第39話

 目を開けるよりも耳に届く声の方が先だった。


「ったく、便所なげ~っつんだよ!」


 ぼやくような口調だが、声は紛れもなく圭ちゃんだ。扉を開けて店内に顔を見せると、呆れたような笑いを浮かべる浅利と目が合った。浅利は私を見ながら首を数回振った。



「圭──」ピットに向かう背中に声を出しかけたものの、普段とは違う雰囲気が背後から伝わって来たのだろう。それは浅利の方を向いた横顔からでもわかった。何かを思い出したのか、クイッと顔を向け、


「さっきのやつ、早く持ってこいよシジミっ!」


 と、一言発してけだるそうに歩いて行く。姿や口調、そして表情までもが圭ちゃんとは真逆で、まるで別人にも見える。


 圭ちゃん・・・・か。


 私は新たな現実に心の中で頭を抱えた。圭ちゃんが見えなくなると、浅利はそれを待っていたかのように私のところへやって来て、内緒話でもするように話し始めた。


「しかし、島田さんも栗原さんみたいなのを使ってて大変じゃないですか?」

「大変?」


「ええ。何かと気苦労が絶えないんじゃないかって」


 どう答えて良いものか正直困った。


「いっそのこと、新しい社員でも雇ったらどうです?」

「首に・・・・してか?」


 ピットの方で金属音が響く、工具でも投げたような音だ。


「ったく、ピーマン入れんなっつーの!かったり~」圭ちゃんの声だ。



「島田さんは智美さんに気付きました?」


 ピーマンで思い出したのか浅利は一度振り返ってからさらに口を近づけて来た。


「智ちゃん!?」

「ええ。化粧でけっこうごまかしてたけど、顔に痣らしいのがあったんですよ」


「アザ!?」

「たぶんこれですよ」と浅利は拳を握って見せた。


「殴られた・・・誰に?」


 すると浅利はピットの方に顎を向ける。


 まさかと言いたいところだったが、現状の圭ちゃんを見る限りでは否定も出来ないと思った。こんな事態になるとは。


 いつもは冗談を交えて楽しい昼飯になるのだが、今日は二人とも無言だった。何か話そうと思っても何を話していいものか口が開かない。圭ちゃんは愛妻弁当に箸を運びながらピーマンを摘まみあげてゴミ箱に捨てている。


「ったく智美の野郎!ふざけやがって。かったり~」


 こんな調子だ。夕方までは、はれ物に触るように圭ちゃんと接した。


「圭ちゃん。もうあがってくれ!」

「あ、じゃ帰るか。あ~かったり~」


 そそくさと車に乗り込んでからホイールスピンさせてスキール音を響かせる。見送った後で私は椅子に腰を落とすように座って溜息をついた。



 2DKのコーポにはいつもの時間に帰った。たかだか三十分とは言え、今回の過去への旅はいつも以上に長く、おまけに圭ちゃんのことも重なって身体が重かった。


「・・・・ただいま」


 水月に会う喜びも口調には現れなかった。



「ちょっと遅いんじゃない?」

「!?」


「家で待ってる身にもなってよっ!」


 水月も・・・・か。


 激しい声に私は眩暈を覚えた。顔色を窺うように水月を見る。目の辺りが心なし違うようにも見えた。



「なぁ~んてねっ!」

「!?・・・どっ・・・・どっちの水月だ?」


「どっちのって、私よ和也さんっ!」


 ニコッと笑う表情に思わず力が抜けて、壁に手をあて身体を支えた。


「勘弁してくれよ~!」


 出たのは安堵からくる溜息のような声だ。


「ちょっと悪ふざけが過ぎちゃったかしら。もしかしてまた行って来たんじゃないかなって」

「それを見越しての演技って。用意周到だな」


「もう、またそれを言う。でも悪いのは私ですもんね──」


 安心したら余計に疲れが出たのか、ソファーに腰を下ろしてフーッと息を吐き出す。その様子からやや心配したように水月は近くに腰を下ろした。



「それで、今回はどこだったの?」

「恵理香と海に・・・・行った」


 記憶を辿るように水月に話し始めた。さすがに水着の件は出さなかったものの、恵理香と過ごす時間を懐かしむように水月は聞いていた。


「私にも会った?」

「ああ!がっちり絞られたよ」参ったとばかりに声を上げる。


「またっ!?なんだか複雑な気分だわ。行く度にどんどん嫌われて行くんじゃないかって」

「それは案外有り得るかもな~」


「もう、やめてよそんなこと言うの。そうだ。もう過去に行ったら私と会うのをやめて!」

「そんな都合よくいくかよ。そもそも呼び出してるのは水月の方なんだぜ」


 返す言葉が見つからないと水月は黙った。


「風呂・・・・入ろうかな・・・・一緒に入るか?」

「一緒に?」


「邪魔者は来ないだろ?」


 聞かされた話に罪の意識でも感じたのか、そうねと快い返事をして水月が立ちあがる。



──ピンポーン♪


 チャイムが鳴ったのはちょうどその時だった。

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