第40話

「どちらさまですか?」扉越しに水月が声を出す。


「あ~、管理人なんですが、水道の調子を伺いたいと思いまして──」

「あ‥はい。ちょっとお待ちください」



 私はそのやり取りにビクッと反応した。ま・・・まさか。


 水月に開けるなと言い掛けた時、扉の開く音が聞こえ、


「こんばんは。あ~どうも。実は水道の水が茶色く濁ったなんて話が出ましてね。こちらの方でも同じような感じでしたでしょうかね?」


「そういえば、ちょっとだけでしたけど、今は大丈夫みたいです」


「あ~そうですか。ご迷惑をお掛けして───」


 丁重に頭を下げて管理人は引き上げて行った。どうやら取り越し苦労だったようだ。



 その五分後、私は水月と共に浴槽の中に居た。驚くほど大きな浴槽ではないが、二人で浸かることは出来る。もちろん足は伸ばせないが。


 お湯で顔を撫でてからぼんやりと途中まで膨らませた風船のような物体を眺めていた。水月もその視線を感じたのか意識的に手で覆った。


「もう、恵理香のを見て来たばかりなんでしょ!」

「別に見てたわけじゃ・・・」


「じっと見てました!」


 その言葉に二人で笑いを零した。


「ペンションなんて話聞いてたら、なんだか私も行きたくなっちゃったわ」

「そういや、旅行なんて行ったことなかったっけ。来年にでも行ってみるか?」


 話の流れでそう呟いてみたものの、すべてが元に戻ったらという台詞は飲み込んだ。


「他にはどんなことがあった?」


 普段と変わらぬ水月を見て安心して忘れていたようだ。


「あ~また、お父さんに会ったよ。それも何回も出て来て・・・・二十万払えってさ」

「二十万!?例の・・・・」


「そう。そういや恵理香んとこにも来たんだよ。管理人だなんて言ってさ」

「管理人!?呆れたわね。それで払ったの?」


「いや、とりあえずは保留ってところまでだな」

「恵理香のところに・・・・。どうやって調べたのかしら。考えただけでもゾッとするわ。元々あの子が家を出たのも父親の暴力が原因なんだから」


「暴力!?」

「ええ。でも暴力を受けてたのはお母さんよ。それを見てるのが辛くなったんでしょうね」


 そうかと呟いて私は頭を整理させた。


「でも、お父さんが出て行ったのは恵理香に原因があったんじゃ?──」

「恵理香に!?」


「そう、なんて言うのか、昔付き合ってた男と問題があったとかで・・・・」

「浅利さん?」


「あ・・・そう」


「浅利さんとは御付き合いしてたけど、良い御友達って関係だったわよ。家にも何度も遊びに来て──。でも人の縁って不思議よね。その浅利さんが隣の会社で働いてるんですもんね」


 ストーリーにだいぶ変更があったようだと、表情を緩ませかけた時、先程のDVの話でハッと別のことが頭に過った。


「どうしたの?」


「いや、実は圭ちゃんがさ──」と、その変わり様を水月に話す。


「智美ちゃんに!?」


 水月は聞いた途端、表情を一転させる。過去に何度となく見て来たからなのだろう。


「お願い!またすぐ行って。そして変えて来て!」

「すぐって、行きたい時に行けるわけじゃないんだぜ」


「あ・・・そう・・・よね」水月も理解したのか弱々しい声を出した。

「もう・・・・終わったとばっかり思ってたんだけどな──」


 私もしみじみと呟いた。


「だけど、また戻って何かを変えないとダメだな」

「そうね。それでまた私に会うの?」


 たぶんと言って私は二つ並んだ風船に手を伸ばす。私を睨んだが拒んでいる目ではない。


「今の水月じゃなければこんなことは無理だろな~」

「そうね」と今度は水月が手を伸ばす。


「その時の私じゃ絶対こんなことはしてくれないでしょうね」


 視線を落とした水月は、何かを弄ぶ様にゆっくりと手を動かし続けた。湯船に浸かった時間なのか、私の身体の変化を感じたからか、水月の額には玉のような汗が浮き顔は紅潮している。このままではのぼせてしまうと立ち上がった私は、浴槽の端に腰を下ろした。するとそれを待っていたかのように水月は頭を近づけて来た。



 夕食はハンバーグだった。もちろん水月のお手製だ。家にいる時間も長いので凝った料理も出来るのだと、舌鼓を打つ私に自慢そうな顔を見せる。恵理香も料理は上手い。でも水月はその上を行く。きっと母親がよく教え込んだのだろう。


「いい奥さんになれるかしら?」


 以前の水月からは恐らく聞かれないであろう台詞だと、出し渋ったように噤んでいると、


「別に籍を入れてって意味じゃないのよ」と、ただの冗談という顔をした。

「だけど・・・・ずっとこのままってわけにもな~」


 かなり遠回しの言い方だが、プロポーズにも取れなくはない。もちろん水月はすぐに首を振った。


「ううん。いいのよ、このままだって──」


 これ以上触れてはいけない話題のような気がして、私は当たり障りの無い話に切り換え、箸を運び続けた。



「また薄くなったんじゃないか?」


 食後のコーヒーを飲んでいる時、私はカレンダーに目をやって呟いた。


「また、同じようなこと言って。変わってないわよ全然」


 水月の声にどうせこのところの移動で、目も疲れているのだとコーヒーを啜った。



 翌朝、店に着くと圭ちゃんの車は無く、シャッターも閉じたままだった。遅刻することに普段だったら良からぬことも考えるだろうが、昨日の今日ではそれが寧ろ自然にも見えた。シャッターを開けていると赤いゴルフがやって来た。隣には圭ちゃんが乗っている。


 おはようも、遅れてどうのの挨拶も無く、私を見るなり顎をちょこっと下げてみせた。



「おはようございますぅ~」代わりに声を出したのは智ちゃんだった。そして圭ちゃんに弁当を差し出した。


「ピーマンは?」


「おかず入れるのぉ~見てたのにぃ~」心無しその声には怯えの色が混じっているように思えた。


「専業主婦なんだからちゃんと迎えに来いっつーの!かったり~」と店に向かいながら背中越しに智ちゃんに手を振る。



 小さく手を揺らす智ちゃんに労いの言葉の代わりに軽く微笑んだ。化粧する時間が無かったのか、口の横には紫の色が残っている。私はつい眉間に皺を寄せた。



 このままじゃ・・・・まずい。


 昨夜、水月には行きたい時になどと言ったが、時には願ってみるものだと思った。


 二人の姿を眺めていたら突然、額に汗が滲み始めた。


「圭ちゃん。来た早々でなんだけど、また調子が───」


 私は腹を押さえながらトイレに向かう。



「ったく、またですか~。別に俺一人でやるから良いですけどね。あ~かったり~!」


 聞き納めにしたいフレーズを耳に私は呟いた。待ってろ圭ちゃんと。

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