第20話
──「美味しかった?」
帰宅早々、予想したように水月は軽く嫌味をかましてきた。早くこんな局面を変えたいのだが、今回はどういうわけか狭い空間は用足しで使うだけで、どこまでだったかということすら曖昧になりつつあって文字通りその出来事は当初思っていた夢と化そうとしている。まともに目も合わせられない。一緒に食事をしていてもこれといった会話も無く、軽いはずの箸に重みすら感じる。仕事が終わって家に帰りたくない殿方の心境とはこういうことを言うのだろう。さすがに数日も続いて来ると、最早これまでという落胆が身体を被ってくる。いずれにせよ、このままではこっちがもたない。
翌日の木曜日。
ドアを開けると室内に灯りは無かった。もしかして買い物でもと思ったが、駐車場にはアイボリーのヴィッツが止まっていた。灯りを点けると水月がポツンとソファーに腰かけていた。
「どうしたん?灯りも点けないで」恐る恐る理由を尋ねると、
「ちょっと考え事してたから」と水月。
「考え事?」
「そう。あの河川敷のこと。島田さんがまたあの時みたいになったらって・・・」
「・・・・・河川敷か」その短い単語にあの時の光景が脳裏に映し出される。
───河川敷へと続く道は悪路そのもので、荒れた波の上を行く小型船のように、車は上下に激しく揺れた。跳びはねる身体をシートに抑えつつ、明かりに照らされた雑木林の中を右に左に突き進む。
無論、自分でも目指している場所などわからなかった。
時折、河原の石が床を激しく打ち鳴らし、轍の中央に生えた雑草が次々と車の底を通過して行く。エンジン音が途絶えたのは、橋の全景が視界に収まり始めた頃だった。
すぐにヘッドライトとエンジンを止めると、暗がりの中で続けざまに二つのシートベルトを外し、覆いかぶさるように助手席に足を踏み入れた。
シートのレバーを引く寸前に見た、水月の目は恐怖で脅えていた。
「な・・なに!?・・」
シートが倒れ込んだ瞬間、車内には悲鳴とも取れる声が響いた。
「いや~っ!! ───」
幻聴ともとれる悲鳴に我へと返る。確かにあの時は度が過ぎたと思った。とは言え水月も意図を後に理解してくれたはずだ。
「なんならソファーで寝たっていいけど・・・」
「ううん。そこまでは言わないわ。でも安心して。もしそうなったら平手どころかグーでお見舞いしてあげるから」言い終えるや水月は素早く右手を動かした。
ヤンキーはここにも居たかと思いつつもなぜかその動きに苦笑が浮かばなかった。
「恵理香から聞いてるわよね?私がボクシングやってたってこと」
ボクシングと聞いて呆気に取られたが、適当な相槌をうってその場をごまかした。しかし、笑ってやり過ごすほどの内容でもなかったため、どんな顔をしていいものか困ってしまった。何か別の話題でもと思った時、圭ちゃんの言葉が頭に浮かんだ。
「そうだ。週末あたりに外に飯でも行かない?」
「あら?食事のお誘いなんて珍しいこともあるのね」
水月はそう言ったが、これでも時々出掛けたりはしていたのだ。もちろんそれを口にしたところで本人は知らぬ存ぜぬだろうが。
「そう・・・ね。たまにはいいかしら」
しばし考え込んでから仕方なしと言った感じで承諾する。可愛げの無い奴だ。以前ならそう言って額の辺りをチョンと小突いても良いのだが、今そんなことでもしようものなら平手どころかグーで返り討ちにあうかもしれない。
「食べたいものとかある?」点数稼ぎの色合いが強いのか、自分でも不自然な口調だと思った。
「別に特にはないけど・・・」「そう‥」一旦ここで話は途切れたように思えた。すると、
突然何か閃いたように水月はあっと声を上げる。
「そうだわ。あそこに連れて行ってくれない?」
「あそこ?」
「そう、恵理香と初めて食事をしたところ」
