第29話

 目を開けたと同時に私は鼻孔を襲うかの悪臭に胃の中のものを吐き出した。せめてもの救いはそれに相応しい場所だったことだが、すぐさま今度は異様な暑さが身体を襲う。


「アツっ!!」


 薄い鉄板のような扉を開け、簡易的な空間から身を出せば、どこからともなく潮の香りが漂ってくる。足元を見ると靴ではなくサンダル。その下はサラサラした砂だ。


(こ・・・ここは・・・)


 辺りをキョロキョロと眺めていると、視線の先の女性が軽く手を挙げてこちらに向かって歩きはじめた。圭ちゃんの以前の愛車。Z3のダカールイエローを髣髴させる鮮やかな黄色いビキニ姿。恵理香だ。


 ジリジリと照り付ける太陽の熱で、目が眩みそうになるのを堪え私もそれに応えるように手を挙げる。



「お待たせっ!」


 初めて見たような衝動に駆られたのか、私は水月とも異なるラインを上から下に目を走らせた。


「もぉ、そんなにジロジロ見たりして!」


 恵理香の一声に我に返ったように、視界の三分の一を被うであろう広々した場所に目を移す。


(海・・・か)


 無意識に歩き出したのは、あまりの暑さに身体が自然に反応したのだろう。それを待っていたかのように恵理香が腕を絡ませる。柔らかい感触が私の腕に伝わった。


「あんなところでも立てるの?」


 遥か視線の先に居る人でも見たのか、恵理香はスッと指をさす。


「ここは遠浅だからな」

「じゃ、泳ぐのならもっと行かなきゃいけないのね」


「そう。ん!?泳げるんだっけ?」

「泳げますよ。子供の時スイミング行ってたって前に?」


「聞いたっけ?でもそれって子供の時だろ?」


 と、私はキョロキョロと周りを確認した。


「どうしたの?」

「いや、一応、ライフセーバーはどこかなって」


 ギュッと私の脇腹を抓ると恵理香は小走りに海へと向かう。私も後を追った。


 ついからかってみたものの、後ろに束ねた髪を見れば、肩まで浸かるだけではないのだろうと思った。私もしばらくぶりに泳がねばとキラキラ光る水面を見つめた。


 波打ち際で遊ぶ子供たちやビーチマットを避けて、ピチャピチャと音を立てながら小走りに進む。後ろ姿だけでも楽しさが伺える。時折振り返っては笑顔を振りまいた。


 家族連れが多く見られる腰の辺りの深さまで来ると、足取りはゆっくりとなった。一歩一歩様子を見るように進んで行く。天気のせいか水が身体に心地良い。どのくらい歩いただろうか。振り返ると波打ち際の小さい子供がさらに小さくなっている。


 やがて身体に当たった波が顔に飛ぶようになった。ちょうど深さは胸の辺りだ。


 すると急にザブッという音と共に恵理香の姿が見えなくなった。私が沈んだ場所を眺めていると五メートルくらい離れたところから今度は水と一緒に飛び出して来る。


「目が痛いっ」顔を押さえながら笑っている。


「塩水だからな」と私も負けじと潜って見せる。何か目に異物でも入ったように、たちまちギュッと目を瞑って同じような台詞を零した。それを見て声を上げて笑う恵理香の元へ泳ぎ始める。恵理香はそれに気付いて逃げるように泳ぎだす。スイミングに通っていたのはどうやら本当らしいと思った。簡単に追い付くどころか見る見る距離が広がって行く。


 追いかけたのは十メートルくらいだったか。そのくらいで息が上がってしまったのだ。


 それに気付いた恵理香はこちらに向かって泳ぎだし近くまで来たところでまた消える。私も潜って再び目を開ける。やはり痛い。それでも同じようなことを繰り返していると、次第に痛みも和らいで目を開けられるようになってきた。


 恵理香が近くを泳いでいる。鮮明とまではいかないものの泳ぐ姿が見えた。スーッと魚が泳ぐように足先はヒレのようにも映った。しばし私はその光景に見惚れた。やがてそれは幻のように消え、私は海面から顔を出す。恵理香はいなかった。


 気配を感じ振り向くとザバッと顔に水を掛けられ思わず私は顔を覆う。慌てて追いかけようとすると、恵理香はすぐに潜って姿をくらます。意外な一面を見た気がした。


 どのくらい同じようなことを繰り返しただろうか。


 スーッと顔だけ出したのでさすがに疲れたのかと笑みを浮かべるが、何やら恵理香は楽しさどころではないと言った表情で辺りを見回している。どうしたのかと近付いていくと、両手を胸の辺りでクロスさせている。



「水着が・・・・」

「──水着!?」


 こんなハプニングは確か無かった。だが、驚きのあまり過去の記憶は一瞬で吹き飛んでしまい、その艶めかしくも見える姿を見つめてから、


「そんなマンガみたいなことって──」


 言いながら私はつい笑い出していた。もちろん当の本人はそれどころではないといった表情だ。


「もぉ、笑ってないで島さんも探して!」


 このままでは海から出られない。そう思うと私の笑いも自然と消えて同じように見える海に視線を集中させた。流されたり沈んだりしたら簡単には見つからないだろうと海の色に諦めの色が重なり出した時、鮮やかな色が幸いするのか、少し離れた場所に新種のクラゲのようなものを見つけ、私はすぐさまそれに向かって泳いだ。


「あったぞーっ!」


 宝物でも見つけたとばかりに、それを高々と掲げて恵理香に声を掛ける。その光景に恵理香は目の下まで顔を沈め、ジッと私を睨みつけた。


「あ!?」


 事の次第に気付いた私は苦笑を浮かべながら同じように身体を沈めると近寄って水中でそっと手渡した。


「もぉ、みんなに気付かれちゃうでしょ」と、ばつが悪そうな表情で、クルッと私に背を向けると慣れた手つきでそれを着ける。きっとお返しに抓られると思った私は、いち早く気配を察して身体を捻ったが、それが悪かったのか別の場所を抓られてしまった。


 直後、私は悶絶して海中に沈みこんだ。予想もしない事態に水を飲んだらしく、顔を出すや激しくむせ返った。


「・・・・ごめんなさい」


 そう言って恵理香は恥ずかしそうに笑った。

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