第30話
古さと新しさの同居する建物の前に置かれた丸いテーブルを囲んだのは、それから間もなくのことだった。泳いでいた場所を考えると半分も満たない距離だ。そのため腰を下ろしてもまだ水が滴り続けた。日差しを和らげてくれるビーチパラソルの下で喉を潤せば、安堵という一時が身体を包み込む。徐に取り出したタバコもいつも以上に美味く感じた。
「だけど、あんなことってあるんだな」
煙を一つ吐いてから横目に鮮やかな黄色を映す。恵理香もすぐに察したようだ。
「私も初めて。水着なんて久しぶりだったから結び方が悪かったみたい」
小声で言ってから、突然怪しげに睨んだ。勝利のようなポーズを思い出したのだろう。
「だけどさ。あれがもし見つからなかったとしたらどうすんの?」
「見つからなかったら?・・・・。そうしたら島さんに私のバスタオルを取りに行ってもらう・・・とか」
「それを巻いて海から出て来るって?」
「もぉ~、そんな姿想像させないでよ」
直後、ピシッと恵理香に肩を叩かれる。
「でも、意外って言うか・・・。あんなに泳げるとは思ってもみなかったよ」
「そう?」
「ああ。まるで人魚のようだったよ」
「アハ‥。そんなこと言っても何も出ませんよ」
言葉の代わりにゆっくり空に煙をたなびかせ海で戯れる人々を眺める。カップルや家族連れが賑わせている砂浜を視界に映しながら、もうすべて終わったと思ったのにと心の中で呟く。恐らくまた何かが変わる。シナリオに無かった出来事が私にそれを予感させた。
そして、これから訪れる場所や起こる出来事などをページでも捲るかのように回想した。
「せっかく来たんだからもうちょっと入って行くか!」
「ええ!」
『オーシャン』という名の海の家に戻ったのはそれから一時間後ぐらいだった。ざらついたござの上に、折り畳みの出来る小さめなテーブルがいくつも並べられていて、海へでも行っているのか客の姿は数える程度だった。適当な場所を選んで腰を下ろすとバスタオルで頭をガシガシと拭いた。温水シャワーでシャンプーした後でも風呂上りと違った感触が伝わって来た。
五十センチほどのテーブルの先では、Tシャツ姿の恵理香が丁寧に髪にタオルを当てている。そのシャツから伸びる手はほんのりと色付いていた。
「少し焼けたな?」話題を逸らすかに恵理香の腕に目をやる。
「ええ。ちょっと」
「島さんも少し赤くなってる」と今度は私の顔を見た。
言われてみればと袖を捲って二の腕辺りを見たが、薄暗い中でははっきりとは確認できない。わかるとすれば少しひりひりする感覚だ。
「ちょっと腹へっただろ?」
話題でも逸らすかに私は壁に貼られた手書きの文字に目をやった。腹の中は決まっていたので、とりあえず何があるのか見た程度だ。
「やっぱり海に来たらラーメンだろ」
「そう?」
「意外とこれがいけるんだぜ」
「じゃ、わたしも──」
と言って恵理香はバッグから財布を取り出した。自分が払うからと私がそれを制すると、
「みんな出してもらったりしたら罰があたるでしょ」
一言言い残してスタスタと受付らしいところへ向かった。恵理香の歩く振動がお尻のあたりに伝わった。ものの数分で小さいプラスティックの札のようなものを持って戻ってきた。マジックで番号が記されている。私はそれを手に取ってしばし眺めていた。裏返したり表にしたり、そんなことでも時間つぶしになった。
徐々に近づく振動に顔を上げると、短パンにエプロンを付けたアルバイトと思われる女の子がお盆にラーメンを載せてやってきた。
「六番のラーメンのお客様~っ」
何度となく繰り返したのかなかなか様になっている。盆にはラーメンの他に水と胡椒があった。新鮮というよりは懐かしい画だ。
一口スープを啜ってから、胡椒を二度三度と振り箸を割る。見た目はシンプルだが、すきっ腹を満たすには十分すぎる味だ。
「美味しいっ!」思わず恵理香も声を上げる。
「だろ!」
まるで会話でもしているかのように私達は麺を啜った。
足に纏わりつく砂を引き連れながら車に向かうと、一仕事終えたような感覚が私の身体を包み込んだ。慣れない水遊びに疲れたようだ。それに追い打ちを掛けるように車内から熱風が飛び出してくる。これは堪らんと一旦後退するが、すぐにキーを捻ってエンジンを掛け窓とエアコンの風量を全開にする。
「これが本革だったら火傷してるだろうな」
腰を下ろすなり私はシートに手をやって呟いた。
「本革って!?」
意味がわからず恵理香が訊き返す。
「革のシートの車があるんだけど、夏はものすごく熱くなってさ。大衆車には関係ない話なんだけど」
言い終えるなり左足でドカッと床を踏みつける。
「どうしたの?」
「あ‥いや‥足の感覚がちょっと変かなって」咄嗟に言い訳をしたが、サニーにクラッチのないことを思い出し、レバーをDに動かした。
海を背にオートキャンプ場の中の道を抜けていくと、生い茂った木々のお蔭か外の暑さに車内の冷気が勝り始める。それを見計らったように空間を甘く爽やかな香りが広がり始めた。恵理香のシャンプーの香りだ。心無し違って感じるのは、潮騒と汗が添えられたせいか。
「疲れた?」
道幅に余裕のある場所に車を止め持参した地図を眺めながら横に向かって声を掛けた。
「ええ。少しだけ」
私は何も言わず指先を紙面に描かれた道路に這わせている。そして、視線の先の景色に、
「たぶんこの道だったような気がするな」とボソッと呟く。
「島さん、前にこの辺来たことがあるの?」
「いや~、遥か昔この辺通ったような気がしてさ。ほら店にいるやつと一緒に」
慌てて言葉を濁したものの、内心はヒヤヒヤだった。持参した地図は一応確認する程度のものに変わってしまっていたからだ。ただ二年も前となれば、その記憶も怪しいのだが・・・。
国道を少し走ったところで見覚えのあるそば屋を見つけて慌てて左折の合図を出す。するとワイパーがスッと一回往復して、恵理香が驚いたようにこちらを向いた。
「いや~、ちょっと暑さでボケちゃったかな~」と苦笑を浮かべる。慣れとは恐ろしいものだと見えない程度に首を振った。
やや勾配のある道には『ふれあいロード』という立札があって、その先には目的地のペンションを始め別荘などもあったはずだ。道幅も狭くなると周囲は木々に覆われだし、そこから差し込む木漏れ日がフロントガラスにキラキラと光を放つ。一気に海から山にワープしたような感覚だ。
記憶をなぞるように走っていると、目的地を記す看板を見つけた。
また、ここを訪れるとは思っても見なかった。
そんなことを考えた時、左前方に『ペニーレイン』が見えた。
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