第31話

「素敵──」


 建物を見た恵理香の感想だ。横にいる私は当然おかしな感覚に陥る。以前一度ここに来ているはずなのにと。


「ホテルのほうが良かったかな!?」

「ううん。こういうところ一度泊まりたかったの!」


 後ろ姿だけでも恵理香の喜びが伺えた。


 トランクから荷物を取り出すと、私は勝手知ったるとばかりに入口に向かって歩きはじめる。大き目の手提げカバンを下げた恵理香が後ろから続く。二人の足音が木漏れ日の中に溶け込んでゆく。


「ごめんください」


 古びた木製のドアが開く音を聞きつけ年配の男が足早に現れる。出掛かったお久しぶりですにブレーキを掛けて、初めて来たように建物の中を見回した。


「あ~!これはこれは、ようおいでなさった───」


 頭にはバンダナ。派手な絵柄のTシャツに緩目のジーンズという姿は記憶のままだ。予約をした自分の名前を告げると主人は承知していたように笑みをたたえながら、カウンターに向かって歩いて行く。宿泊者を記入するものだろう。


「ま~なんですね。宿帳なんて言うと歳がバレちゃいますが、お泊まりいただく方の、うちの控えみたいなものでして──」


 と、照れ臭そうにカウンターに広げペンを私に差し出す。


 前回は確かどうに書こうかと躊躇した。しかし、今日の運びは至ってスムーズである。もちろん、住所も名前も以前と同様だ。これがやがて真由美の目に触れることもわかった上でだ。


「あ~遠いところからでお疲れになったでしょう。海の方にもお寄りになったようで」


 二人の色付いた肌にチラッと目を向けた後で、


「遠浅で綺麗な海でしたでしょう。私どもはあの海を自慢に思ってるんですよ」


 スラスラと書き終えてペンを渡すと、


「これはどうも。あ、ご夫婦で──。ひょっとして新婚さんで?」


 主人はにこやかに二人の顔を見た。


「いえ・・・新婚ってほどでも──」


 私はそう言って、視線をやや後方の恵理香に移す。恵理香は黙ったまま口の端を上げ両目を大きく見開いた。表現したのは恐らく喜びと驚きといったところか。


 やがて案内されるまま年季の入った階段を上がって行く。時折ミシミシと音を立てた。それでも手入れは行き届いていて階段も部屋に続く廊下もピカピカと艶を放っている。記憶通りだが、懐かしさの中に新鮮さも同居した。


「お部屋はこちらになります──。お風呂の方は階段を───」


 定番の言葉を残して主人が立ち去ると、私は二つ並んだベッドに横たわり一つ息を吐き出した。恵理香も反対側のベッドに腰を下ろした。


「疲れたでしょ?」

「ちょっとね」と窓の先に見える木々に目をやる。私達を迎えんと部屋はすでに十分冷やされていた。


「新婚さんですかって!?」


 視線を恵理香に戻すとまんざらでもないといった顔をしている。


「新婚って言えば良かったかな~!?」


 その直後、クスッという笑いが聞こえた。


 前回、私達は部屋に入るなり肌を寄せ合った。そして、疲れて寝入ったはずの夜も・・・・。結果的にそれが恵理香の窶れへと繋がってしまった。変えないでと水月は言ったが、こればっかりはさすがに同じ道は辿れない。どのみち、終わったと思った過去への旅だ。変えたところでまた戻って何かを変えれば良いだけのこと。だから前回以上に長く海で燥いで来た。恵理香も私もグッスリ寝られるようにだ。



 夕方、ヒグラシの声に誘われるかに私達は眺めが良いという海岸に向かった。勧めてくれたのはあの時と同じ主人の奥さんだ。


「風が気持ちいい!」


 陽もだいぶ傾いたのか、ペンションの前の道は被う木々によってやや薄暗くも感じる。時折吹き抜ける風が、色付いた二人の肌を癒してくれる。二人きりでの旅行が楽しいとみえ歩き始めた途端、恵理香は私の手を握った。


「これじゃ、新婚さんだな!?」

「アハ‥そうね!」


 恵理香は髪を揺らしさらに喜びを表した。


 迷わず歩く私を不審にも思わず恵理香はあれこれと言葉を連ねた。記憶にあるような、それでいて初めて聞くような気もした。浜までは二十分ほど歩いただろうか。

見覚えのある夕陽にも見えるが、海に沈もうとする姿はいつ見ても良いものだと思った。人影まばらな海も然りで、犬を散歩している夫婦らしき人が見えるだけだ。それも徐々に遠ざかって行く。


 適当な場所に腰を下ろすと恵理香も横に座った。同じ調子で繰り返す波の音が耳に心地よく響く。聞こえるのはそのくらいだ。その音を聞きながら波打ち際を歩く、ワンピース姿の恵理香を思い浮かべた。今日は歩くこともなくショートパンツにTシャツという出で立ちである。遥か彼方から吹いて来たであろう風が恵理香の肩までの髪を優しく梳かした。私は砂浜の乾いた砂を手に取ってはサラサラとそれを下に落として行く。同じようなことを繰り返していた。


「ねぇ?島さん───。一つお願いがあるんだけど聞いてくれる?」


 突然、独り言のように恵理香が声を上げる。


「フッ・・・。殺してくれなんて言い出すんじゃないだろうな!?」

「え!?」


 同じ砂を被るといったリアクションは出来ないと、私はあえて先回りを選んだ。


「違うわ。お願いっていうのはその逆よ。島さんを殺してもいいかって!?」

「俺を!?」


「そう、そうすれば私だけのものになる・・・でしょ?」

「歌詞のようだな。それに今だって独り占めみたいなものだろ」


「今・・・だけよ」

「殺したいか?」


「言ってみただけよ」


 四方やそんな恵理香に刺されるとは夢にも思わなかったが、無いはずの傷跡に無意識に手が動いてしまったりもした。


「だけど傑作だったな!」


「あっ!?またあの時のこと思い出してるんでしょ?」


 すかさず恵理香は私の脇腹に爪を立てた。


「もう、抓るのはそこだけにしてくれよ?」恵理香は何も答えずにもう一度同じ場所を摘まみあげた。

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