第7話

────ドン!ドン!ドン!



 何か音が聞こえる。そうだ。これは扉を叩く音。ノックというよりはやや激しくも聞こえる。


「ねぇ~っ!和也さんっ。大丈夫なの?」


 その直後、聞き覚えのある声が耳に届いた。その声と共に私の視界に色が灯りはじめ、やがて様々なものが映り出した。あれだけ大量に出ていた汗も今はその痕跡もないほど額はすっかり乾いていて、嵐が過ぎ去った後の天気のように気分は穏やかだった。


「水月‥か?」


「大丈夫っ?」


「ホントに水月なのか?」


 そう言葉を発して私はトイレの鍵を捻った。扉は外側からすぐに開けられた。


「あっ!?」


 そんな声が聞こえたかと思うと、大きく開いたドアが半分ほどスーッと閉じられる。考えて見たら私は全裸だ。初めて見るわけでもないにしろ、さすがに便座に裸で座っている姿を目の当たりにすれば戸惑っても当然だ。


「ちょっと待ってて」


 慌ててベッドへ戻ったのか、ものの数秒で下着とパジャマが私の元へ届き、扉の隙間からそれが差しだされた。


「悪いな」一言だけ呟いて身支度を済ませると、扉をゆっくりと開く。そこには心配そうな水月の顔があった。



「平気?」「ああ‥‥なんとか」「なんだったの?」「さぁ?・・・・何なんだろ?」



 はっきりとした答えが自分でもわからなかったため、曖昧な返事しか出てこない。私はフーッと息を吐き出すようにして六畳間にあるソファーに向かった。


「青白い顔してるわよ」


 腰を下ろすと同時に部屋の照明が灯され、水月が私の顔をまじまじと見つめる。


「青白い?そうか。・・・・でも、だいぶ気分は良いよ」

「そう、なら良かったけど、心配したわ」


「悪かったな。これからって時に」

「いいわ・・・そんなこと」


「コーヒー・・・・淹れてもらってもいいかな?」


 十分ほどぼんやりしたまま壁を眺めていると、湯気よりも先にコーヒーの香りが鼻孔に届いた。


「お待たせ」


 自分の分も淹れたのかカップを目の前に置いてからもう一つのカップを手にしたまま水月は隣に腰を下ろす。真空パックで淹れるコーヒーは二人のお約束でもあった。


 ゆっくりとそれを啜る。すべて水分までも排泄したような後だったので、熱いコーヒーが身体に沁みた。それから息を一つ吐いて、



「夢を・・・・・夢を見てた」と呟いた。


「夢?」


「ああ‥‥夢・・・・だったのかな?」確信などなかったにせよこう答えるのが精一杯だったのだろう。水月は黙っていた。


「恵理香に会った・・・・いや、出てきたというか」

「恵理香が・・・・そう」


「教習所の受付に座ってたよ」

「教習所・・・・・きっともう少しであの子の命日だからってのもあるのかしら?」


 再び水月が壁のカレンダーを見上げる。

「気が付いたら教習所の便所にいたんだ」


 私がそういうと水月はちょっと表情を緩ませた。


「トイレで朦朧として気が付いたらトイレって、夢らしいわね」


「だけど・・・・」と私は眉間に皺を寄せる。


「夢にしてはなんというか生々しいって言うか。タバコの味までわかったんだよな」

「味まで?そんな気がしたってことなんじゃない。それともタイムスリップだったりして!?」


「ま・・・まさか。小説や映画じゃあるまいし───」

「ちょっと言ってみただけ」話す方もあやふやなのだから聞く方も恐らく同様だろう。


「でもちょっとその話聞かせてくれる?」水月にしても今は居ない恵理香の話を聞きたいのかもしれないと、私は先程まで流れ続けていたストーリーを思い出しながら語った。


 その光景を思い描くように黙って水月も耳を傾けている。どのくらいまで話しただろうか。


「夢にしては・・・・現実的な感じね」とポツリ。「だろ?」私も答える。


「それでどこでその夢は終わったの?」


「店の中だったな。伝票をもらってサインしようとしたらまた汗が出て来て・・・・・。それで智ちゃんに初仕事だから受領印押してくれって頼んで、そのまま店のトイレに・・・」


「そこでもトイレなのね」今度はフフッと声を出して水月は笑った。


「確かに、トイレばっかりだな」私も口元を緩めた。


「でも、ちょっと妬ける・・・」


 視線を斜めに落として呟く水月に、


「妬ける?どうして?」


「だって」と一言いってから、「恵理香や前の奥さんとか出て来るのに私は一度も出てこないんだもの」


「そりゃ、あの時はまだ恵理香と付き合ってもいなかったんだから、水月の存在がないのも当然だろ~」


「わかるけど‥‥」と納得した様な顔を見せてから、「それでも出て来るのが夢ってもんじゃない?」あくまで自分の存在をアピールしたい様子だった。


「夢か・・・・夢なんだよな」と、つい少し前と似たような言葉を出せば、


「夢じゃなかったら?もしかして?」


「いや・・・・」その問いかけには答えようがなかった。


「もし・・・・もしよ」念を押すように言った後で、


「仮にタイムスリップだとしたら、何か今変わってる?」


「今?」


「ええ。だってそこで渡すはずだったメモを捨てちゃったんでしょ?そうしたら未来が変わってたりするじゃない。小説とか映画なんかの話だけど」


「そりゃそうだけどさ」


「でも私はちゃんとここに居て和也さんと暮らしてる。もし、未来が変わってたとしたらたぶんここに居るのはきっと恵理香よ」


「・・・・・」


「その方が良かった?」

「いや・・・・」


 出せない答えを探しあぐねている私に、


「ごめん。そんなこと答えられないわよね」とすぐに助け船を出してくれる。正直どちらとも答えられなかった。

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