第21話

 真っ暗だった視界に徐々に明るさが加わって来る。黒が白く変わったと思って目を開けるとやはり目の前は真っ白だった。



(ここは・・・・)


 一瞬、自宅のトイレかと思ったものの、左手には浴槽が見える。ユニットバスだ。


(ということは・・・・リベ・・・・)


 頭の中を整理し出した途端、額に薄っすらと汗が滲み始める。続け様に移動してしまうことなど無かったはずだと混乱しかかったが、原因はこの気温なんだと気付く。締め切ったユニットバスは蒸し暑くなっていて、場所の次は季節が頭の中に浮かぶ。


 とにかく過去の時間の経過は著しい。一方では半月も経っていないのにこちらでは何カ月も過ぎてしまっているのだ。


 扉を開けて奥の六畳間に目をやると、ベッドを背に座って携帯を弄っている恵理香が見えた。



「え‥恵理香!?」


 突然呼ばれて恵理香は髪を揺らす。久しぶりに見た感のある表情は以前と違って親密さが増したようにも見える。春の空のようなカーテンがより爽やかに感じられたのはエアコンで冷やされているからなのだろう。TVの上の卓上カレンダーは七月になっていて、ショートパンツから伸びる白い足からも季節は伺えた。心無し眩しくも映る。


 二十五・・・いや、四だったか。


「中、暑かったでしょ?」


 恵理香の問いに改めて自分の身なりを見る。上半身は裸で髪は濡れていた。そこでようやくシャワーを借りたのだと理解した。


「ああ・・・ちょっとね。でもスッキリしたよ」その答えを待たずに私の手を引くと恵理香はベッドの端に私を座らせる。それから後ろに回って髪をバスタオルで拭き始めた。


 仄かな洗剤の匂いが鼻をくすぐる。覚えのある香りだ。


「やっぱり、二つ折りのやつにしたんだ」


 テーブルの上に置かれた携帯に思わずそう口走ってはみたものの、実際この話をこの場面でしただろうかと不安にもなった。


「ええ。でも自分で選んだってよりもほとんどお店の人に任せちゃって」

「俺も最初はそんな感じだったよ」


 言葉を選ぶように私も続ける。


「でも・・・携帯買って良かった」と恵理香は手を止めてホッと息を吐く。


 声のニュアンスだけで十分その理由は伝わった。


「でも・・・・最初は掛けて良いのか迷ったのよ。怒られるんじゃないかって」

「怒るもなにも。掛ければって言ったのは俺の方だろ」


「掛ければなんて言わなかったわ。掛けてみるって」

「そう・・・だったかな」


 言ったような記憶はある。あの高台だ。そう言わざるを得なくなった理由は圭ちゃんか、それとも智ちゃんだったか。考え出してはみたものの頭は混乱するだけだった。


「だけど最初は誰なんだろうって思ったよ。一回鳴っただけで切れちゃうしさ~」


「だって、誰かが近くに居たらどうしようって・・・・それに携帯って掛けた人の番号が残るみたいだから・・・・掛け直してくれるんじゃないかって」


「最初はワンギリじゃないかって思ってさ」


「ワンギ・・・?」


 そこで以前圭ちゃんから聞いた話をそっくりそのまま恵理香に伝えた。


「そんなことがあるのね」


「でも、結果的にこうしてまた会えたわけだし・・・・」とベッドの枕元に目を向ける。小さいウサギが二人の会話でも聞いてるようにチョコンと佇んでいる。


「この高いウサギまだ持ってたのか?」


 私の言葉に恵理香も視線を向け、


「捨てられるわけないでしょ?高価ないただきものですもん!」

「フッ‥。確かに高かったな」


「ちゃんと名前も付けてあるのよ。ズ~ヤって」

「ズ~ヤ?どっかで聞いたことあるような名前だな」


「そう?それで嫌なこととかあるとこの子を叩くの」と恵理香は楽しそうにウサギを見つめた。


「叩く?それで時々頭が痛かったりするんかな~?それはそうと──」と私は別の話題に切り換えた。


「あ、ごめんなさい」


 不意に何かを思い出したように笑みを浮かべたままキッチンに向かうと、既に支度の整った料理を目の前の小さいテーブルに運び始める。それに合わせてシャツを羽織ると、テーブルの西に腰を下ろした。


「何もないですけど・・・」


 喜びの中に幾分かの緊張を交え恵理香は北側に腰を下ろす。私は頂きますと言って箸を取り、夢中でその初めて振る舞う手料理を口に運ぶ。二度目であることは考えまいと心掛けた。


 腹も満たされ一息ついていると冷たいコーヒーがテーブルの上に置かれた。氷の音に一瞬私は寒気を覚える。ここに来る前は秋も終わりなのだから無理もない。


「麦茶の方が良かった?」


「いや」と私は目の前のコーヒーに目を向ける。既にグラスは汗を掻いていた。添えられたガムシロを入れカラカラとストローで氷を回す。見ているだけでゾクッとする。だが、身体はそれを欲している。おかしなものだ。 


「そういや、電話が掛かって来たのは俺だけ?」


「もう一人だけ・・・。って言ってもおねぇちゃんだけど」


「そう・・・。お姉さんが居たんだっけ──」


 呟いた途端に水月の顔が浮かぶ。


 良かった笑っている。安心したのもつかの間、目が笑ってないことに気付く。何もこんな時につい最近の水月がと思ったが、タイムスリップ同様に思ったようにはいかないのだろう。それで急に恵理香に鍵のことを尋ねた。


「もう~そんな不用心じゃありませんよ。それにどうせ誰も来ないから──」


「でも・・・お姉さんは?」


「ああ。おねぇちゃんは何度か来たことがあるけど・・・・たまにって言うか、滅多には来ないから──」


「そう・・・か」ポツリと呟いたものの、私には水月の足音が聞こえてくるようだった。水月がここに来て、外灯の下で待ち伏せている。あの手強い頃の水月だ。

と言っても今となっては然程変わらないかもしれないが。


 突然浮かべた苦笑に、恵理香が理由を尋ねようとした時だ。



 ピンポーン♪


 部屋のチャイムがタイミングを見計らったように鳴り響いた。


(水月だ・・・)


 もちろん口には出さなかったが、突然聞こえた音に恵理香は首を傾げている。


「誰かしら?・・・・こんな時間に」


 独り言のように呟いてから扉に向かうと、



「どちら様ですか?」



 恵理香はドアに顔を近づけて弱々しい声を出した。

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