第41話

 何千回と開けたであろう扉から一歩足を出し、辺りを伺うように歩を進めて行くと、ダイニングの明かりの中に真由美の後ろ姿を見つける。スタスタと歩いて行き、ずれている椅子に招かれるまま相向かいの席に腰を下ろすと真由美の顔を見た。


 直後背中が凍りつくのを感じた。以前と違う。物を言わんとする目だ。


「良い弁解でも見つかったかしら?」

「弁解!?」


「トイレに籠ってそれを考えてたんじゃないの?」


 局面がわからず戸惑ったために次の台詞が出なかった。真由美は言い訳が出来ないと判断したのだろう。


「海には隣の会社の人と行くって言ってたわよね?」


「ああ・・・・」場面がわかった。と思ってもいきなりスタートするのは気が重いところだ。


「圭ちゃんには私の実家に行くって話したんでしょ?」

「そう・・・・だったか・・・・」


「じゃ~あなたは誰とどこに行ってたの!」

「誰と・・・」


「それってちなみに男?それとも女なの?」

「男と・・・言うか・・・・」


「ふざけないでよ!」と真由美は一枚のハガキをテーブルの上に叩きつけた。バンと言う凄い音がした。


「こんな名前の男がどこに居るっていうの!それにしても呆れたわね。ご丁寧に家の住所なんか書いて。お店にでもしとけばまだしも、詰めが甘いと言うか───」


 ハガキがここに届くのも今となっては想定内だ。それが原因かは不明だが、真由美は私の良く知る真由美に戻った。つまりは元通りだ。方向性としては悪くないと、つい口の端を上げてニヤついてしまった。


「何がおかしいの!?この場に及んで開き直る気?」


 私は真顔に戻って口元を引き締めた。


「ま~いいわ。行きましょ?」

「行く!?行くってどこに?」


「この素敵なお名前の人のところよ」

「行って・・・どうするんだ?」


「決まってるじゃない!裸にして外に放り出してやるのよ」

「裸にしてって・・・・」


「あら!?いつも見てるんじゃない?見てるだけってことも無いんでしょうけど」


 もはや想定内とは言えなくなってきたと、私はどうこの場を凌ぐかあれこれと懸命に知恵を絞る。生憎いい考えは浮かばず戸惑うばかりだ。


「いや・・・・何も今夜じゃなくても・・・・」


「明日になったら私の気が変わると思ったら大間違いよ!この恵理香っていうメス犬の横っ面二、三発張り倒してやらないと気が済まないわ!」


 今の真由美だったら本当にやりかねない。私は喋ることは愚か立つことも出来ずにいる。どうせなら針でチクチクといった前振りが欲しかった。いきなり鋭利なもので突かれるのは辛いものがある。おまけにこちらには鎧も反撃する武器もない。つまりはじっと堪えてこの場をやり過ごすしかないのだ。いっそのこと映画にもあった貝になりたい心境だ。ふとそう思ったら『ペンペン草』のボンゴレが頭に浮かんだ。


「フッ‥」我ながらこんな時にと呆れて笑いが出てしまった。

「おかしい?おかしいでしょうね。若い女相手に嫉妬してる中年女ってのは───」


「別にそんなことは・・・・」

「今のはそういう笑いよっ!」


 ズバッと言った後で、真由美はじっと私の顔を見つめた。十秒、いやもっと長かっただろうか。


「何かあったらお父さんいつでも帰って来なさいって。これがきっとその何かなのね」


 スッと立ち上がって真由美は背中を向ける。



「ハンコ用意しといて───」


 遠ざかって行く足音にカウントダウンが始まったと思った。



 翌朝、私は五十分ほど掛けて店へと向かった。軽いサニーのハンドルが重く、曲も流さなかった車内は私の吐息で充満していた。


 店に着くと掃除をする圭ちゃんと目が合い、軽く手を挙げる。余程冴えない表情だったのか、車を降りると圭ちゃんがすぐに歩み寄ってきた。


「なんだか悪いことしちゃいましたかね~?」

「悪い!?」


「昨夜、その・・・・真由美さんに海のこと訊かれて──」

「あ~!圭ちゃんには実家にって話したんだからしょうがね~だろ」


 申し訳なさそうな圭ちゃんを労うように声を掛けた。すべては自分の撒いた種なのだ。


「でも・・・言った後でしまったって思ったんですけどね。もうその時は真由美さんの顔が変わってたから」


「あいつは特に勘が鋭いからな」

「じゃ、昨夜会ってた女性ってのが、その・・・・あれですか?」


「いや・・・・女性!?」

「人に会うからって夕方───。島さん相手が男の場合はたいてい名前を言いますからね」


「そう・・・か。フッ‥。圭ちゃんも鋭いな」


 照れくさそうに笑う圭ちゃんに昨夜会っていたのは保険屋で、その保険屋は一緒に海に行った女性の姉だという話を聞かせた。


「それで、妹と今後どうするんだって・・・・いや~絞られたよ」

「そうだったんですか。それにしちゃ手強そうな感じですね」


「相手が妻子持ちじゃ、さすがに心配なんだろ」

「それって・・・島さんから───。あ、いや、訊かない方が良いですね」


 慌てて手を振る圭ちゃんに、私は二人が出会った経緯などを話した。


「交差点ですれ違うはずだった車にハンドルを切ってぶつけたって感じなんだろうな」

「交差点で・・・・つまりは事故って?」


「事故なんていうと、ちょっとした弾みみたいに聞こえちゃうけどな」

「だけど、向こうだって嫌ならハンドル切って避けるでしょ!?」


「ハンドルを・・・か。いずれにしろ誘発したのは俺なんだろうし」

「なんだかホントの事故の話聞いてるようですよ」


 例え話が面白かったのか、圭ちゃんはニヤッと笑みを零した。私も零した。それが次第にちょっとした笑いに変わった。


「どうしたんです?」

「いや、実はちょっと面白い夢を思い出しちゃって───」


 と、圭ちゃんの悪態振りを話して聞かせた。

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