第8話
「でもホントに大したこと無くて良かった」水月はホッと息を吐き出した。
「もし、和也さんに何かあったら・・・・・」
恵理香が死んでひと月もしないうちに、病で臥せってた母親が急死した。心不全だということだったが、恵理香の死も少なからず影響があったのではないか。父親が家を出たのはそれよりはるか前のことで、今では生きているのか死んでいるのかも定かではない。文字通り水月は独り身になってしまったわけだ。
独り身といえば私とて同様だった。真由美と別れ恵理香と暮らすはずだったのが、あの突然の死である。同情したわけじゃないのだろうが、責任のようなものも確かに感じていた。それよりも独り身同士が傷を舐めあったのかもしれない。
断られると思った。冗談半分で一緒に暮らさないかと持ちかけたのは私だ。無論ダメならダメでなるように生きるだけと覚悟はしていた。だが、水月の答えは違った。
もちろん、最初は戸惑いを見せていた。それでも断らずに考えてみると答えた。首を縦に振ってくれるのにそれほど時間は要さなかった。そして、今の暮らしである。
当初は水月のアパートで暮らそうとも考えたが、手狭で尚且つ環境を変えたかったのだろう。違う場所で新規に暮らしたいと水月は言い、この2DKのコーポ『リヴェール』を見つけた。妹の死で職場にも行きづらいだろうからと仕事を辞めるように言ったのも私だ。籍は入れてはいない。それも暗黙の了解の一つだった。
「でも、考えたらちょっと嬉しいこともあったかしら」
「嬉しいこと?」
「ええ。だって教習所から真っ直ぐここへ帰って来てくれたでしょ?」
「フッ・・・。誰も住んでないって言われた時は参ったけどな」
「その時の顔ちょっと見たかったわね。壁か何かに隠れて」水月はそういって笑みを零した。
コーヒーをゴクゴクっと半分ほど一気に飲んだところで、
「さっき俺が答えられなかった質問だけどさ。もし・・・・仮に未来が変わったとして、恵理香が生き返ったとしたらどう?」
「どう・・・って?」
「恵理香は戻るけど、俺は一緒には暮らしていない」
「・・・・・」
「ごめん。無理だよな。そんなこと答えるのは」
「あの頃だったら恵理香って答えるんでしょうけど・・・・」
「だよな。こってり絞られたもんな」私は何かを思い出したように苦笑いを浮かべる。
水月は黙って穏やかな笑みを浮かべた。幸せそうな笑みだ。
その直後だった。どこからともなく二人の耳に音が届く。何だろうと辺りを見回すようにすると、水月が隣の壁の方に向かって指をさした。その意味深な表情から私も状況をすぐに把握した。防音については割としっかりとしてるはずなのだが、余程の声なのか鮮明ではないにしても、明らかにといった艶めかしい声が聞こえてくる。
「ご盛んみたいだな」
と、カップに残ったコーヒーを飲み干した。
「そうね・・・・」水月も声を耳にしてからは先程とは異なる顔になった。
「和也さんは知らないでしょうけど、たまに昼間も聞こえることがあるのよ」
「昼間に?」
そう言って壁の方に耳を向けると、隣の水月がギュッと脇腹をつねった。
「聞かないの!」
ふくれっ面を見せる水月の肩をグイと引き寄せると、私は耳元に向かってこう囁いた。
「ベッドに行くか?」
休み明けの月曜日は夢の世界よりも三十分遅く家を出た。部屋を出て車に向かって歩いて行く。文字通りいつもと同じ朝だ。
少し離れた位置に愛車が見えた。よくよく見ればやはりアルピンホワイトの白はどことなく鮮やかさが違うようにも見える。圭ちゃんから安く譲り受けたBМWの318(サンイチハチ)だ。
マッチ棒のリモコンを操作してドアを開くと、堅目のシートに腰を下ろす。乗り始めた頃はガチガチの堅さにも思えたものだが、こうして何度も乗ってみるとこれがしっくり来るし、疲れないことも知らされた。まさに大陸を横断する車だ。
クラッチを踏みギアを一速に入れゆっくりと発進させる。オートマ生活が長かったが、割と違和感がないのは教習所のお蔭だろうか。
住む場所を変えてからは圭ちゃんとほぼ同じ通勤時間となった。このくらいで行けるのは楽で助かるものの、お気に入りのCDを全部聴けないのが辛いところか。
圭ちゃんの方がほんの僅か早かったようで、ちょうど車から降りるところだった。
同じBМWの318だ。
私に車を譲った直後に知り合いの車屋から並行輸入したものを購入した。その為左ハンドルだ。やはり慣れ親しんだ左の方がしっくりくるのだろう。それ以外の違いと言えば色と車高で、買って早々に車高調を入れたらしく、圭ちゃんの方が低く精悍さが増している。同じ左ハンドルだった以前のZ3(ゼットスリー)と同様、駐車スペースには必ず左側で、私はその右側に止める。これだと五十センチ程度に寄っても問題なく乗り降りが可能なのである。もっとも駐車スペースに二台もBMWがあるものだから、常連さん以外にはきっと景気の良い店に見えるに違いない。
「おはよう!」
「おはようございます。やっぱり近くなると早いですね」
「まだ、なんだか物足りない感じがするんだけどな」と言って圭ちゃんの車を眺める。
「良い色だな」すると圭ちゃんも自分の車を眺めて、
「ホントはもっと暗い色にしたかったんですけどね。智美がうるさいんで間を取ったんですよ。今でも親父っぽいとかブツブツ言ってますけど」と苦笑を浮かべた。
まさにあれは夢で何事も変わっていないのだと安堵したのもつかの間、一台の赤いゴルフが敷地に滑り込んで来る。智ちゃんのゴルフだ。
「!?」
その光景に私は口をあんぐりと開けて消えつつある記憶を思い浮かべた。
(ま・・・まさか・・・)
二人の前に計ったように車が止まると運転席の窓がスーッと降りて、智ちゃんは何かを差し出した。
「おはようございまぁ~す。あ、圭ちゃん。これっ!」と布で包んだものを手渡した。
「おっ!サンキュー!」
「弁当か・・・」事態を把握した私はフーッと息を吐き出した。
「休みの時くらいわざわざ弁当作らなくても良いんですけどね。一個くらい作るの手間じゃないですか」
「ま~そういうなって。一食助かるんだから有り難いと思わなくちゃ」
「そうですね。あ、そうだ!今度島さんの分も作るように言いましょうか。二個も三個も変わんないでしょ。そうしたら三人で食えるじゃないですか」
「!?」
三人と思わず口から出そうになった。その言葉を飲み込んでいると、
「でも、最初はどうなるかって心配してたんですけどね。来たての頃はラッパなんて言ってたのがヤンキーとか言えるようになりましたし───」
どの辺からだろうか。圭ちゃんの言葉が良く聞こえなくなっていくような気がした。
(来たて・・・働いている・・・智ちゃんが・・・ここで!?)
そう思った途端、ジワリと額から汗が滲み始めた。
(こ・・・これは・・・・)
咄嗟に何か感じ取った私は、
「圭ちゃん。ちょっと腹痛くなっちゃったよ」そう言うなり店のトイレに駆けだした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます