第22話

「恵理香──。俺だっ」



「俺!?」


 予想に反した声に私の思考回路はしばし停止した。低く太い声は明らかに男であって水月じゃない。


「・・・誰?」


「誰って──。お父さんだ」

「!?お・・・お父さん?」


 まさかの事態だ。確か女を作ってとうの昔に家を出て行ったはず。それがどうしてここに・・・・・。


「そうだ。俺だ」


「な・・・何しに来たの?」


「何しにって、顔を見に来たんじゃないか」


 恵理香が戸惑うのも無理はない。聞こえる声だけでもその心中は手に取るようにわかる。


「いいからちょっと開けてくれよ」


 何を話そうかしばし恵理香は黙り込んでいた。あまりの衝撃に言葉を失っていたのかもしれない。


「今更顔見に来たもないでしょ!帰って!」

「帰ってって・・・せっかく来たんじゃないか。見つけるの大変だったんだぞ」


「勝手に出てって大変も何もないわ。帰って!」


「良いじゃないか。それとも誰か来てるのか?」二人のやり取りが私の鼓動をどんどん早めていく。聞きながらなぜこうなったのか理由も考えていた。無論答えなど見つかるはずもない。


「お客さんが来てるのよ。お願いだから帰って!」


「客・・・・。男か!?」

「そんなの関係ないでしょ!」


 いつまでこんな会話が繰り広げられるのかと思ったりもしたが、意外と父親という男はあっさりと引き下がった。


「わかった。じゃ~また来るから」


 それには何も答えず恵理香はじっと玄関のところに佇んでいた。掛ける言葉が見つからなかった。


 遠ざかる足音にそれでも多少安心したのか、やがて私の近くにやってきて力なく腰を下ろした。


「ごめんなさい」口調にも力は無かった。

「別に謝らなくても・・・」


「だって、前に死んだって・・・・・」

「あ・・・ま~。言いづらいこともあるだろうから」これでも精一杯の励ましだった。


 早々と帰ろうと言い出したところで引き止められることは過去の経験からわかっている。その為、私はしばらく様子を見ることにした。


 俯き加減の横顔を見ているだけで恵理香の考えがこちらにも伝わって来るようだ。

出て行った父親がなぜ突然やって来たのか。ここに住んでることをなぜ知っているのか。恐らくそんなところだろう。


 突然の出来事ですっかり会話の糸も切れてしまった。二人とも無言で聞こえるのはエアコンの吹き出す風の音だけだ。


 どのくらい経った頃だろうか。重苦しい雰囲気に堪えかねたように私は帰るからと言って腰を上げる。恵理香は無言でこくりと頷くだけだった。


 玄関から一歩足を踏み出すと、生ぬるい風が全身を覆った。明かりの灯る通路をゆっくりと歩く。重い足音がコンクリートに響いた。


 建物の角を曲がった時、数メートル先にある仄かな街灯の明かりの下で一人の男性がタバコを吹かしていて、気付いたようにこちらに目線を送る。それからタバコを投げ捨てつかつかと歩み寄ってきた。



「あんたかい?客ってのは」

「・・・・・」


 やや薄くなった短めの髪はあまり手入れが行き届いていないのか、バサバサとしていて口元にはこれまた同様の無精髭。すらっとした体型は中年を感じさせないものだが、まともな仕事に就いてるようには思えなかった。


「やっぱり男か。恵理香と付き合ってるのか?」

「そんなこと答える必要はないでしょう」


「必要はないってか。それにしちゃ、ちょっと歳がいってる感じだな・・・・」


 私の答え方に疑問を感じたのか、父親という男性は何か閃いたように、


「あんた。結婚してんな?」


 人差し指をこちらに向けてニヤリと笑った。


「してたらどうだって言うんですか」

「不倫か~。うちの娘をオモチャにしてるわけだ」


「勝手に出てって娘も何もないでしょ」

「なんだとォ~!コラ!」


 父親はそう言うなり私の襟首をグイと掴んで引き寄せる。思わずその酒臭い息に顔をそむけた。すると拍子抜けしたように手が離され、


「ま・・・いいや。それよりちょっとあんたに訊きたいことがあるんだよ。暑くってさ~、喉も渇いちゃったからその辺のファミレスでいいんだけどさ」


「ファミレス?」


「そう。なんならあんたの家だっていいんだぜ。奥さんも一緒にさ~」


 不敵な笑いとはこういうのを指すのだと思った。面倒な事態になりつつあることは肌で感じていたが、断ったところで厄介になるのは目に見えていると、私は父親という男と国道沿いにあるファミレスに向かった。


 全国に展開する二十四時間営業の店だ。店内は時間相応といった入り具合で、座る場所に困ることは無かった。それでも雰囲気にそぐわない二人連れは違和感も十分で、せめて水月だったならと所々に散るカップルに目を向けた。


 適当な場所を見つけ私達は腰を下ろすと、父親という男はそそくさとメニューを広げ、


「腹も減っちゃったんだけどなんか食っていいかい?」と私の眼を見つめる。


 払う気など毛頭ないと言わんばかりの目だ。



 これが恵理香と水月の父親・・・・・。


 暗がりでは気付かなかったが、こうして明るい店内で改めて見ると整った顔立ちをしている。床屋にでも行って髪や髭を整えさらにスーツでも着こんだら、きっと女性社員に人気の上司になるのではないか。ぼんやりそんなことを思い描いていると、五十前後と思われる父親という男は、


「それで話ってのはさ」とウェイトレスに注文をしてから意味深な顔を浮かべた。


 どんな話が飛び出すのかと私はじっと黙ってその目を見つめる。


「ちょっと、金を都合して欲しいんだけどさ」

「金?」


「いや何ね、ちょっとで良いんだよ。娘をオモチャにされた代金って言うんかい」

「オモチャにしたつもりはないですけどね」


「いや、別に嫌だって言うんなら、あんたの奥さんに相談したっていいんだけどさ」

「フッ・・・。女作って出て行った人がよく言えたもんですね」


 呆れたように呟くと男は目に力を入れるように睨んだ。


「恵理香がそう言ったんだろ?そりゃあいつの作り話だ」

「作り話?」


「ああ。ホントはあいつの母親が浮気してさ。それで俺が出て行ったってわけさ。言うなれば俺は被害者なんだよ」


 初対面の酒臭い男の言うことなど、とても信じる気にはなれなかったが、この場をどうやり過ごすかという名案も浮かばなかった。次の言葉を探しているとウェイトレスが中断するように二人の間に料理を並べる。下手な言葉よりもそれは効果的だったようだ。男は余程腹が空いていたのか、何事も無かったかのようにがつがつと食べ始めた。


「あんたも食いなよ。腹がへっちゃ何とかって言うからさ」


 くちゃくちゃと音を立てながら、何とか聞き取れる言葉を口から男は零した。



「その前に・・・ちょっと」



 そう言い残すと私はそそくさと席を立った。額には薄っすらと汗が滲んでいた。

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