第18話

──ピンポーン♪



 チャイムを鳴らすが声も鍵の開く気配すらしないため、自分の鍵で扉を開けた。


「ただいま」と心無し明るい口調で玄関に足を踏み入れる。DKの照明は消えていて奥の六畳の洋間だけが明るくなっていた。すぐにソファーに座る水月を見つける。


「あ・・・おかえり」


「どう?具合は?」


 と、調理台の上にレジ袋を置いて近くに歩み寄る。部屋着に着替えてはいたが、化粧はしていなかった。窺うように覗き込むと顔色はだいぶ良いように見えた。


「熱は?」と私が手を差し出そうとすると、水月はそれを払いのけるようにして、

「無いわ」と言ってから、「何か買ってきた?」匂いに反応したようにDKの方に目を向ける。


「コンビニ弁当だけどさ」


「いいわそれで。何にも食べてないからお腹すいちゃった」


 食欲があるなら問題はなさそうだと、レジ袋を手に昼間のことを聞かせようと口を開きかけた瞬間、


「そうそう」と水月が先に声を出した。


「鍵持ってるんだからチャイムなんか押さなくてもいいんじゃない。まるで開けてくれって感じがするのよね。それから昼間ちょっと見たんだけど、歯ブラシが近すぎない?いくら一緒に住んでるからって、もうちょっと離してくれないと、くっついちゃうじゃない」


「そう・・・か」


 ボソッとした声を漏らしてしまった。それもそのはず、洗面所に置かれた歯ブラシ立ては水月が選んで買ったものだ。


 今朝は時間が無かったので歯を磨く余裕もなかったが、昨夜も私よりも後に磨いたはずなのだから最後にあそこに置いたのは水月ということになる。あるいはバタバタしてて顔でも洗う際にうっかりして触れてしまったのか。などと考えていると、


「それと、お風呂先に出たら浮いてる汚れなんかちゃんと取っておいてくれる!?」


「風呂!?」


「そう、後から入るとき気になるんだから」弁当を広げながら水月が言う。やや、不満そうな口ぶりだ。私も弁当を広げる。


「そういえば、浅利が元に戻ったよ」


 何より安心させたいと、ようやく出せずにいたことを口にすると、


「元に戻った!?」と水月は首を傾げた。そして、


「違う部署にでも居たの?」と調子っぱずれの答えを返す。その一声に私は嫌な予感を覚えた。



(ま・・・まさか)


 すべて終わったと思っていたのに、まさか事態を一番把握している水月が変わるとは予想もしてなかった。悪い夢でも見ているのではないかと、箸を持つ手から力が抜けた。


「どうしたの?お腹減ってないの島田さん?」


「いや・・・・」


 声に張りが出ないのも当然だ。水月がそう呼んでいたのはいつ頃の話かと思いを巡らせながらも、仮にこのままの状態ですべてが終わってしまったら、ここに居る意味も無いのではないか。今の水月からはそんな雰囲気が十二分に漂っている。


「浅利さんって・・・・調子いい事ばっかり言ってて・・・・。もう思い出すだけで不愉快になるわ。お願いだから私の前であの人のこと出さないで」


 グーの音も出ないとはこのことだろう。私の口は閉ざされたように堅くなった。


「それと──」こうなると水月からの言葉が次第に恐ろしくも感じられてくる。


「ずっと家に居て思ったんだけど、仕事に復帰しようかしら」


「保険の?」


「そう。だって退屈じゃない。旦那さんとか恋人が帰って来るのを待ってるのなら別だけど、一緒に暮らしてるだけでしょ。ただの同居人だもの。家賃出してもらえるのは助かりますけどね。やっぱりずっと居ると飽きちゃうわ」


 まるで鬱憤でも晴らすように水月は言葉を並び立てた。


「でも、行きづらいんじゃないか?」


「別に同じ職場じゃなければ良いんだから。保険屋なんてたくさんあるのよ」


 平らげた弁当の包みを手際よくまとめると、スッと腰を上げる。


「今夜は私が先にお風呂入りますから、間違っても覗きに来たりしないでよね」


 何を今更と思った。一緒に入ったこともあるし、先週末はその格好で二人でベッドに入っただろう。突っ込みたい気持ちをぐっと押さえて私はただ相槌を打つ。致し方ない。昨日までの水月とは違うのだ。


