第16話
食事を終えてどのくらい経った頃だろうか。
ショルダーバッグから小さい紙袋を取り出すと、それを両手でテーブルの上を滑らせるように差し出し、
「これ」と恵理香が一言。
(ライターか)と、私はその紙に目を向ける。もちろん口には出さなかった。
あの時と同様のやり取りをした後で、
「早速使って良いかな?」とタバコを銜えて炎を灯す。水月と暮らすようになってもずっと使い続けているライターだ。こうして見ると新しい分だけ光沢がある。これが形見となってしまうのだと思うと違った重みも加わって来るようだ。
「ありがとう・・・・大切に使わせてもらうよ」
礼を述べる一方で、私は次のストーリーを頭に描く。恵理香と最後に行ったあの高台である。
「そうだ。どうかな?これから行ってみない?」
「え!?どこへ?」
「街の明かりが見えるところ。前回はダメになっちゃっただろ?」
「あ・・・・でも・・・・・。また変な人が居たりしたら」
「今度は窓を開けないようにするから──。それとも見ないで帰る?」
これはちょっとした賭けだと言いながら思った。もし、帰りましょうと言われたら用意していた台詞はすべて無駄になってしまうからだ。それもまた運命ならば諦めようとも思ってはいたが。
「行きます」
気のせいか恵理香の目が光ったように感じた。
前回と同じ方向から高台の駐車場を目指した。途中、嫌な雰囲気が車内に漂ったのは、あの一件が浮かんだからだろう。私も何度もルームミラーに目をやった。幸いにして今夜は後ろを走る車は一台も無かった。
「ちょうど良い時間なんじゃないかな」駐車場に車を止めて歩き始めると、
「どの辺から見えるの?」と恵理香が訊いた。時間も早いのか駐車場にある車は二、三台だけだった。
「ちょっと歩いて行った先に良い場所があるんだよ」
答えながら私は二度目じゃないことに気が付いた。そうだ。あの時は結局見ずに帰ったのだ。
「ちょっと寒いな」
態とらしく咳払いをした後、どうぞと差し出した左の肘に恵理香がスッとしがみつく。
あの時と同様の適度な重みが伝わる。
「今日は誰が見てもカップルね」
「フッ。そうなるな・・・・寒くない?」
「ええ。しっかりくっついてるから」
静寂の中に囀るヒールの音が心地よさそうに響いた。
「あっ!綺麗!」
フェンスとフェンスの間にある階段を少しばかり降りて、視界を閉ざす木々に沿うように歩いて行くと、突然、目の前に広がる光の海に恵理香は驚きの声を上げる。私の眼にも新鮮な輝きに見えた。もしかしたらあの時よりも鮮やかかもしれない。
「こんな素敵なところがあったんですね」
「どう?来て良かった?」
「ええ」と恵理香が感嘆の声を上げる。ここに来たことに意味があるような気がした私は次の台詞を探した。以前のような複雑な心境は無数の光の中に紛れ込んでしまったようだ。
「卒検は何時からだっけ?」
と、台本通りの言葉を口にすれば、
「え!?・・あ・・八時半からです」
恵理香もカウンター腰に聞く口調で答える。そして、何かを思い出したように小さく一つ笑うと、
「今度は遅れないで来てくださいね」と続けた。
「そうだな・・・・え!?じゃ、電話に出たのは?」
「もう何も言わないで切っちゃいますからね」
二人で顔を見合わせて笑った。恵理香の笑いは自然だが、私の方は半分演技だ。多少のぎこちなさはこの夜がアシストしてくれるはずだと、光に視線を戻し次の恵理香の言葉を待った。
「もう・・・・・これっきり・・なんですよね」
黙り込んで少し経った頃、突然俯くと恵理香は寂しげな声を揺らす。弱々しい声は私に掛けたようでもあり、自分を納得させるようでもあった。
「ずっと考えていたことがあるんだけど──」
「・・・・何?」
「いや・・今回この教習所に来たのは何かの縁だったんじゃないかって。でなければたぶんこうしてこんな景色を見ることもなかっただろうしね」
「縁!?・・・・・・」
「人の縁ってけっこう不思議なもんだから。切ろうと思っても切れないこともあるし・・・・まぁ人の運命なんてわからないけどね」
そう言い終えるなり私はタバコを口に銜えて、真新しいライターで火を点ける。
乳白色が視線の先の灯りの前にベールのように広がり散って行く。やがて無数のきらめきの中に一筋の白い光が左の方向から現れる。以前も見た覚えのある電車だ。ここでポツリと恵理香が呟くはずだ。
「卒業するまでか・・・・」
それを遮るように私は一言先に呟いた。
「え!?」
「いや、確かにあの夜にそんなこと言ったかなって」
「・・・・・」
「でも言ったことだから、これっきりにしよう。と言ってもさっき話したように人の縁なんて不思議なもんだから──」
終わりを告げられ一度下を向いた恵理香は、また私の方に顔を向けた。
「どうだろ?せっかく携帯の本を買ったんだから岩崎さんも携帯を買ったら。それで誰かに電話を掛けてみる。そこからまた不思議な縁が始まるかもしれない」
「誰かに・・・・」
「そう」と言って私は口の端を少し上げる。遠回しな言い方だったかもしれないが、恵理香も言わずとしたことを理解したようだ。
「掛けてみます」
と先程までとは違うトーンで話し私の腕をギュッと握った。そのタイミングで短くなったタバコを摘まんで投げ捨てようとした私は寸前でその手を止める。
(そう・・・ここでタバコを投げ捨てて恵理香に注意されるんだっけ)
遠い記憶にブレーキを掛けられた私は、足元でその火を消すと、
「ちゃんと持って帰るから」とチラッと短い吸殻をみせた。
それから階段を上って駐車場へと戻り、ラシーンのある『ワールドブックス』まで車を走らせた。今回の書き換えが吉と出るのか凶と出るのか。それは水月の元へ戻ってみるまでわからない。とは言え、今はあの夜には無かった満足感があるのは確かだ。恵理香も同様なのかいつぞやの雰囲気は感じられない。
道中であの日と同じようにラジオのスイッチに手を掛ける。FMから全く同じ歌が聞こえてくる。南沙織の『色付づく街』だ。この後、繰り広げられた会話も私の知る
限りでは特に変わった違いはなかったのではないか。
『ワールドブックス』から百メートルほど先にあるコンビニに車を滑り込ませ、店員に一声かけてトイレに向かう。
鼻孔に覚えのある香りが届くと、私は徐に立ち上がって扉を開ける。照明は消え薄暗い世界だった。それでもなんとか歩けるのは住み慣れた部屋だからだろう。うっかりして時計を見るのを忘れてしまったが、どうせまた三十分程度に違いないと思った。
物音を立てないようにしてそっと水月の横に寝そべると静かに目を閉じた。
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