「『ロッサ』・・・」
「どんなところかなって一度見たかったのよ」
私は否定することも無く首を縦に振った。
週末の土曜の夜、私達は『ロッサ』へと足を運んだ。かつて恵理香と何度か訪れた思い出の場所だ。こうしてその姉の水月と再び訪れることになるとは夢にも思わなかったが。
どんな反応をするのかと意識の大半を水月に奪われてしまっていて、ただ真っ直ぐ店内へと突き進む。常連ではないものの勝手知ったる店には違いない。
「いらっしゃいませ」
店内のBGMに乗せてウェイターの声がやんわりと届く。二人であることを指で伝え、案内されるまま後に続いていくと、すぐに私はある人物に目を止める。向こうも気配に気付いたようにこちらを振り返り目と目があった。
圭ちゃんだった。もちろんテーブルの向かい側にいるのは智ちゃんだ。お互い思いがけぬ人にあったような表情を見せるも、すぐにそれは照れ笑いへと変わる。
まさかここで会うとは思っても見なかったという顔だ。
水月も気付いたらしく、二人に向かってゆっくりと頭を下げる。横眼には笑っている様にも見えたが、どう見てもぎこちない作り笑顔だ。以前なら圭ちゃんは愚か、智ちゃんだって何度も顔を合わせていて気さくに話もしている。そんな間柄を示すようにこんなシチュエーションでは笑いながら手を小刻みに振っていた。従って二人がポカンとするのも当然だろう。
テーブルに着くなりタバコを取り出そうとすると、水月の目がきらりと光った。
「目の前で吸うつもり?」
「あ‥いや・・・」とテーブルに置かれた灰皿を横目にタバコをポケットにしまい込んだ。
「せっかく美味しい料理が出るっていうのに、煙なんか出されちゃ台無しになっちゃうじゃないの」
私だけに聞こえるように水月は呟いた。それは他のテーブルでタバコを嗜む人への配慮でもあるのだろう。
「でもそのうちきっと、こういうところでタバコは吸えなくなるんじゃないかしら。半分はそうあって欲しいって希望なんでしょうけど」
「そうかな~」
曖昧に答えてみたものの、強く否定することも出来ず、また今は余分なことは言ったところで気分を害するだけだ。
吐き出される煙が消えたことで少し落ち着いたのか、水月はチラチラッと控え目に視線を動かし店内を眺めた。
「いい感じの店ね。それでどのあたりに座ったの?」
「ああ・・・。窓際の一番奥のテーブルだったかな」
当たり障りの無いように瞳だけ動かし確かめてから、
「そこで恵理香を口説いたのね」と水月がじろっと睨んだ。
言葉の前菜に食欲は失せていくようだった。
───「まさか、圭ちゃんがあそこに来ているとは思わなかったよ」
「俺もビックリしましたよ」
月曜、顔を合わせるなりお約束の会話で一旦盛りあがったものの、
「なんだか水月さんの雰囲気変わりましたね?」すぐに圭ちゃんはどうにも解せないという表情で尋ねてきた。
「帰りも智美とそんな話ばっかりでしたよ」無理もないことだ。
「慣れないレストランで緊張してたんじゃないかな」明確な答えが言えず、私は体裁のいい言葉で繕った。
「緊張するほどの店ですかね?」きっと普段の水月なら超の付く高級店でも手を振ったんじゃないか。そう思いつつ週末の料理を振り返ってみたが、味はどうしても思い出せなかった。それを察したかはわからないが、圭ちゃんは呆れたように呟いた。
「島さん。またボンゴレだったでしょ」
「そう・・・だな。でもあそこのアサリは結構大振りで味もけっこう──」
一つ覚えをフォローしてる途中、
「だけど・・・そのアサリかな~」と腹を押さえるようにして小走りに駆けだした。
苦痛に顔が歪むどころか、何かを期待する笑みが口の端に浮かんでいた。
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