第6話

 202の扉の前に立ちチャイムのボタンに指を掛ける。オヤッと思った。聞こえるはずのチャイムが聞こえない。もしや壊れたのかとノックをしようとしたが、面倒だからとズボンのポケットを弄っていると、通路を歩いてくる人の気配を感じた。手を止め横を向く。隣に住むちょっとぽっちゃりした女性だった。確か結婚して半年ほどの新婚さんだ。


「どうも。こんばんは」


 時々顔を合わせるので気さくに挨拶してみたのだが、挨拶を返す女性の私を見る目は驚きと疑問に満ちていただろうか。



「あの・・・そちらに御用ですか?」


 そう言ってスーパーの買い物袋を逆の手に持ち替える。


「え!?」と思わず口にすると、


「そちらにはもう誰も住んでいらっしゃいませんけど」


「住んでない?」


「ええ。先週くらいだったと思うんですけど、引っ越して行かれましたよ」


「引っ越し!?」



 頭の中が混乱した。それでも何かを理解したのか、


「あ・・・そうでしたか。それならそうと連絡くらいしてくれれば・・・・」


 と、独り言のように呟いてから照れ臭そうに笑って見せる。うまくごまかせたのかは全く不明だった。


 車に戻りながら私はその建物を振り返って見た。先程の部屋は暗闇の中に紛れていた。


(引っ越し・・・・留守・・・)


 キーワードのような言葉が頭の中をグルグルと回る。脳細胞のどこかに異常が出ているのかとさえ思った。


 それから数分後、私はサニーのキーを捻り別の場所を目指して走り始めた。


 目の前に広がる景色もどこか上の空で、自分で運転しているのかもわからない感じだった。このままでは事故るのではと、私は一息つこうと目にしたコンビニに車を乗り入れる。そして、缶コーヒーを一本買って外に設置された灰皿の横に立った。


 取りだしたタバコに火を点ける。それからプルタブを引いてコーヒーをゴクリと音を立てて一口飲んだ。こうしていればただの一人の男が仕事帰りにでも寛いでいるようにしか見えないだろう。こちらが見ている景色にも特に違和感は無い。


 徐にポケットに左手を突っ込むと、指先に紙が触れた。渡さなかったメモだ。教習所の話も聞けたし、恵理香との行く末も知っている。楽しくもあったが、今となってはあまり触れたくない過去でもある。


 今更持っていても何の役にも立たないと、コンビニの外に置かれたゴミ箱にそれを二つに千切って投げ入れた。



「・・・帰るか」


 自分に言い聞かせるようにしてサニーのハンドルを再び握った。


 マイホームと呼んだ家に着いたのは、それから三十分後のことだった。サニーのカギのキーホルダーに付けられた家の鍵を手にして、何度となく開けた扉に手を掛ける。差して回したのか、回さなかったのか曖昧だった。



「あっ!お父さん!」「パ~ッパッ!」


 二人の子供たちが私の帰宅を知ってすぐに玄関に駆け寄ってくる。バタバタと騒々しいほどの足音である。


「おーっ!ただいま~」


 何十、いや何百と声にした台詞を私は口にした。


「おかえりぃ~!」「えりぃぃ~!」


 上の千明の真似をして下の里美も声を出す。本人にしてみれば同じことを喋ってるつもりなのだろう。


「あらあらっ!にぎやかなこと」と言いながら真由美が顔を見せる。どこか穏やかな表情に少しだけ私は疑問を浮かべた。


「さぁさぁ、お絵かきの途中だったでしょ。早く描いてパパに見てもらわなくっちゃね」


 真由美がそう促すと、思い出したように二人の子供たちはリビングに向かって駆け出した。


「もう、賑やか過ぎて疲れちゃうわ」


 どこまでが本音なのか、真由美の顔は楽しそうだ。


 靴を脱ぎそれを揃えようとすると、慌てて真由美はそれを制し、


「いいわよ。そんなことまで。それは奥さんの仕事ですから」と早々に靴を揃えてクルッと向きを変えた。


 恵理香をメス犬とまで言って罵った真由美がまるで別人じゃないかと、こんな夢ならば見ていて楽しくなってくるから不思議だ。子供らを追ってリビングに向かおうとすると、背後から声が届いた。



「ねぇ・・・・」


「ん!?」と振り返ると、


「今夜・・・・ね」と真由美が片目を瞑る。そうウインクだ。真由美がそんなことをしたことがあったかと記憶を辿ったりもしたが、子供たちのサプライズか何かがあったのかと、「今夜?・・・・・何かあったっけ?」と真顔になって答えると、


「何かって。そんなことを女から言わせるつもりっ!」


 と、私の脇腹をグイッとつねった。それで何のことなのか理解したのだが、ある意味理解できないことでもあった。二人の子供が生まれてからは、俗に言われる男女の関係は消え失せている・・・・はずだ。正しくははずだったか。


 そんなことはどうでもいい。ただし、はいわかりましたとは口には出せなかった。


「いや・・・・ちょっと今日は調子が悪くってさ~」


 と、世間一般的な台詞で間に合わせてみた。


「そう・・・・もぅ」


 ただし、真由美の方は明らかに不機嫌そうだった。

本来ならここでスパッと切り替わるのが真由美の性格なのだが、今夜は少々いつもと違った。子供たちを寝かしつけベッドに向かうと枕が二つあった。一人で確か寝ていたはずなのにと思っているとネグリジェ姿の真由美が現れる。とりあえず片方の枕を使って横になると、それを合図のように真由美も隣に横になり、すぐに私に身体を押しつけて来た。


「ねぇ~~っ。ホントに調子悪いのぉ~?」


 あまり耳にしたことの無い鼻声を出しながら左手で私の下腹部を探り始める。


「ホントに今日は変なんだよ」


 あからさまに拒否して本来の真由美が目覚めても困ると思ったのか、当たり障りのない答えを口にすると、


「そう言って私を焦らしてるんじゃない?」と、またしても耳慣れない言葉。


 真由美のそんな光景などとっくに記憶から消え失せてしまっていて、もはや思い出すことすら出来ないと思ったのが良くなかったのか、真由美の指の感覚ですらわかないほどになっていた。


「もぉ~っ!」


 さすがに反応しないことに諦めたのだろう。そう一言漏らすと、スッと向きを変えて私に背中を見せた。夢の中くらいなら真由美を抱いても良いのかと思いつつも、どこか私はホッとしたように天井を眺めた。



 夢か・・・・。


 だとしたら朝の渋滞なんかきっと無いのかもしれない。もしかしたら自分の車だけってことも有り得るし、宙に浮いてるってことも。そう考えると朝の通勤も面白そうに思えた。



 そうだ。明日は気分を変えて五月橋から行ってみるか。

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