第11話

 ゆっくり目を開けると心地良い花の香りに包まれた。ラベンダーか何かか。我が家と似たような香りでもあるが、こちらの方が高級感に勝る。次第に辺りのものが映り始めて来る。やはりトイレだった。

 

 ただし、そこがどこであるのかを理解するのには数秒の時間が必要だった。綺麗でお洒落な空間でもあったからだ。



(こ・・・ここは)


 扉を開けて足を踏み出すと、耳にピアノのメロディが届く。騒がしくも無く聞こえない程でもない。一言で上品だ。ジャズか何かなのかと思いを巡らしながら、視線を左右に移動させる。すると窓際の席にブルーのワンピースの女性を見つけた。恵理香だ。


(そうだ・・・・ここは『ロッサ』だ)


 と、いうことは恵理香にメモを渡し、電話が来て『ワールドブックス』で会ってここに来た。


『ワールドブックス』はCDや書籍を始め、文具や携帯電話まで扱う複合の大型店で、恵理香と初めて待ち合わせた場所である。


 何食わぬ顔で歩を進めながらその過程を回想する。それでも、心は穏やかではなかった。


 無理もない。ひと月足らずのことですら忠実に再現できるものなど居やしない。それが数年前なのだ。必死に私は記憶を手繰り寄せ恵理香の前に腰を下ろした。



「え~っと、どこまで話したっけ?」


 間抜けな問いかけにも思えたが、この言葉しか正直思い浮かばなかった。


「え~っと・・・」と恵理香は首を傾げた。あの時に見た懐かしくも新鮮な表情だ。


「そうだ。店でトラック用品なんか販売してて、時々運転したりすることもあるから、免許はあった方がいいだろうって」


「あ・・・それはさっき」と、そっと口元を掌で隠した。


「言った!?そうか。じゃ~」


 照れくさそうに頭を掻く仕草をしながら白いクロスをじっと見つめた。



(料理はまだだから・・・・)


 私はあの時という時間を必死に思い出して言葉を探す。心地良い緊張はお蔭ですっかり消え失せてしまった。


「でもなんだかこうしてるのも変な感じがしない?」


「え!?」


「いつもは何ていうのか、明日の四時五時なんて話してるだけだからね」


「フッ・・・・そういえばそうですね」


 と、恵理香は目を細める。出来ればもっとざっくばらんに話したいものだが、出来るだけ変えてはいけないのだと自分に言い聞かせた。料理が二人の間を飾り始めると、無言だった僅かな間が災いしたのか、つい何度となく呼んだ名前が口からこぼれ出た。



「えり・・・」


「え!?」


「あ~。え‥襟巻とかはしないのかなって。身体も冷えるって言うから」


 我ながら情けない質問だと思ったものの、同時に今のは前に無かったはずだと心配にもなった。この程度なら問題は無いのか。と言っても、すでに言ってしまったことを今更変えることも出来ない。


「さすがにそれは・・・ちょっと」


「そうだよね。それに襟巻なんて今時言わないか」と、苦笑を浮かべた。予想に反してこれは受けたのか、恵理香は両肩を揺らすようにして笑っている。


「でも、膝掛けは使ってたよね?」


「ええ・・・・気が付きました?」


「まぁ、予約取りに行った時だったかな?・・・・あ、そうそう話してばっかりじゃ冷めちゃうから食べて?」


「ええ・・・・、じゃあ。いただきます」


 パスタを上手にフォークで絡めている姿を見ながら、私も同様にパスタを口に運ぶ。不思議と今回の方が美味く感じた。しばらくそんな時間が過ぎてから、


「あの~・・・・私からも訊いて良いですか?」


 と、ジュースを一口飲み終えたところで恵理香が一言告げる。


「あ、どうぞ」

「・・・・奥さんは今日のこと?」


「・・・・知らないよ。まぁ、疚しい気持ちで来てるわけじゃないけど、話してもきっと誤解を招くだけだろうし、だから今日は知り合いと飯食べに行くからって」

「そうですか・・・・あ、それから・・・・断ったメモのこと、怒ってます?」


 同じ映画をもう一度見るような感覚が何より私を落ち着かせた。違和感を生じさせない会話に専念しながら、その先のストーリーを頭に思い描く。これはこれでしんどい作業でもあった。


「今日は吸わないんですか?」

「え!?」


「タバコ」

「あ・・そうか・・・・」


「良いですよ。無理しなくても・・・・いつも美味しそうに吸ってるの知ってますよ」


「じゃ~」と取り出したタバコに火を点ける。前回と違ってこのタバコの味は複雑だった。


「仕事柄動けないんで、退屈になっちゃうとつい待ってる人とか見ちゃったりして・・・・本当はいけないんでしょうけど・・・・よく見てるなって思ったでしょ?」


 あの時と一緒だ。そしてここで驚いたようなリアクションをするのだ。


「え!?」


「だから・・・・はじめ誘われた時、それが原因だとばっかり・・・・」


「いや、それを言うならこっちの話だよ。いつも見てるって思ったんじゃない?」


「いえ、そんなことは・・・」と恵理香は突然何かを思い出したように笑いだす。私も一緒に笑ってみた。出来るだけ自然に振る舞って。


「あの?そろそろラストオーダーになりますが───」


 と、深みのある黒で染められたカマーベストを着たウェイターが見計らったように現れたので、断りと了解を兼ねたように軽く手をあげると、


「すっかり話に夢中になって時間のこと忘れちゃってたよ」と、恵理香の目を見つめた。


「そうですね。・・・・でも良いんですか?本当に御馳走になっちゃって」


「もちろんだよ。お陰でいろんな話を楽しく聞かせてもらったからね」


「いえ、そんな私は何も・・・・なんだか楽しかった」


「そう言ってもらえると誘った方としてもうれしいね。良かったら今度友達でも誘って来たら?」


「そうします」


 恵理香はそう口にするが誘うのは友達ではなく私だ。と言うよりも私でなくてはまずいのだと心の中で思った。


「じゃ、行こうか。あ・・・その前にちょっと」


 小用を催した私は先程のラベンダーの香りのするトイレに向かった。


 男性用の便器の前に立ちファスナーを降ろしたところで、チラッと背後の扉に目を移し、下したファスナーを引き上げる。そして、扉を開けズボンを降ろし便座に腰を下ろした。その時点では便意は催してはいなかった。特に汗も出ていないし、意識が遠のく感覚もない。ただ、なんとなくここに腰かけた感じだ。何かを考えるようにじっと目を閉じる。



 どれくらい座っていたのか。恐らく五分やそこらだろう。そのまま立ち上がってズボンを引き上げると手を洗いに行く。結局催してたはずの小便も出なかった。

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