話を切り出した。


「そう・・・・二十日・・・・」

「それで最後は仲の良いところを子供に見せようって、一緒に買い物することになったんだけど」


「・・・・思い出にって」

「そんなところかな。知ってるだろ?『レインボー』?」


「ええ。ショッピングセンターね。私も何度か行ったことがあるわ」

「そう。だからもし恵理香がそこに来て見ちゃったりしたらって」


「それで──」

「誤解されたりしたら大変だからな」


「そうね。言われなかったらビックリしちゃうかも。でも、ちょっと見てみたい気もするかなって」


 これで一先ず恵理香の誤解は避けられそうだ。そう思った時、ある人物が脳裏に浮かんだ。


「そういえば、その後お父さんって?」

「ううん。このところは全然──。もう来ないんじゃない」


 さばさばと恵理香の口調にこちらもやや安心を覚えた為、思いを別のところに移す。あとは何をすればいい?圭ちゃんが元に戻ることばかり考えていたので、楽しみにしていたアサリの味噌汁が少しばかり味気なく感じてしまうのだった。


 恵理香のコーポから店までは二十五分で辿り着いた。圭ちゃんの318の隣に車を止め、短い通勤は良いものだと足を踏み出すと、圭ちゃんがそそくさと歩み寄って来てこう言い放った。

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