 不安は尽きないのか、思うように飯が喉を通らない。気分の良くなる土産話を持参したはずだったのに、一転して今は鉛を飲み込んだように身体が重い。無言になるのも当然だ。



「それとも・・・一緒に入ります?」


 黙り込んでいた私は思わず水月の方に顔を向ける。今までの水月が実は彼女なりの御ふざけで種明かしでも始まるのではないかと期待したからだ。


「入っていいのか?」真相を確かめるべく恐る恐る口に出せば、


「無理に決まってるでしょ!妹の裸まで見た上に、姉の裸まで見ようっていうの?」


 間髪入れずに瞳をやや大きくして水月は私を見下ろした。


「別に見られても減るもんじゃないですから別に良いんですけど。どうせ私が寝入ったら知らない間にお尻とか触ってるんでしょ!」


 そう口走った途端、何か思い出したように足早に隣の部屋へと向かい小さな箱を手に戻ってきた。


「これ、なんなのよ!?」


 驚きに満ちた顔の水月が手にしているのは二人で使ってる避妊具だ。


「何って、見ればわかるだろ」


 初めて見たわけでもなし、そもそも水月本人が買ってきたものを、どうしてそれほど驚くのだろうと、何食わぬ顔で答えると、


「な‥何に使うのよ」と私の眼をじっと睨む。


「何にって、子供じゃあるまいし、使う用途くらい知ってるだろ」


「私が言ってるのはそういうことじゃなくて、なんでこんなものがベッドのところに置かれているのかってこと」


「・・・・・」


「こんなもの使って自分でしてるの!?」

「いや・・・自分じゃ・・・」


「じゃ~何?」


 最早、何を言っても通じる段階ではないと思った。


「それとも、私がいつかその気になるんじゃないかって思っての準備?」


 ダメだ。次の言葉が思い浮かばない。何を言ったところで今は火に油を注ぐだけだ。


「島田さんのことは嫌いじゃないから一緒に住むのもOKしたし、部屋がこんなだから一緒に寝るのは別に構わないんだけど、こういうものが枕元にあったんじゃ安心して寝られませんから、どこかに始末してくれないかしら」


 そう言い終えるなり、私の弁当の隣にポンと小箱を置いた。


「ああ・・・じゃ~捨てとくよ」


 口ではそう言ってみたものの、肌を重ね合う時は必ず付けようって決めたのは二人じゃないかと、言葉を吐き出す代わりに弁当の隅に置かれた沢庵をガリッと齧った。


 いずれにしろ、こんな状態ではまともに飯も食えないと、横にある小箱を見つめる。先日の水月に戻るまで車の中にでも置いておこうか。あるいは本当に処分するか。あれこれ考えていると何の弁当を食べているのかもわからなくなるようだ。


 こんな時、タイミング良く汗でも滲んでくれれば、例えトイレで呻って朦朧としてもそれはそれで心地良くも感じられるに違いない。


 圭ちゃんも浅利も元に戻った。水月とも一応は暮らしている。ただし、これではいつぞやの圭ちゃんと浅利のようにいつ大喧嘩になるのか知れたもんじゃない。


 そう考えている時だ。


「来た!?」と思った。だが、すぐにそう願って勘違いしたのだと気付いた。



「気のせい・・・か・・・」


 その夜、何事もなかったかのように水月とベッドに横になる。


「お願い。もうちょっと離れてくれる?」と言って水月は早々に背中を向ける。


 一方の私は寝付かれずに暗くなった天井をじっと見つめていた。どのくらい経った頃だろうか、私の身体にギュッと手が絡んで来たかと思うと、水月の身体がピッタリと密着した。耳のすぐそばではスヤスヤとした寝息が聞こえる。



「・・・・ったく」

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