第34話
───また遭遇するとは思っても見なかった。本当にあれが父親なのかとつい疑いたくもなるが、恵理香の一声を聞く限り間違いはないのだろう。女を作って出て行ったという話を聞いた時点で、ガラスで出来た父親像にはヒビが入り始めていた。それが目の当たりにすることでポロポロと崩れ出している。そもそも父親には会わなかったはずだ。
先程の男の顔を思い浮かべながら、ストローでアイスコーヒーを啜る。考えすぎて味は今一つ伝わって来なかった。
そのまま帰っても考え込む以外にすることもないと、私は『ナポリ』のカウンター席に腰を落ち着かせていた。思案に一区切りしたと感じたのか、
「海にでも行って来たかい?島さん」
ここでようやくマスターが口を開いた。客の呼吸を読むのが絶妙である。
「え!?あ~、やっぱりわかっちゃいますか?」
「だいぶ色が変わってるからね。その分じゃ天気も良かったんだろうな~」
「さすがに遊び疲れたって感じですよ」
ボーっとしていた理由を海に置き換えて、私はタバコに火を点けた。
「マスター!?」
煙と共に出た声にマスターはチラッとこちらに目を向けた。
「もし、過去に行けたとしたら何かしたいことってありますか?」
「過去に?あ~また島さん、映画見たね~!?」
図星とばかりに私は口の端を上げた。
「過去か~!やっぱり俺はあれだな。大穴ドカッと買って大儲けだろうな。そうすりゃ今頃はこんな店やってないで南国のリゾートで優雅に暮らしてんだろうな~」
景色でも浮かんだのか、マスターは遠くを見つめるようにして呟いた。
「リゾートね。フッ‥。でもこの店無くなると困るんだよな~」
「ハハ‥。そんなこと言ってくれるのは───。他にもまだ居るかな?」
と、マスターは入口の方を指さした。
「ビンゴっ!」
店内に足を踏み入れるなり圭ちゃんが親指を立てる。すぐ後ろには浅利もいた。
「おっ!?珍しいね~。二人で今日はデートかい?」
「ったく島さん。暑苦しいジョーダンは勘弁してくださいよ」すかさず圭ちゃんは額の汗を拭う仕草をした。
「それにしちゃ、焼けましたね~」
私の顔と腕を見ながら圭ちゃんと浅利は隣に腰かけ飲み物を注文する。五人ほど座れるカウンターは途端に狭苦しくなった。
「それより圭ちゃん。具合の方は?」
「いや~、まだイマイチって言うか、ちょっと身体が痛む感じがして。だから今日はシジミちゃんに送迎してもらってるってところですかね」
「またまた~、さっきは元気ハツラツなんて言ってたじゃないですか栗原さん。もういいように足に使うんですから」
「いや、俺はロードスターのポテンシャルを横で確認したいって───」
いつもの馬鹿話が始まったとマスターは口を噤んで目を細めた。
「そうそう!惚れ直したんじゃないですか?久々に真由美さんの水着姿に」
「水着!?あ・・・まぁ・・・別になぁ~」
「なぁ~って。結婚するとそんな感じになっちゃうんですかね?でもそうだよな~・・・・。俺だってもう智美の裸見てもな~」
「裸ですか!?」
圭ちゃんの何気ない一言に浅利は驚いて目をひん剥いた。
「今、想像しただろ?シジミちゃん!」
「あ‥いや‥ちょっとビックリって言うか。・・・ちょっと浮かびましたけど」
なまじ冗談ではないのか、浅利はやや恥ずかしそうな顔を見せた。私も圭ちゃんも、そしてマスターも笑った。
「だけど、真面目な話、浅利にはいろいろやってもらって。ホント助かったよ。そのお礼じゃないけど、この店の会計は俺が持つから、ステーキでも何でも好きなもの食ってくれよ!」
「ス‥ステーキなんかあるんですか!?」
浅利は思わずメニューに手を伸ばしながらマスターの顔を見た。
「なんなら御作りしましょうか?そういやこの辺に肉屋ってあったっけかな!?」
こんな時のマスターはノリも良くなる。してやられたと浅利は三人の顔を交互に見て笑った。
「それはそうと圭ちゃん。笹川の社長からなんか話はあった?」
「ええ。もう新車じゃ買えないから中古で同等のZ3をって言ってくれたんですけどね。俺もZ3見るのがなんだか辛い感じがして───。だから同等のセダンにしてくれって」
「セダン!?」
「ええ。それも右ハンでって!」
「右!?」
左ハンドルばかりの圭ちゃんが今回なぜ右にしたのかも知っている。それでもここでは調子っぱずれな声を出しておいた。
「ちょっとした狙いがあるって言いますか───」
「へぇ~!じゃ~早速その狙いってのを───」
喰い付いた途端に、圭ちゃんはスッと掌をこちらに向け、今は島さんにも話せないと首を振った。
「あとでちゃんと話しますから!」
「フッ‥。わかったよ。右ハンね~」
つい浮かべた笑いに圭ちゃんもニヤッと笑みを漏らす。
「ちなみにそれって智ちゃんは?」
「あ~智美にも話しましたよ」
「なんて言ってた?セダンって・・・」
「最初は渋い顔してましたけどね。文句があるんだったら乗せねーぞ!って言ってやりましたよ」
「おっ!言うね~!乗せねーぞだってよ浅利!」
「智美さんにですか!?」
「あっ!?また想像しただろ?裸」
「し‥してませんって栗原さん!!」
まさしく馬鹿話だ。お蔭でモヤッと淀んだ気持ちがどこかに消え失せてしまったかのように、例え僅かな時間だけだが私の心は軽くなった。そして、『ナポリ』に来て正解だったとつくづく思うのであった。
家に辿り着いて足を一歩踏み入れると、私の身体を得体の知れない何かが覆った。疲れなのか何なのか、よろよろと和室まで行って大の字に倒れ込む。数日間も閉め切っている部屋は蒸し風呂状態に近かったが、窓を開けて換気する気力も今は消え失せている。
暑さも然程感じていなかったのかもしれない。ジッと天井の板の模様を眺めた。圭ちゃん達との会話はある種の清涼剤にはなったものの、あくまでそれは一時だ。
───南国のリゾートで優雅に暮らしてるよ。
突然、マスターの楽しそうな笑みが浮かんだ。何も南国でなくても良い。現在に戻ったらすべて丸く収まっていれば・・・・。今、見ているそのものが夢なのだと言い聞かせて。
いつの間にか寝入ってしまったらしい。
突然照らされた灯りにふと目を開けると誰かが私を見下ろしていた。真由美だった。
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