第35話

「あなた!?───」


 熱気の籠った部屋に漂う声には優しさが含まれていたからか、私は他人のように重くなった身体を起こし瞼を瞬かせた。汗で貼り付いていたらしく畳から肌が離れる際に音がした。


「もぉ~、真っ暗になっているから居ないのかと思っちゃったじゃない。こんな暑いところでよく寝られたわね」


 半ば笑いながらそう言うと、踵を返しやがて車の方から話し声が聞こえた。寝ている子供達でも起こしに行ったのだろうと、私も後を追うように歩を進める。すると、私を見つけた千明が小走りで駆け寄ってきた。


「お父さんっ!」


 真由美は子供たちには私のことをパパと話すが、お姉ちゃんになった自覚からか千明だけはお父さんと呼ぶようになった。


「おかえり!」互いに満面の笑みを浮かべる。里美はすっかり寝入ってしまったようで、真由美は重そうに里美を抱きかかえてくる。私はすぐに手を差し出し荷物のように受け取る。


「ありがと。今すぐ蒲団敷いちゃうから───」


 そう言い残し真由美はそそくさと家の中に入って行く。寝ている子供は重い。ただ、寝起きで疲れていた私には、里美の重さはいつも以上にズシリと来た。



───「見てお母さん!お父さんも焼けてるっ!」


 袖や襟から出た顔や腕に長女の千明が嬉しそうに笑う。相当遊んできたのか千明の肌も赤ではなく黒さが増したようだ。


「そっちも天気が良かったみたいだな!?」

「ええ。もう!これでも焼かないように気を遣ってたんだけど───」真由美は呆れたように自分の腕を翳して見た。私もその肌に目を向ける。恵理香と同じような色だった。


「元気そうだった!? ───」

「ええ。元気だったわよ。千明と里美の良い遊び相手って感じで───。今年も来ないのかってお父さん残念がってて・・・・・。フフッ‥」


 何かを思い出したような笑いに理由を尋ねると、


「今、残念がってたって言ったでしょ。今年はあなたが来るんじゃないかって面白いものを用意してくれてたのよ」

「面白い!?・・・」


「ええ。ハ・イ・ザ・ラ」


「灰皿!?」


 煙を嫌う親父を避けるように、真由美の実家に行った際は、コーヒーの空き缶などを手に隠れてタバコを吸ったものだ。それでも匂いがすると遠回しに言われたりするものだから、家からしばらく離れた場所まで歩いて行ったりもした。当然、顔を会わす時間も減る。


 そんな親父が灰皿を用意するとは・・・・。


「そうそう!お父さんがあなたにって!」


 真由美は楽しそうに鞄の中に手を入れる。


「どうせまた、これで酒でも飲むようになれって塩辛かなんかだろ?」

「違うわよ!はい!」


 そう言って差し出されたのは私の吸ってるタバコだった。細長い箱。ワンカートンだ。


「・・・・へぇ~」


 私はそれを受けとり複雑な顔を浮かべた。真由美の態度も然りだが、あらゆるものが変わってしまっている。単なる過去と割り切ってはみても、現在に帰った時のことを考えると心は決して穏やかではいられない。




 二階のベッドで横になってどれくらい経った頃だろうか。


 小さな手に揺さぶられて目を覚ますと、千明の顔が見えた。


「お父さん!お母さんがお腹痛いって!」


 それをわざわざ伝えるために千明に話したのではなかろうと、目をこすりながら階段を降りて行くと川の字に敷かれた端の布団で真由美が辛そうに唸っていた。


「どうした?」

「あ・・・寝てるとこごめんなさい。お腹が・・・痛くって」


「腹が!?なんか向こうで変な物でも食ったんじゃないのか?」

「そういう痛みじゃ・・・・ないのよ」


 如何にもといった辛そうな声だ。


「お母さんっ!大丈夫?」


 気持ちが悪いということで千明に洗面器を取りに行かせた。


「まさか・・・子供ってことは無いだろうな!?」

「なに、こんな時につまらない冗談いって・・・・」


 必死に笑おうとはしたようだが、余程苦しいのか笑顔には程遠かった。私はその様子から医者に行こうかと提案してみたものの、とても歩ける状態ではないと119とボタンを押した。


 意識もあるしとりあえずは会話も出来る。そう思った私はサイレンを鳴らさず来てくれと受話器に向かってお願いした。


 とはいえ、あくまで緊急だ。サイレンの音は近所まで鳴っていた。やがて、静寂と派手な点滅の光を伴った車が現れるや、足早に二人ほどの救急隊員が家の前に立つ私の元へとやって来た。すぐに彼らを真由美のところへ案内する。どこが痛いのか。いつ頃からなのか。飲んでいる薬はあるか等を確認し、


「歩けそうですか?」と声を掛けた。

「ちょっと・・・無理みたい」


 下腹部を押さえたまま真由美がやっとの声を上げると、隊員は車からストレッチャーを降ろし家の前まで転がしてきた。


 深夜の時間帯だからか、近所の家々の灯りは消えたままだった。


「誰か付き添いで一緒に乗られる方はおりますか?」


 隊員の人に訊かれたものの、私が乗ってしまえば小さい千明と寝ている里美を残すような形になってしまう。千明だけ乗せても不安になるだろうしと、


「場所がわかったら家族で向かいますから」と、真由美には悪いが一人で行ってもらうことにした。パタンと優しく隊員がリアハッチを閉めると、僅かばかりの隙間をギューッとクローザーが埋める。


 その光景を一番心配してたのは私を起こしに来た千明なのだろう。私の手を強く握って離さなかった。

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