第23話

 キョロキョロと、くたびれたシャツを探すように明るい店内を見回す。その直後、座っていたであろう場所に目を向け唖然とした。男が女に変わっていたのだ。遠くからでもそれが誰なのかがわかった。


 水月である。


 有り得ないと思いつつも、他に成す術もないと爪を翳すように見ている水月の前に腰を下ろす。


「逃げちゃったのかと思いましたよ?」

「逃げた?」


「だってトイレに行くって言って三十分も戻らないんですもの」

「三十分!?」


「そうよ。時計見なかったの?待たされる方の身にもなってよ」

「いや・・・悪かった。それよりここに男の人って居なかったかな?」


「笑えませんよ。男って言えばあなたのことでしょ?」


 水月お得意の言葉のジャブでも金をせびられるのよりは遥かに良いだろうか。それにしてもこの急展開はまるで映画だ。頭の中を整理しながらぼんやり顔を見ていると、無意識に知らないはずの名前が口からポロリと出てしまう。



「水・・・」


 習慣とは恐ろしいものだと思いつつも、瞬時に反応する水月に慌ててブレーキが掛かったようだ。目の前のグラスに手を伸ばすと、


「水を・・・もう一杯もらって来るよ」そう言ってそそくさと席を立った。テーブルに戻ったのは滲んだ冷や汗が店内の冷気に薄らぎだした頃だった。


 度々目の前から姿を消されてはおちおち話も出来ないと、少しばかり表情を変えた後で、


「やっぱり似てますか?先程まで会っていた方と?」


 回りくどい世間話は無しだとばかりに切り込んで来る。


 ほんの僅かしか経っていないような気がしたためか、私は父親の顔を思い浮かべてしまい、その面影をダブらせた。


「よく言われるんですよ。やっぱり姉妹ですからね」


「あ~」と納得した声をそこで上げる。


 よくよく見れば若干の若さも伺えるか。確かこの時は二十五・・・六。



「実はちょっと楽しみにしていたんですよ。どんな人なんだろうって。あなたなんですね?教習所で知り合ったという人は?」


 ライトグリーンのプルオーバーにベージュのパンツルックという出で立ちの水月は、耳に懐かしさの残る台詞を発した。だが、私と暮らす水月とは程遠く、目の前のテーブルの数倍以上の距離を感じた。


 あの時は考える余裕すら与えてもらえなかった。なぜ恵理香と教習所で知り合ったことを水月が知っているのか今なら合点がいく。確か受付の貴子さんが家に遊びに行った際に母親に洩らしたと恵理香は言っていた。恐らくそこから姉、つまり水月に伝わったのだろう。


「でも、ちょっと驚いたわ。あの恵理香の心を開かせるんですものね」


「フッ・・。開かせるなんてちょっと言い方が大袈裟じゃない?」


「そう?でもそれは以前のあの子を知らないからだわ。──何も聞かされてないんでしょ?」


 ここでも私は口を噤んだ。あの時と現在。どちらの答えが望ましいのか考えていたのである。


 黙り込んだまま人影疎らな店内が映し出されている窓に目を向けていると、


「──男女のことですし、つまらないことは訊きませんけど、もし一時のお遊びみたいに考えていらっしゃるのなら、私としては見過ごすわけにもいかないと思いまして」


「お遊びってわけじゃ・・・」


「結婚していらっしゃるんでしたよね?」



「まぁ・・・」


 どうにもこの頃の水月に対しては歯切れが悪い。散々やり込められたことがトラウマとして残っているのだろうか。


「そういうのをお遊びって言うんじゃないかしら。それとも聞こえの良い言葉に変えます?不倫って」


 以前より手強いのはただの気のせいか。既に見ている光景なのだから何も慌てふためくことは無い。そう思えば思うほど冷静という二文字は遠ざかって行くようだ。



「──父のことは何か?」


「父!?」


 私はその言葉にビクッと反応した。無論それを水月が見逃すはずもない。


「そう‥聞いているんですね」


 さっきここで慰謝料を払えと言われたんだ。ついそんな声が出そうになったが、ジャブどころかカウンターが待っているような気がして黙った。


「どこまで恵理香が話したかは知りませんけど、あなたも大人としての分別を持っていらっしゃるのなら、私がこうして出向いたわけもわかっていただけるんじゃないかしら?」


「まぁ・・・」


「愛していらっしゃるの?」


「愛してるかって・・・言われると」


「それで恵理香に?」


 水月が言ったのは真由美のことかと、私はばつが悪そうに顔をゆがめた。


「いや・・・」


「いやって何よ。奥さんへの愛情が冷めたからって、憂さ晴らしに恵理香を利用しているのだとしたら私にも覚悟がありますよ」


 店内のBGMに消されて周りのテーブルには届かないほどの声であっても私を委縮させるのには十分だった。威圧するかの目も理由にあるのだろう。


「憂さ晴らしだなんて」

「それともこの場に及んで、ただのお茶のみ友達とでも?」


「さすがにそれは・・・。今更隠し立てしようとは思ってないよ。ただ・・・」

「ただ?」


「いずれ何らかの形で責任はって思ってる」

「責任・・・ね。先週のドラマでも同じようなこと言ってる人が居たわ」


「・・・そう」

「そう言って男はみんな都合のいいことばっかり並べ立てるのよ」


 こんな調子で叱責する水月と暮らすことになるのだから、人生とはつくづく不思議なものだ。多少それでも帰った時に免疫になるのではないかと、圧を放った視線に耐え続けた。


「奥さんと別れるの?それとも──恵理香と別れて奥さんのところに帰る?」



 突き付けられたのは究極の選択と言っても良い。例え作り話と思われたところで、この場を凌ぐことが出来るだろうと、前者を今日の手土産に渡そうかと思った。迷って何気に店内が映る窓に再び目を向けると、一台の黄色い車が勢いよく横切って行く。

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