第9話

────トントン!


 ノックの音で私は目を開ける。薄い板を軽く叩いたような響きだ。そのすぐ後に私の鼻孔にあの匂いが届く。香りではない。便所臭だ。


 右手にはボールペン。左手にはメモ。ただし、今回は何も書かれていないただの紙だった。


(また・・・)


 半分は夢と思いつつも、私はその薄っぺらそうな板の扉にトントンとノックを返す。ほとんど条件反射で、使用中かの問いに応えたわけだ。


 これから紙に文字を書く。その寸前の状況らしいことはなんとなく理解出来た。とは言え何を書けば良いのか混乱した。


(同じ言葉で良いのか・・・。そしてそれを恵理香に手渡せば・・・・)


 誰かが扉の外で待っているのではないかと、じっくり考えてる暇もなかったため、記憶に残っている文字を連ねて外へと出た。扉の外には誰も立っていなかった。そして、受付のカウンターを目指す。年配の人が予約を取っている最中だった。これを見るのは三度目だろうか。前回はタバコを吸いに行ったが、今回は違う場所に腰を下ろして待つことにした。


 やがて、年配の人が片手を挙げてカウンターから離れた。ゆっくりと私は恵理香の前に立ち、


「ヨンゼロイチキュウですが‥‥」と声を出す。

「はい。どうぞ」


 来週の火曜まで予約が取れないことは既にわかっている。ただ、今回は予約だけの話ではない。そう、さっき書いたメモを渡さなければならないのだ。初めての時のような動揺は全くなかった。


 未来は何一つ変わってないと水月は言った。しかし、違う。事実智ちゃんが店で働くことになったのだ。微妙に変わってしまったんだと思った。それ以外考えられなかった。


 それでも恵理香と目が合うとどこまで落ち着いていられるか不安だった。


「え~と・・・・・・」そのためちょっと間抜けな声が出た。


「あ・・明日の五時、六時なんですけど」とりあえずこう切り出した。耳に馴染んだ台詞でもあった。


「え~、明日と明後日はいっぱいですね」


 聞くまでもないとわかっていても、これもメモを渡す過程の一つだと次の言葉を探す。


「じゃあ、来週の月曜日は?」

「月曜の何時ですか?」


「五時、六時で・・・・もしくは朝の九時、十時」

「お待ちください」


 パソコンの画面に向かって操作をする合間に私はメモを右手の中にしまい込んだ。


「月曜はどちらもいっぱいですね」

「じゃ、火曜日は?」


 カチャカチャカチャ・・・・。


「火曜日ですと五時、六時でしたら大丈夫です」


「う~ん、じゃあ、そこでいいかな~?・・・・」

 と答えながら私は隣の貴子さんに目を移す。幸いこちらには全く無関心の様子だ。


「そこにいれていいですか?」

「あ、お願いします」


 カチャカチャカチャ・・・・。


「・・・・あとはどうしますか?」


「え~そうですね~・・・・」と、あの時と同様にカウンターの上を滑らせるようにメモを差し出す。恵理香の視線がメモへと移る。そして、キョトンとした表情。私はメモの文字を恵理香に見せる。それを合図のように白い手がスッと伸びてメモは制服のポケットの収まる。一先ずは成功だ。


「あとはとりあえずいいです」これは〆の言葉だ。恵理香はうっすらと微笑んだ。


 夢か現実かは正直半々だった。とは言え、学習したこともあって『リヴェール』には今回は向かわなかった。どうせ留守ですと言われるのがなんとなくわかったからだ。


 真由美の元へ行くのは足が重いが、それも致し方の無いことなのだろう。夢が冷めれば大したことではなくなる。当然のことながら車はサニーで、四十分ほど掛けてマイホームへと走り、例によって子供らと真由美とのひと時を経て、私は翌朝いつもの調子で店へと向かう。



 ディッキーズのツナギを着た圭ちゃんが掃除をしていた。駐車スペースには磨き上げられたダカールイエローのZ3が止まっている。不思議と懐かしくも見えるが、記憶にある光景そのままだ。


「うんちゃ~っす!」


 圭ちゃんと軽い挨拶を済ませると、早々に威勢のいい声が朝の空に響く。


「朝っぱらから元気が良いね~須田君は~」

「それだけが取り柄っすからって、また須田っすか!?」


 そう言ってからかう圭ちゃんに須藤は嬉しそうに笑った。


「俺に用があるんだろ?」


 私の問いかけが意外だったのか、ちょっと驚いた表情で、


「そうなんすよ!なんでわかっちゃうんすか?」


「手ぶらで朝っぱらから来りゃ、だいたいそんなもんかな~って。おおよそこれの話なんじゃね~の」と、ハンドルを回す格好を見せる。


「さ、冴えてるっすね~。それを聞きにきたっすよ」

「とりあえず受かったよ!」


「じゃ、いよいよ路上っすね」

「あ~やっと外に出られるよ」


「もう場内はいいやって感じっしょ」

「須藤の言ってたことがよ~くわかったよ」


 声に出しながらも、私は変な違和感を覚えるのだった。つい最近もこんなやり取りをしたのだから当然だろう。


「で、結局辞めるんだっけ?」


 次の展開を読んで何気に口に出すと、須藤はちょっと驚いた顔を見せ、


「ここっすか?いや、まだ辞めないっすよ。そりゃ早く乗りたいってのはあるんすけどね。少し様子を見てからでもいいかな~って思ってるんすよ」


「そ・・・そっか」


 前回と話が少し違ってるぞと思いながら、頭の片隅で恵理香へ渡したメモのことを思い浮かべた。


(もしかしたら・・・あれで元に戻ったんじゃないか・・・・)


 ただ、これとて全てではなくほんの一つの出来事に過ぎないため、手放しで安心するわけにはいかない。また、赤いゴルフが入って来るのではないかと、何食わぬ顔で道路の方を眺めた。

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